私 2007年9月

第一章

 ノートを忘れたことに気がついたのは切符を買った時だった。


 私は駅の時計で時間を確認してから、券売機のタッチパネルに触れた。日曜の午後四時三十分。それはひどく中途半端な時間に思えた。もう少し遅ければ家に帰って映画の一本でも見て寝ただろう。もう少し早ければ、どこかに買い物に行くことができた。しかし四時半という時刻は、今日という日に残された七時間半という時間の使い道について、私にどのような考えももたらさなかった。


 もちろん、七時間半という時間は何をするにも十分な時間だった。七時間半のうちに、誰かと一生忘れられない出会いをする可能性だってもちろんあるだろう。しかし、それはあくまで可能性の話であって、現実の世界を見渡せば、太陽はすでにもう半分の空へと向かって下降を始め、地球の裏側を支配し終えた闇の気配が東の空にちらちらと顔を覗かせていた。私はこのタイミングで喫茶店を出たことを後悔した。


 券売機から吐き出された切符を手に取り、財布を鞄に戻そうとしたときに、私はノートを喫茶店に忘れてきたことを思い出した。だからといって特に焦ったりはしなかった。するべきことが一つ増えたに過ぎなかったし、それは今の私にとってむしろ歓迎すべきことだった。私は今一度切符の感触を確かめてからそれをポケットにしまい、ついさっき来た道を引き返した。


 私がいた時には(それはほんの十分前だったが)ほぼ満席だった店内は、今は空席が目立った。日曜の午後の四時半というのはそんな時間なのかもしれない。日が傾いて、カラスが鳴き、人々はそれまでいた場所を後にする。そして夜が訪れるまでの空白をどうやり過ごすか頭を悩ませるのだ。


 私が座っていた席も今は空いていて、見たところノートは無かった。私は席の近くまで行き、やはりノートが無いことを確認してから、隣の席にサンドウィッチを運んできた若い女の店員を捕まえた。

「あの、すいません」

 そこまで言ったところで、ふと隣の席のテーブルが目に入った。

「はい?」

「あ、いえ、何でもないです」

 私がそう言うと、女性の店員は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに愛嬌のある笑みを残して戻っていった。


 私は改めて隣の席を見た。テーブルの上にはたった今運ばれてきたサンドウィッチのほかに、半分ほど減ったホットコーヒーと吸い差しの煙草がのった灰皿があり、そして一冊のノートがあった。そしてそのノートはまず間違いなく私のものだった。


 その席に座っているのは若い男だった。年齢はおそらく私と同じくらいだろう。然るべき散髪時期を逃し、ぼさぼさとだらしなく伸びた髪が私の目を引いたが、そのほかに特徴らしい特徴はなかった。彼はどこにでもいるような顔つきをした若い男で、どこにでもあるような服を着ていた。おそらく店を出るころには彼が何色の服を着ていたかも覚えてはいないだろう。男の向かいの席にはギターケースが立てかけられていた。やはりどこにでもあるギターケースだ。男は視線をノートの上に落としたまま、サンドウィッチをかじり、コーヒーを啜り、煙草を吹かした。


「あの、すいません」


 さっきと同じセリフはさっきより緊張感をもって響いた。しかし、男は相変わらず熱心にノートを読んだまま、私の言葉には何の反応も示さなかった。私の言葉は食器の触れる音ほどにも男の気を引かなかったようだった。私はもう一度同じことを言うために、しかしさっきより大きな声を出すために、さっきよりも多くの空気を吸った。その時だった。男が顔を上げ、男の目が私の目を捉えた。心臓がその音を一オクターブ上げた。

「あの、そのノート……」

 肺にまだ空気は存分に残っていたが、私はそれ以上の言葉を思いつくことができなかった。肺に残った空気はため息として消費された。私はそれが悪い印象を与えはしなかったか少し心配したが、男は特に気にしていないようだった。男は、「あぁ」と短い声を上げ、ノートの表紙を見、裏表紙を見、裏表紙から一ページ目を見た。私の名前を探していたのかもしれないが、あいにく中学を卒業して以来ノートに名前を書いたことはなかった。


「これ、君の?」

 そう言いながらも、男の目はまだノートに並んだ文字の列を追っていた。他人のものを無断で読んでいることに罪の意識を感じてはいないようだった。

「そうです」

 私はそう言ったが、男はノートを読むことをやめなかった。私は次の言葉を探しながら息を吸い込んだ。

「感想を述べても?」

 私は少し混乱した。感想? 行き場を失った息は再びため息となって吐き出された。息が合わないとはこのことだ。

「ノートを読んだ感想ですか?」

 男は何も言わずに煙草を口にくわえ、勢いよく煙を吐き出した。それがイエスなのかノーなのか、それとも私の質問は彼のもとに辿り着く前に中空に消滅してしまったのかは、私にはわからなかった。


「結構です」

 私はさすがに苛つき始めていた。これならモンゴル人に魚を分けてもらうほうがよっぽど簡単だ。

「面白いと思うよ。話の筋は独創的だし、スローテンポな文体がそれによく合ってる」

 男はノートをぱらぱらと捲り、何度も頷きながらそう言った。「結構です」をイエスの意味にとったのかもしれないし、端から私の返事など気にはしていなかったのかもしれない。おそらく後者だろう。そこでようやく男は私にノートを手渡した。そしてサンドウィッチを一口かじり、コーヒーを啜ると、煙草の火を消した。

「そこに行ってみるといい。きっと君も気に入るはずだ」

 男はノートを指差しながらそう言うと、立ち上がり、ギターケースを背負った。

「そこってどこですか?」

 私は当然の質問をしたが、やはり私がそう質問したことは無意味だった。男は私のほうを一瞥しただけで、そのまま店を出て行った。私はしばらくの間どうすることもできずに、ただその場に立ち尽くしていた。私の頭の中で、行き場を失った疑問と苛立ちとが渦を巻き、形のない混沌を作り出していた。


「通してもらえませんか?」

 ふと後ろから聞こえた声に気づき、私は振り返った。見ると、オレンジジュースとクッキーの載ったトレーを手にした背の低い白髪の老婦人がいた。それまで彼女の視線は私の背中なり後頭部なりに向けられていたのだろうが、私が振り向くとそれは私の手の中のノートに移った。

「あ、ごめんなさい」

 私はやっとのことでそれだけの言葉を口にし、一歩横へ避けた。老婦人は軽く会釈をすると店の入り口のほうへと歩いていき、老紳士が新聞を開いている出入り口の脇のテーブルに着いた。老紳士は老婦人の持ってきたオレンジジュースとクッキーを見るとそれらについて何か言い、老婦人はそれに対して別の何かを言った。


 私は手の中のノートをぱらぱらと捲りながら、店を出た。と、最後のページに何か書かれていることに気づいた。そのページに何か書いた覚えはなかった。それは地図のようだった。地図は横向きに描かれていたので、私はノートを九十度傾けた。中央には長方形の囲みの中に中央線の駅名が書かれており、そこから左右に一本ずつ線が引かれていた。その線より上の部分には『北』の一文字があるだけだった。それに対して下の部分には何本かの道路(で間違いないだろう)が縦横に描かれていた。そしてページの右下を横に走る道路の途中に星印が付けられていた。それが何かの場所を示していることは明らかで、そしてそれは彼の言った『そこ』に違いなかった。


 私は顔を上げ、辺りを見回した。しかし、彼の姿はどこにもなかった。彼が店を出てからややしばらくの間があったから、それはもっともなことだった。もっとも、そのころには案の定、彼の服の色も覚えていなかったが。

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