第3章
バイトからの帰り道にスーパーに寄り、家に帰るとカレーを作った。一人暮らしを始めてから俺の生活で最も変わったことの一つが、カレーを食べる機会が増えたことだった。一人暮らし三年目にもなれば目を瞑っていても作れたが、それでも、俺は毎回決まってパッケージに記載されている作り方を一読し、書いてあるとおりに作った。それが俺の性格なのだろう。おかげで、どこのレストランのショーウィンドーに並べても恥ずかしくない、典型的なカレーが出来た。
それを半分ほど胃に収めたところで携帯電話が鳴った。葵だった。
「もしもし。どうした? 珍しいね」
葵が俺に電話をしてくることが、だった。
「ちょっとね。今、ひま?」
「これはまたぶしつけだな」
「いつものようにね」
「自覚はあるようで安心した」
「で?」
「バイトから帰ってきて、晩飯食べてるとこ」
「随分遅い夜ご飯ね」と葵は言った。
俺は煙草を一本取り出し、火を着けた。枕元のデジタル時計は十時二十分を示していた。
「バイトがある日はいつもこんなもんだよ。もっと遅い日もざらだ」
「体に悪い」
「確かにね」
「タバコも」
「見えるのか?」
俺は驚いて言った。
「長い付き合いだからね。手に取るように」と葵は言った。
「それで、どうした?」
「ちょっとね……」と葵ははっきりしない声で言った。足元の石を拾い上げながら呟くような言い方だった。
ひょっとして、と俺は思った。何か根拠があったわけでも、以前に同じようなことがあったわけでもなかったのだけど、ただ何となくそんな気がして、俺は玄関へ行くと扉を開いた。こちらに背を向けて電話をしていた葵が驚いたように振り向いた。その拍子に、顔ほどの高さに放った何かが手のひらを掠め、ちょうど俺と葵の中間の辺りに転がった。葵は本当に石ころを持っていた。
「どうしてわかった?」
目の前の葵がそう言うと、電話の向こうの葵が半秒遅れてそれを繰り返した。俺は電話を切って言った。
「長い付き合いだからね。手に取るように」
「この程度じゃ、ニコは驚かせないってか」
「目の前から突然消えでもしない限りね」
「煙のように?」と葵は言った。
「あるいは、シャボン玉のように」と俺は言った。
葵は部屋の真ん中で立ち止まると、辺りをきょろきょろと見回した。
「模様替えしたね」
「あぁ、春休みのうちにね。テレビと本棚を入れ替えたんだ。おかげでテレビは見やすくなったけど、勉強時間は減った」
俺がそう言うと、葵は短く笑った。前回葵が来たのはいつだったか思い出そうとしたが、随分前だったということしか思い出せなかった。
「はい、お土産」
葵はテーブルの向こうに座ると、そう言って袋の中身を取り出し始めた。ビールが三缶と酎ハイが五缶、それにワインのハーフボトルが一本、まるで結婚発表をする芸能人を取り囲む記者のように、カレーの周りに並んだ。
「言ってなかったかもしれないけど、俺は一人暮らしなんだ」と俺は言った。
「聞いたことはなかったけど、そうじゃないかと思ってたわ。この部屋の広さだと、住めてせいぜいあとハムスター一匹くらいだろうし」と葵はビニール袋を折りたたみながら言った。
「いくらなんでも気前がよすぎないか?」
「私の分も入ってるの」
葵はビール一缶と酎ハイ二缶を自分のほうに引き寄せた。
「それにしても、な?」
「いいじゃん、飲もうよ。何かつまみある?」
他につまみになりそうなものが見当たらなかったので、冷蔵庫から福神漬けを出した。そして俺たちはビールを開けて、静かに乾杯した。葵はおいしそうに福神漬けをつまみ、俺はカレーの残りを食べた。テレビではお笑い番組をやっていて、葵は時々大きな声で笑った。
「それで?」
コマーシャルになったところで俺は言った。
「何が?」
「何かあったんだろう?」
俺の顔に向けられていた葵の視線がテーブルの上の酎ハイに落ちた。
「べっつに」
「何にもないのに、来たりしないだろう?」
「あら、随分ね。私たち友達じゃない。何もなくたって来てもいいでしょ?」
葵はわざと拗ねたような表情をした。
「だからさ。俺たちは友達だ。新聞の勧誘とは違う。友達は連絡もなしに突然来たりはしない」
俺のその言葉に、葵は答えなかった。「何かがない限りね」と俺は付け足した。
コマーシャルが終わり、コントが始まった。葵は今度は笑わなかった。窓の外の景色を眺めるように、テレビ画面の一点をじっと見つめていた。
「本当に何でもないの」
しばらくして、呟くように葵が言った。
「言いたくない?」
「今はね」
「そう」
今は、か。それから俺はふと思いついて言った。
「時の翁って知ってる?」
「トキノオキナ?」
「そう。魔法使いみたいなローブを着た禿げ頭のおじいちゃんで、地面まで届くようなあごひげがあって、手に大きな鎌と砂時計を持ってる」
「何、それ?」
「ヨーロッパでは時はそう擬人化される」
「ふぅん」と葵は声を漏らし、それから、くくっ、と笑い、「可愛い」と言った。どうやら、時の翁の姿を思い浮かべているらしかった。
「砂時計で世界の時間を計ってるのかしら?」
「そうかもしれない」
まさか、カップラーメンを食べるためではないだろう。
「鎌は何のため?」
「え?」
「大きな鎌も持ってるんでしょ? それは何のためかな?」
「さぁ」
それっきり会話が途切れた。俺は新しいビールの口を切ると、黙ってそれを飲みながら、時の翁の大きな鎌について考えた。
「その砂時計は、きっとすごく正確なのね」としばらくしてから葵が言った。
結局、俺たちはワインを残して自分たちの持分を全うした。歪んだ世界の中で、葵は頬を薔薇色に染めていた。
「泊まっていってもいいかしら?」
お笑い番組が終わり、ニュースが始まったときに葵が言った。
「もちろん。そのつもりで来たんだろう?」と俺は言った。大物政治家の家が放火されたというのがその日のトップニュースだった。
「よくわかるのね」
「長い付き合いだからね」
「帰るつもりはあったのよ」
「でも帰れないだろうとも気づいてた?」
葵は俺のほうにちらりと視線を遣してから、また少し笑って言った。
「よくわかるのね」
俺は手付かずのワインを冷蔵庫にしまい、使った器を流し台の中に置くと、テーブルやら座布団やらをどけて出来たスペースに布団を敷いた。俺がそれらの作業をしている間、葵は本棚を物色しながらエリック・クラプトンの『ワンダフル・トゥナイト』を鼻唄で歌った。かなり酔っているようだった。
「気分は大丈夫?」
俺がそう訊くと、「えぇ、今夜は素晴らしい気分だわ」と葵は答え、笑った。紅潮した顔がいっそう赤らんだ。
「ねぇ、これは何?」
そう言いながら、葵は一冊の冊子を取り出した。
「うん? あぁ、小学校のときに詩で賞をもらったことがあって、その時の詩が載ってる」
「へぇ、すごいじゃん。文部大臣賞とか?」
感心したように言うと、葵はぺらぺらとページを繰った。
「いや、『大変よくできたで賞』だったかな。まぁ、それが俺のもらった賞と名の付く最初で最後のものだから、そういう意味では貴重だ」
「『朝日の差し込む教室に……』」
「できれば、黙読にしてくれないか?」
俺がそう言うと、葵は黙って十二歳の俺が書いた詩を目で追った。
「いい詩だわ。それに『大変よくできたで賞』じゃなくて知事特別賞よ」
「そうだっけか?」
「何か賞品はもらったの?」
「その本棚」
「この本棚?」
葵は屈んだ自分と同じくらいの高さの白木の本棚を、左の手のひらで軽く二度叩いた。
「そう」
「物持ちがいいのね」
「いい本棚なんだ」と俺は訂正した。
その時だった。忘れかけていたある出来事の断片が、ほんの一瞬だけ俺の脳裏に浮かんだ。忘れかけていた感覚と言ってもいいかもしれない。唐突に俺の意識の表層に顔を出したその感覚は、またすぐに、忘れられた無数の感覚が眠る深い淵の底へと静かに沈んでいった。
「うん? どうした?」
俺が葵の手元を見つめていることに気づき、葵が言った。
「いや、何でもない」と俺は言った。
目が覚めると、ちょうど葵が玄関で靴を履いているところだった。
「もう帰るのか?」
痰が絡んで声がうまく出なかったが、葵は振り向いた。
「一限があるから」と言うと、自分の足元に目を落とし、「起こしてごめんね」と言った。
「もうそんな時間か……」
「ニコは何限から?」
俺は少し考えてから、「二」と答えた。もっとも、正確な曜日を思い出すまでもなく、俺の時間割は月曜日以外すべて二限から始まっていた。ただ、昨日学校に行ったかどうか思い出すのに少し時間が要ったのだ。
「そう。二度寝して寝坊しないようにね」
そう言うと葵は玄関の扉を開き、ひらりと外に出て行った。葵の開けた扉から、ほんの数秒だけ透明な日の光が差し込んだ。葵の乾いた靴音が少しずつ遠のいていく。
部屋の中に静けさが戻ると、俺は枕元のデジタル時計で時間を確認した。六時を少し回ったところだった。一限が始まるまで三時間近くもあった。
次に気がついて時計を見た時には、二限の開始時刻まで十分を切っていた。瞬間移動でもしない限り、どう頑張っても遅刻は確実だった。
「よくわかってる」
俺はそう独り言ちると、布団の中で大きく一つ伸びをした。
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