俺 2007年5月

第2章

 朝の九時に目を覚ますと、シャワーを浴び、トーストを二枚焼いてイチゴのジャムを塗って食べ、歯を磨き、自転車で大学へ向かった。そして九十分の講義を聴き、何人かの友人と食堂で昼食をとると、再び自転車に跨り、バイト先の喫茶店を目指した。


 それはこの一ヶ月の間、俺が毎週火曜日に行ってきたことだった。時には九時ではなく九時半に起き、イチゴジャムではなくマーマレードを塗った。雨が降れば電車で通学したし、昼食のときの友人の顔ぶれも変わった。しかし、生活の根本的な部分は何も変わらなかった。繰り返し訪れる日々は、機械で大量生産されたぬいぐるみに似ていた。一つ一つを見比べれば細部は確かに異なっていたが、まとめて棚に陳列してしまえばもう見分けはつかなかった。


 だからと言って、俺はそのことに疑問や不満を抱いていたわけではなかった。それは当然であり、仕方のないことだと考えていた。言わば諦めていたのだ。ある偉人が言ったように、人生は駆け抜けるものではない。俺はただ、変わらない毎日の積み重ねに少しうんざりし、そして、いつかは訪れると気づいていた根本的な変化を恐れていたのだった。


 もっとも、「変わらない」というのは内側から眺めた時に受ける印象であって、実際には俺の日常も他の数多の日常と同じように、縦横無隅に張り巡らされた時間の網の中にあった。そして着実に移ろう季節がそのことを感じさせた。ついこの間まで満開だった桜の木にも若葉の瑞々しい緑が混ざり始め、散った花びらは道の両端を淡紅色に縁取った。日差しは暖かく、人々は上着を脱いで公園のベンチに座り、幾分眠たげに話をした。長い冬の季節を抜け、過酷な夏に至る前のほんの一瞬の穏やかな空気の中に、街はあった。


 俺は自転車を店の脇に停め、中に入った。店内には五、六人の客がいて、皆俺の顔を見ると心地よい笑顔をこちらに向けて挨拶をした。俺も同じように笑顔を返した。この店に来る客は常連がほとんどで、マスターや俺とはもちろんのこと、客同士も顔を見知っていた。俺は鞄をカウンターの奥に置き、エプロンを締め、手を洗いながら、マスターに「こんにちは」と挨拶をした。


「こんにちは。どうだい?」


 マスターはいつも決まってそう尋ねた。母親が夕食の席で小学生の息子にするように、あるいは、英会話教室で取り交わされるやり取りのように、毎日同じ質問が繰り返された。初めのうちこそ、マスターが何について尋ねているのか理解できずに戸惑ったが、やがてそんなことは気にしなくなった。マスターは言わばあらゆることに関して尋ねているのであり、「何が」の部分は俺に委ねられていることを俺は知った。だから、何か思いつくようなことがあればそれについて話し、何もなければそう告げた。


「特に変わったことはなかったですよ」

 マスターは黙って微笑み、作りかけていたサンドウィッチに再び目を落とした。俺は流し台に溜まっていた皿を洗い始めた。

「今日は学校はないのかい?」と目の前のカウンター席に座っていた背広の男性が尋ねてきた。短髪で目が大きく、体つきのがっちりとした浅黒い肌の男で、今までにも何度か店に顔を出したことがあった。確か、大手の住宅メーカーの営業をしていると前回彼が来たときにマスターから紹介された。そのときに本人から名前を聞いたのだが、思い出せそうになかった。

「今行ってきたところなんです。もう三年なんで、授業もそんなに多くないんです」と俺は答えた。

「大学三年か。じゃあ、そろそろ就職についても考える頃だろう?」

「そうですね。でもまだ具体的には……」

 俺は言葉を濁した。俺はそのことについて考えるのを、今まで半ば無意識に避けていた。そして、無意識に避けていることに俺自身気づいてもいた。


 マスターが完成したサンドウィッチを彼の前に置いた。彼は礼を言い、コーヒーを一口啜った。それから一口ずつ味わうように、何度も小さく頷きながらゆっくりとサンドウィッチを食べた。食べている間中、彼は一言も口を利かなかった。食べることに百パーセントの意識を集中したために、喋ることを完全に忘れてしまっているようだった。俺は皿を洗い続け、マスターは次のサンドウィッチに取り掛かった。


「いずれにせよ、学生時代が一番いいよ。君もいろんな人に言われるだろうけど、実際に過ぎ去ってしまうとそれがわかる。まったくその通りだよ」

 サンドウィッチの最後の一片を口に入れ、それをコーヒーで流し込んでから彼は言った。自分がサンドウィッチを食べている間にも時間が流れていたことに、彼は気づいていないように見えた。

「俺自身学生だった頃は、『こんなことできるのも学生のうちだけだから』なんて知ったような言い訳並べて、随分色々やったもんだよ」

「例えば、どんなことですか?」

 俺は洗い終わった皿を布巾で拭きながら尋ねた。

「半分は無茶なことで、残りの半分は親不孝なことだよ。そして、その全てに金がかかった」

 そう言って彼は笑った。俺も笑い、マスターも笑った。

「でもそのうちの多くのことは、今となっては出来なくなってしまった。もちろん昔に比べれば少しは金もあるけどね。多くのことが変わってしまったんだよ。そしてそれは金ではどうにもならないことだ」

「時は金なり。でも、金で時間は買えない」

 マスターが言った。

「そういうことです」と背広の男は言い、コーヒーを啜った。

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