第10話 B.O.B.
それはまるで、鉛玉で出来た雷雨のようだった。
突如局地的に発生した
「……!!」
やがて機関銃の『雨』は止み、まだ警報は鳴り続けてはいるものの、辺りは
犬神が「ふぅー……!」と息を吐き出し、骨ガトリング砲を背中に担ぐと、半壊した懲罰房の中にゆっくりと足を踏み入れた。鬼子が顔を上げると、そこに映っていたのは、懐から取り出した短刀を構える犬神の姿だった。銀色に輝く刃の切っ先が自分の方に向いているのを見て、鬼子は声を失い縮み上がった。
「ひっ……!」
犬神は仏頂面のまま、怯える鬼子をじっと見下ろした。
「よせ……鬼子に手を出すな!!」
近くにいた鬼美が、縛られたまま叫んだ。しかし彼女の制止も虚しく、犬神は鬼子に向けて素早く短刀を振り下ろした。
「鬼子ォオオオオ!!」
鬼美があらん限りの怒号を腹の底から響かせた。鬼子は思わずぎゅっと目を閉じた。
しかし次の瞬間、鬼子の予想に反して、「はらり」と彼女を縛っていた縄が切り裂かれた。
「え……?」
手足が自由になった鬼子は、その場に横たわったまましばらくぽかんと口を開けていた。二匹の鬼っ娘たちが呆然としていると、犬神は黙って大きく穴の空いた壁に寄りかかり、短刀をしまう代わりに取り出した小さな煙草に火を点けた。
「……行け」
「……え?」
やがて犬神が静かに唸った。二匹は、最初犬神が何を言っているのか分からず、眉をひそめ顔を見合わせた。犬神は仏頂面のまま目を閉じ、見え隠れする牙の隙間から白煙を吐き出した。
「行けと言ってるんだ。お前ら、そこから逃げろ」
「なに……?」
「どういうことだ?」
犬神はまだ半信半疑と言った鬼美に近づくと、彼女と、それから豪鬼の縄も切り落とした。二匹が戸惑いを見せる中、彼はやや疲れた顔をして、煙草を咥えたままその場にずるずると腰を下ろした。
「お前らの目的は分かってる。父親の首を助けに来たんだろ?
「あの女?」
「どうして……?」
「あの女って誰だよ? 詳しく聞かせてくれよ」
「聞け。ここからまっすぐ浜に向かっちまうと、陸軍の奴らが
騒ぎ出す二匹を制し、犬神は壁に空いた穴から見える、東の海に伸びる岬を指差した。
「……あっちの
「村? 妖怪が棲んでる村があるの?」
鬼子が少し目を丸くした。
「待てよ。なんでわざわざ、そんなこと教えてくれるんだ? オッさんは人間たちと一緒にこの
鬼美は鋭く目を尖らせ、鬼子を庇うように彼女の前に立った。犬神は黙って煙草を咥え、しばらく沈黙した後、やがて白い煙を吐き出した。
「さぁな」
「は?」
「さぁ……ったく。一体誰が敵で、誰が味方なんだかな……」
「なんだよそれ。ちゃんと答えろよ」
鬼美がイライラしたように地団駄を踏んだ。犬神はそれでもしばらく黙っていたが、やがて警戒心を強める二匹をじろりと横目で見て、重たい口を開けた。
「……俺にも故郷にゃあ、ちょうど、お前らくらいの歳の娘がいたんだが」
「娘?」
「懐かしいモンだ……さくらは、あの子は毎日公園に散歩に行くのが大好きだった」
「んだよ? その子と友達にでもなれってか?」
「いや……死んだよ」
「「!」」
犬神の静かな、だけど重たいその一言に、鬼子たちは息を飲んだ。
「もう何年も前の話だ。元々病気がちの娘だったが。たまたま家の近くで鬼と人間がぶつかり合って……。それで、兵隊さんに優先するってんで、いつもの薬がとうとう回って来なかったんだ」
「そんな……」
「死んだのは、ちょうどお前らと同い年くらいの時だ」
袈裟を着た大型犬が、遠い目を浮かべて廊下の奥を見た。
穴の空いた懲罰房を、再び重たい沈黙が包んだ。
鬼子たちは何も言うことができず、黙ってその横顔を見つめていた。犬神が俯き加減にポツリと呟いた。
「俺ァ何も餓鬼まで……わざわざ死ぬこたねぇと、そう思っただけだ」
「…………」
「オッさん……」
「……おじさんは、鬼子たちの味方なの?」
「……勘違いすんなよ。これは、何も俺からの『提案』ってワケじゃねぇんだ」
犬神が「フン」と鼻息を鳴らし、床で気絶していたかっぱえびを片腕で引っ掴むと、二匹に投げて寄越した。二匹ともかっぱえびを受け止めなかったので、かっぱえびは再び足元にどさりと落ちた。犬神が白煙を
「……これは『命令』だ。お前ら餓鬼どもは、今すぐその穴から出て行け。もう二度と
犬神の『命令』に、鬼美が隣で抗議の声を上げるのを、鬼子は黙って聞いていた。
……確かに滅茶苦茶な『命令』だった。犬神のことを、どこまで信じていいものか……そもそも鬼子の父親を助けるために旅立ったはずなのに、その豪鬼の胴体を敵の
だけど鬼子は、犬神に何も言い返せなかった。
鬼子は黙って床を見つめていた。揺らめく白煙が鬼子のそばまで漂ってきて、彼女は顔を歪めた。彼女の頭の中には、島で死んでいった仲間たちの顔と、それから先ほど犬神から聞いた話が、ぐるぐると駆け巡っていた。
すると、今まで脇でじっと座り込んでいた豪鬼の胴体が
鬼子がハッと顔を上げた。娘がじっと見ている前で、豪鬼の胴体は壁に空いた穴まで歩いていくと、鬼子に向かい合い、それからゆっくりと右手を上げ外を指差した。
「お
「……”行け”って、そう言ってるのかな?」
豪鬼の胴体の
「オイ鬼子、行こうぜ」
しばらくすると、鬼美が鬼子に近づき、諦めたように小声で囁きかけた。
「でも……お
「あたしだって言いなりになるのは嫌だよ。でも、ここは犬のオッさんを信じるしかない」
鬼美がちらと犬神の背中に担がれたガトリング砲を見た。
「なあ鬼子。どっちみちあたしたちだけで、これから一ヶ月以内に都に辿り着いて、
「…………」
鬼美に諭され、鬼子は再び俯いた。犬神は煙草の火を床にグリグリと押し付け、焦げ付いた匂いを
「そう言うことだ。お前の父親の件は、俺に任せろ。悪いようにはしねえ」
「…………」
「俺の飛行機なら、城までひとっ飛びだ。それに俺なら、警戒されずに中に入れる」
「…………」
「……どうした? まだ何か気がかりなことでもあるのか?」
鬼子はしばらく黙ったままだったが、やがて意を決したように顔を上げた。
「その……ごめんなさい」
「?」
「おじさんは……妖怪なのに、どうして人間の
「ああ。俺ァ寺の育ちなんだ。これ見れば分かるだろ?」
鬼子はじっと犬神を見つめていた。犬神は自分の着ている袈裟を指差し、そこでようやく、二匹の前で笑顔を見せた。
「喧嘩して、軒下でくたばりかけてる野良犬を、寺の和尚が拾ってくれたのさ。確かに俺は妖怪だが、人間に育てられたから、ずっと『近い』ところにいたのかもな」
「…………」
「……お前も、あんまり人間を恨むなよ、鬼子。デカイ声じゃ言えないが、俺にゃあ、いちいち人間だの妖怪だの区別してわざわざ
「…………」
そう言うと、犬神は不意に優しい目を浮かべて、鬼子のおかっぱ頭をそっと撫でた。
鬼子は、彼の言葉にふと故郷の老鬼のことを思い出し、犬神の膝の辺りに抱きついてしばらくポロポロと涙を零した。
□□□
「余は
「んふふ……」
薄暗い六畳半の寝室に、花柄模様の
壁に貼られた障子の上に、帝と、それから怪鳥・オンモラキの影がゆらゆらと妖しく揺らめいた。
「鬼ヶ島の鬼が生き残っていては、下々の民が安心して暮らせんじゃろうが。一匹残らず炙り出せ。現人神に、畏れ多くも仇なすモノが在ってはならぬ」
「全くもってその通りでございます」
「フン。それにしては……何やらコソコソとやっとるみたいじゃないか。余が知らんとでも思うたか? オンモラキよ」
「……オカタイコトは、今はいいじゃないですか」
乱れた布団の上で、オンモラキは甘えるように彼の胸元に顔を埋め、そっと囁いた。
「私にお任せ下さい、天子様。一つ、余興をご覧に入れましょう」
「ほう。余興とな?」
はぐらかす彼女に、帝はわざと気づかない振りをして、ニヤリと唇の端を釣り上げた。
「その余興とやらは、少なくとも
「ご安心を。卑しき鬼めら、それと……ふふふ」
六畳半に、オンモラキの妖しげな笑い声が木霊した。
「天子様に仇なす謀反者は、一匹残らず我らの掌の上にございます」
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