第二章 雉

第11話 mOBSCENE

「ぎゃあああああっ!? 溺れるッ! 溺れるぅッ!?」

「しっかり泳げ、コラ!!」


 青い。白い

 風は軽やかに南から北へと走り抜け、空には穏やかな鳴き声を上げるカモメたちが、優雅に弧を描いて飛んでいる。見ているだけで爽やかな気分になる美しい景色に、鬼子の顔もいつの間にか自然と綻んでいた。そんな鬼子の下で、先ほどからかっぱえびが悲鳴を上げていた。


「重い! 重いって!! 重量オーバーだよ、荷物乗せすぎなんだってば!」

「言っとくが、になって逃げたら承知しねえぞ。ホラ頑張れ」

「チクショウ、おいらをこき使いやがって……アンタら鬼か!?」

「そうだよ、やっと気づいたか」


 鬼美が海中で藻掻くかっぱえびの頭の皿をパシパシと叩いて、可笑しそうに笑った。

 豪鬼の胴体に別れを告げ、犬神のふねから飛び降りた二匹は、かっぱえびの背に乗って妖怪の棲んでいると言う村を目指していた。犬神の言う通り、空母が向かっていた浜辺にはたくさんの小型船や人だかりができているのが見えた。あのまま艦に乗っていれば、二匹とも軍に引き渡され投獄されていたことだろう。もっとも犬神が言うには、さらに『酷い目』に遭っていたらしいが……。鬼ヶ島での爆撃が頭の片隅を過ぎり、鬼子は背筋をブルっと震わせた。


「……これからどうするの?」

「ン? あぁ……」

 鬼子は漠然とした不安を振り払うように、前に座っていた鬼美の肩に顔を乗せ、彼女を背中からぎゅっと抱きしめた。鬼美は鬼子の胸中を知ってか知らずか、明るい声を波の上に響かせた。


「とにかく、豪鬼さんの胴体は、あの犬神ってオッさんに任せるしかねえ。あたしたちはまず落ち着ける村を見つけて、それから……」

「それから?」

「……あのオンモラキって奴を探す」

「オンモラキ……」


 その名前を聞いて、鬼子は胸の奥がチクリと痛んだ。

 妖怪でありながら、人間の側に与する、謎多き怪鳥の女。 

 鬼ヶ島を襲い、豪鬼ちちおやの首を持ち帰った張本人でもある。


「……だってそうだろ? あの女が、首を持って帰ったんだぜ。だったらまずは、とっ捕まえて首の居所いどころを聞き出さなきゃ」

 ゴボゴボと溺れかけるかっぱえびの上で、鬼美が小さく拳を握りしめ息巻いた。

「お父っちゃんのくびは、都にあるんじゃないの?」

「だからそれを調べに行くのさ。もし別の場所に隠されてたら、犬のオッさんだって困るだろ?」

「そっか……」

 肩越しに、後ろに乗っていた鬼子の顔色が不意に曇った。

「でも……鬼子、怖いよ。犬神さんは、引っ込んでろって……」

「だーい丈夫だよ。何も戦いに行くわけじゃないから。豪鬼さんの首がどこにあるのか、調べるだけさ。ちょっとして、あの女に吠え面かかせてやるだけだからさ」

「うん……」

「な? ”えびお”」

「……”えびお”って、もしかしておいらのこと?」

「お前しかいないだろ、”えびお”」

「え!? おいらもやるの!?」

「当たり前だろ。あたしの『布』が欲しくないのか? う〜ん?」

「そ、そりゃあ、欲しいけど……本当だな? 約束は守るよな? 素っ裸になって、腹踊りしてくれるんだな?」

「そこまでは言ってねえ!」

 波の上で、かっぱえびの皿がごちん! と小気味良い音を立てた。

 鬼子はだが、まだ顔を曇らせたまま、鬼美の背中にぎゅっとしがみ付いた。


 ……口に出しては言わないが、鬼美が父親の、黄鬼の副長を慕っていることは鬼子も昔から良く知っていた。そんな父親の仇を目の前にして……果たして平常心で居られるものだろうか。少なくとも鬼子には無理だった。もちろん豪鬼ちちおやの首の話を聞いていたから、鬼子だってオンモラキのことはとても憎いが、実はまだ一度も会ったことがない。彼女も生まれは鬼ヶ島だと聞いたが、だったら何故、オンモラキはかつての仲間たちを裏切るような真似をしているのだろうか?

 鬼子は、オンモラキに会うのが怖かった。話に聞いただけで、一度も会ったことのない相手をこれほどまでに『憎い』と思っている自分の気持ちが、自分でもイマイチ理解できなかった。考えても分からないことだらけで、鬼子は鬼美の背中にしがみ付いたまま、じっと遠くを見つめた。

 

 鬼子の胸中とは裏腹に、は晴れ、はキラキラと太陽の光を反射させ……島の外の世界はどこまでも輝いて見えた。それぞれの思惑を抱え、穏やかな海を漂う三匹の頭上を、空母から飛び立った戦闘機が白い煙を立てて過ぎ去って行った。


□□□


「艦長! ご無事ですか!?」

「ああ……この通りだ」

 警報を聞きつけた水兵たちが懲罰房にやってきたのは、鬼子たちが海に飛び出して数分後のことだった。犬神は壁に空いた大きな穴の横で、縛られた豪鬼の胴体の上に座り込んでいた。


「残りの鬼たちは?」

「あぁ、死んだよ。頭に来てな……つい撃っちまった。連中、この穴から落っこちて、今頃はサメの餌にでもなってるだろうよ」

 犬神が険しい顔でため息をつき、背中に担いでいたガトリング砲を指差した。

「左様ですか……」

「悪いが、あとは任せた。俺は飛行機で、この鬼だけでも都に連行して行くからよ」

 犬神が豪鬼の胴体を片手で軽々と担ぎ、集まって来た若い水兵の肩をポンと叩いた。


「承知しました。インターンシップは中止ですね」

「しょうがないだろうな。ふねは頼んだぞ」

「はっ。それから、艦長。騒ぎを聞きつけて、陸軍から支援が来ています」

「なんだと?」

「よ〜ぉ、犬神艦長」


 犬神の目がピクリと動き、水兵を振り返ったその時だった。照明の消えた暗がりの廊下から、でっぷりとした体型の影がゆっくり姿を現した。その後ろには、白い制服の水兵とはまた違った、迷彩服姿の陸軍兵士たちを大勢引き連れている。兵士たちは素早く廊下の左右に分かれ、直立不動で壁に背をつけずらっと並んだ。その一糸乱れぬ統率の取れた動きに、水兵たちは皆ぽかんと口を開けあっけにとられた。やがて大名行列の先頭に立っていた小柄な男は、犬神のそばまで歩み寄ると抜け目ない目つきで彼を下から覗き込んだ。


「猿田彦……」

「久しぶりじゃのォ。えぇ?」

 ところどころ歯の抜けた口でゲヘゲヘと下卑た笑い声を漏らす猿田彦に、犬神の顔つきはますます険しくなって行った。猿田彦の上背は、頭が天井まで届きそうな犬神の、へそくらいの高さしかなかった。犬神が「フン」と不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「俺のふねにようこそ。上艦の許可を出した覚えはないがな」

「その空母ぶっ壊しといて、お前はどこに逃げようってんだ?」

「……どこって、捕まえた鬼を、帝に献上すんだよ。どいてくれ、仕事なんだ」

「そりゃ惜しいことをした。ワシに任せてくれりゃあ、今日の昼食はそこのクソ鬼野郎を、クソ肉厚ステーキにしてやるのによ! ゲヘヘヘへヘ!!」

「……だからだよ」

「何か言ったか?」

「いや、何も……」

 犬神はそれ以上は何も言わず、黙って廊下を進み始めた。猿田彦は去って行く犬神の背中をジトリと睨みながら、苦々しい顔で呟いた。


「……フン。物の怪のくせに、調子に乗りやがって。おい、お前ら!」

「はっ!!」

 猿田彦陸軍総司令官の怒鳴り声に、その場にいた迷彩服の兵士たちが一斉に敬礼した。


「くまなく空母を調べ上げろ! 鼻紙一つ見逃すんじゃねえぞ!!」

「はっ!!」

「ちょっ……こ、困ります!」

 途端に散開して行く迷彩服の兵士たちにあっけに取られつつも、若い水兵が慌てて猿田彦に食ってかかった。


「勝手な行動をされては……支援に来られたのではなかったのですか!?」

「タレコミがあったのよ」

「は?」

 水兵たちの目の前で、陸軍の兵士たちが懲罰房に開いた穴やひしゃげた鉄格子の写真をかたっぱしから取り始めた。その様子は、まるで取り調べのようであった。猿田彦がニヤリと唇の端を釣り上げた。


「このふねに、国敵側と内通している、とんでもねえ裏切り者が乗ってるってよ!」

「そ、そんなバカな……!?」

「おい、桃太郎!!」

 ぐらりと崩れ落ちる水兵を無視して、猿田彦は懲罰房の中に怒鳴り声を上げた。牢の写真を撮っていた、若い迷彩服の兵士が慌てて背筋をピンと伸ばし、緊張した面持ちで猿田彦に敬礼を返した。


「は、はいっ!!」

「……上に監視カメラの映像があるはずだ。調べてこい」

「は……はっ!!」

 猿田彦の言葉に、桃太郎は急いで暗がりの廊下を走って行った。唖然とする水兵たちを尻目に、猿田彦が両手を広げ、大きな声で子飼いの兵士たちに発破をかけた。


「さぁ探せ! 謀反の証拠を見つけた者は、帝から金一封が約束されとるからのォ。キビキビ動けよ! ガハハハハ!!」

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