クロス×ロード

Nico

前編

俺 2008年2月

第1章

 空に穴を開けるかのような轟音に、俺は顔を上げた。南の空から現れたボーイング747が、緩やかに右にカーブを描きながらこちらへやってくるところだった。随分と低い。機体が白い日光を受けて眩しく光っている。俺は思わず立ち止まり、冬のぴんと張り詰めた空気を切り裂くように進む、巨大な鉄の塊を見つめた。機体が徐々に大きくなり、強弱を繰り返すエンジン音を残して俺の頭上を通り過ぎる。まさかそのせいではないだろうが、少し遅れて冷たい風がひゅうっと通り抜けた。電線に停まっていた五、六羽のカラスが一斉に飛び立った。俺は身震いをし、開かれたコートの前を重ね合わせた。


 ほんの数分前、オアシスの『リヴ・フォーエヴァー』が流れる書店で、俺はお気に入りの作家の新刊を手にしていた。表紙を捲ると、そこには作家のプロフィールと顔写真があった。その作家の顔を見るのは初めてだった。その瞬間、俺は息を呑み、次の瞬間、思わず声を発した。

「嘘だろう?」

 あまりの驚きに声が大きくなってしまったが、幸いコメディードラマみたいに店中の客が振り向くようなことはなく、隣の客が驚いたようにこちらを見ただけだった。俺はレジの前の列に並び、その本を買い、店を出た。


 突然、背中にサンドバッグを投げつけられたみたいな衝撃があった。俺はつんのめりながらも、倒れそうになるのを何とか堪えた。右手に持っていた紙袋が道路に落ちた。何事かと思い、後ろを振り返ると、中学生と思しき男の子が尻餅をつき、驚きと恐怖の入り混じった表情で俺のことを見ていた。


「大丈夫か?」


 二月の末だというのに少年は制服の上は着ておらず、ワイシャツ一枚という格好で、身体の割には大きなスポーツバッグを肩から斜めに掛けていた。彼の傍らには、子供たちの間で今流行っている漫画本が落ちている。それで俺は、さっき書店でこの少年を見かけたことを思い出した。ビニールで梱包された漫画を手にしながら、どういうわけか思い詰めた面持ちでそれをじっと見つめていた、あの少年だ。我に返った少年は慌てて漫画を掴んで立ち上がると、それをさりげなく背後に隠した。俺も自分の本を拾い上げようと身を屈めたが、その隙を突いて少年がばっと駆け出した。


「おい、ちょっと」

 俺は脇を駆け抜けようとした少年のワイシャツを掴んだ。

「放せよ!」

 少年は何とか振り解こうと、もがいた。俺は無防備になった少年の手から、漫画を素早く抜き取った。

「返せって!」

 少年は必死に手を伸ばしてくるが、俺の手はそこからさらに数十センチ上にあった。しばらくは抵抗していたが、やがて諦めたのか少年は大人しくなった。「逃げないから、放してよ」と生意気なことを言ったりもした。俺は手を放してやった。


「まず、ぶつかったことを謝ったらどうだ? 話はそれからだ」

「悪かったよ」と少年は大人びた謝り方をした。

「よし。で、この本はどうしたんだ?」

「買ったんだよ」

「嘘だ」

「嘘じゃないよ」

「嘘だ。じゃあ、いくらだった?」

「七百八十円」と少年は即座に答えた。俺は漫画の背表紙を確認した。正解だった。

「そんなにするのか?」と俺は思わず言ってしまった。

「完全版だから高いんだ」と少年はふて腐れて言った。

「カンゼンバン?」

 俺は手の中の漫画を裏返した。タイトルよりも大きな文字で、『完全版』と書かれていた。あぁ、完全版ね。

「でも君はこれを買ってない」

「どうしてわかるんだよ?」

「君が盗んでるところを見たからだ」


 これは嘘だ。けれども、少年が万引きをしたことには確信があった。さっきまで俺と少年がいた駅前の書店はひどく込んでいて、二つしかないレジの前にはそれぞれ五人ほどが列を作っていた。俺が店を出る時、少年は列の中にはいなかった。あれからすぐに列に並んだとしても、今頃はやっと会計を済ませたかどうかだろう。今ここに彼がいることが、彼が万引きしたという確たる証拠だ。


「う、嘘だ」

 少年は自信なさげではあったが、はっきりと言った。

「それに、君は袋をもらわなかったんだろう?」

 そう言って、俺は落ちたままになっていた自分の紙袋を拾い上げ、少年の前で揺らして見せた。本より一回り大きい茶色の袋で、下の部分に書店の名前が入っていた。「それなら代わりにシールが貼られてるはずなのに、この本にはそれが付いてないのはどうしてだ?」

 これもでまかせだ。あの書店にそんな決まりはおそらくない。

「剥がしたんだよ」

 少年はしぶとく言い張った。

「いいか」

 俺は少年の目をじっと見つめながら言った。「世界は愚かだ。でも、お前が思っているほど愚かではない」


 少年はしばしの間きょとんとしていたが、やがて「わかったよ」と呟いた。まさか俺の言葉に納得したり、ましてや感銘を受けたりしたわけではないだろうが、少年は一転して素直に自分の罪を認めた。日本の警察は、尋問の奥の手としてこのセリフを採用するべきだ。


「どうして万引きなんかしたんだ?」

「暇つぶしだよ。お金もないしさ」

「金がないのに、暇ばかりがある。十分な動機だな」

「でもそれよりも頭に来て」

「頭に来た?」

「前は完全版じゃない普通のが三百円で売ってたのに、今はもう完全版しかないんだ。それって詐欺だよ、詐欺!」

 俺は思わず返す言葉を失った。


「わかってるよ。どうせ、『謝って来い』とか言うんだろ? 謝るよ。謝ればいいんだろ」

 そう言って、少年は手を差し出した。俺は漫画を彼に返してやった。

「でもさ」

「『どうせまた逃げるつもりだろ』とか言うんだろ?ちゃんと行くよ。信じないんだったら、付いて来ればいいじゃんか」

「いや、そうじゃない」

「じゃあ、何だよ」

「別にいいんじゃないか?もらっちゃえば」

「え?」

 少年は目を丸くした。


「君の言うことは一理ある。その本が八百円もするのは、いくらなんでも高すぎる」

「完全版だから……」

「でも、昔は三百円だったんだろう? それが今は、完全版と銘打たれて倍以上の値段で売られてる。本のサイズが大きくなろうが、使ってる紙が上質になろうが、そんなことは君たちは気にしない。そうだろう?それは単に、値段を吊り上げるために大人たちが用意した口実でしかないんだ」

「よくわかんないけど、つまり、どういうこと?」

「君の意見に賛成だってこと」

「でも、万引きはよくないだろ?」

 少年は自分が万引きをした張本人なのに、そんなことを言った。彼の動揺した様子が可笑しくて、俺は思わず笑ってしまった。


「でもまぁ、君は自分が間違ってると思うことに対して、君のできうる範囲で精一杯反抗したわけだ」

「褒めてんの?」

「君の行為を褒めてるんじゃない。君の信念を称えてるんだ」

 少年はそこで初めて相好を崩した。

「あんたの言ってることはよくわからないけど、大人のくせに子供の味方すんだね? 変な人」

「大人のくせに、か」と俺は呟いた。

少年はズボンに付いた砂を払うと、「じゃあ、これは遠慮なくもらうことにするよ」と言った。「それから」

「うん?」

「それから、もう万引きはやめるよ。やっぱ、よくないことだから」と少年は照れくさそうに言った。

「そうだな。それがいい」


 俺は少年の後姿を見送ると、再び歩き始めた。紙袋を開け、本を手に取る。数分前の驚きが蘇る。巻かれた帯には「若き作家が見せる新たな境地」と書かれていた。キャッチフレーズとしての魅力の程は疑問だが、的確である気はした。


 それから、もしあの時に気づいていたら、彼女と交わす会話の内容は変わっていただろうか、と考えた。おそらくそうだろう。でもすぐに、知らなくてよかったかもしれない、と思い直した。あの時の俺たちには、あの会話が相応しかったはずだ。


 本を袋に戻すと、歩くスピードを速めた。

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