第9話 Catfish Blues
「そこで大人しくしてろ!」
「きゃあっ!?」
水兵の一人が不機嫌そうにそう吐き捨て、鬼子を懲罰房の中に投げ飛ばした。ガチャン!! と激しい音がして、鉄格子の扉が固く閉ざされた。薄い桃色に染まった鬼子の頬に、冷たい床の温度が伝わってくる。寒々とした小部屋の中に残され、鬼子は途方に暮れて涙ぐんだ。すると、きつく縄で縛られ身動きの取れない鬼子の耳に、ふと暗闇の向こうから彼女の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「鬼子!」
「……鬼美ちゃん!!」
監獄の中で鬼子を待っていたのは、昨晩
「大丈夫か、鬼子!? 怪我は!?」
「……うわぁぁあああん!! 鬼美ちゃあああぁん……っ!!」
だが鬼子は、再びその場でボロボロと泣き出してしまった。緊張の糸が途切れたのか、涙の雨で床に水たまりを作る鬼子に、鬼美は暗がりの奥から優しく語りかけた。
「よしよし、落ち着いて。とにかく、鬼子が無事で良かったよ」
「で、でも……でも、このままじゃ、お
「落ち着けって……泣き過ぎだろ、鬼子。そんなに泣いてちゃ溺れちゃうぞ」
顔を真っ赤にして、ダラダラと涙と鼻水を垂れ流す鬼子の顔を見て、鬼美が堪えきれなくなったようにぷっと吹き出した。
「でも……でも……」
「それに、確かにあたしたち捕まったけど……考えようによっちゃ、状況は別に悪くないよ」
「……え?」
鬼美の思いがけない言葉に、鬼子がキョトンと首をかしげた。
「だってそうだろ? あのままイカダで進んでたら、浜まで一週間はかかったんだ。それが敵の
「そっか……そうだよね」
鬼子は涙を引っ込めて幼馴染を見つめた。確かに捕まってしまったことは最悪だが、元々無理な旅を始めた彼女たちにとって、この
「……すごいね、鬼美ちゃん」
「え?」
鬼子の言葉に、今度は鬼美がキョトンとする番だった。鬼子は改めて鬼美を尊敬の眼差しで見つめた。
「だって……鬼子なんて、捕まっただけでもうすっごく怖くなって……。このまま丸焼きにして食べられちゃうかもとか、最悪のことばっかり思い浮かべてたのに……鬼美ちゃんは檻の中にいても、すごく冷静なんだもん」
「……ばか。鬼子はいっつも考え過ぎなんだよ。丸焼きなんて、そんなのあるワケないだろ」
えへへ、と鬼子が照れたように笑った。鬼美は壁に背をつけたまま、暗がりの中で少し声を震わせた。
「後は、どうにかしてスキを見て逃げ出せば……」
鬼美が鉄格子の外の監視カメラを睨み、悔しそうに呟いた、その時だった。
ガタン! と大きく
「きゃああっ!?」
「……なんだ!?」
懲罰房の壁にしこたま頭を殴打しながら、鬼美が顔をしかめた。鬼子たちが不安げな表情を浮かべる中、やがてそこら中で真っ赤な
□□□
「一体どうなってる!?」
司令室に犬神の怒鳴り声が響き渡った。
だが、部下は上司の問いかけに応えることなく、ゴボゴボと口から泡を吐き出すばかりであった。扉から入ってきた水は、とうとう犬神の顎の辺りまで浸水してきて、司令室の中はあっという間に薄い桃色の水で満たされてしまった。
「チッ……!」
犬神は渋い顔で舌打ちを繰り返し、ガトリング砲を脇に抱え扉を目指した。だが、重たくなった体で水を掻き分け、犬神が扉に手をかけたその瞬間。突然水の中から『何者か』が彼の足を力強く引っ張った。
「むぐ……!?」
足を取られ、水中へと引きずり込まれた犬神は、そこで確かに姿の見えない『何者か』の声を聞いた。
『だははははははは!!』
(なんだ……誰だ!?)
犬神が水の中に目を凝らした。犬神の叫び声は、水中では白い泡になって浮かんでいくのみだった。代わりに、耳障りなほど響き渡る甲高い笑い声が、水で満たされた司令室の中で不気味に木霊した。
『だはははは! 見ぃーつけた!』
(お前か? この仕業は……)
犬神は顔を引き締め、水の中で”骨ガトリング砲”を構えた。だが視界には若い水兵以外、誰の姿も映らない。いるかいないかも分からない……姿の見えない不気味な何か。間違いない。彼を襲っているのは、妖怪の類だった。
『こりゃ”けっさく”だ。どんなに偉っそうにしててもさ、水の中じゃ、なーんにもできないだろ?』
見えない声が水中で得意げになって笑うのが聞こえた。さらに犬神が警戒している前で、彼の袈裟の中から『懲罰房の鍵』が……まるで見えない手にでも掴まれているかのように……スルスルと一人でに抜け出した。
『へへ……』
(こいつ……!!)
『いい気味だ。しばらくそこで、魚の気分にでもなってな』
犬神が慌てて逃げていく鍵に手を伸ばしたが、鍵は彼の指先を掠め、扉の下の隙間から向こうへと消えていった。
『……どっかのおバカさんに免じて、命だけは取らないどいてやるよ。じゃあな!』
(舐めるな……!)
甲高い笑い声を残し、だんだんと気配が遠のいていく。犬神は水中でぎりっと歯ぎしりすると、怒りに任せ、閉ざされた扉に向けて思いっきりガトリング砲をぶっ放した。
□□□
「なんなの……?」
「……とにかく、この
「シッ。待って……あれ!」
ふと鬼子は微かな足音に気づき、暗がりの中に目を凝らした。ひたひたと向こうから近づいてくる足音の正体を見て、鬼子は驚いて口をパクパクと動かした。
「かっぱえびさん!」
「よっ」
鬼子が歓声を上げ、かっぱえびは鉄格子の前でひょいと片手を上げた。
「誰だ? このハゲ」
「ハゲって言うな! 皿が乗ってるだけだし」
突然現れた見知らぬ妖怪に眉をひそめる鬼美に対し、かっぱえびが青筋を浮かべ唾を飛ばした。鬼子はぱあっと表情を明るくした。
「かっぱえびさんだよ。鬼美ちゃんと別れてから、うみで知り合ったの」
ちょっとエロいけど……と言う言葉を飲み込み、鬼子は鉄格子の向こうに現れたかっぱえびに
「ねえ、かっぱえびさん。お願い、助けて。鬼子たち、捕まっちゃったの」
「慌てるなぃ。へへ……ジャーン! これ、なーんだ?」
「え? それって……まさか」
「鍵か!?」
かっぱえびの水かきのついた手に握られているものを見て、鬼美もようやく身を乗り出した。かっぱえびは得意げになって踏ん反り返り、鼻の下を指で擦った。
「へへ……おいら、人間だろうが妖怪だろうが、偉っそうな奴はみーんな大っ嫌いなのさ。ちょいと帰り道に犬っコロがいたから、いたずらしてやったんだ」
「じゃあ、これもかっぱえびさんが?」
ガタガタと揺れ続ける部屋の中で、鬼子が目を丸くした。かっぱえびは得意げになりすぎて、後ろにひっくり返りそうになった。
「ああ。あいつら、せっせと船に機械積んでるけど、へへ……どれも水には弱いんだなあ。フタ開けて中に
「助けに来てくれたの!? ありがとう、かっぱえびさん!」
「やるじゃねえか、ハゲ!」
鬼美もまた歓声を上げた。
「とにかく助かった。早く鍵を開けてくれ!」
「……やだ」
「……は?」
だがかっぱえびはスッと両手を下ろし、二匹を前に急に冷たい声を出した。鬼子はオロオロと視線を泳がせた。
「な、なんで?」
「……気が変わった。そっちの天パがおいらのことハゲって呼んだから、やっぱり開けてあーげない」
「なんだと!?」
「そんなぁ……!?」
「そうだァ。その代わり……」
拗ねたかっぱえびが頭の上の皿を光らせ、なんとも意地の悪い顔をして、鉄格子の中の三匹を覗き込んだ。
「お前らが着てる、その『布』。それおいらにくれるってんなら、開けてやらんこともないぜ。身ぐるみ全部置いてけよ」
「ええぇ!?」
「だって、おいら別にハゲてねえし。二匹とも、素っ裸になって土下座して誠心誠意おいらに謝る、それがすじってもんだろう?」
「え……エロがっぱ!」
「かっぱじゃないもん」
「エロえび!」
「……どこの悪役だよ、こいつは」
鬼美が呆れたように呟いた。かっぱえびは鬼美をじろっと睨み、両手を頭の後ろで組んでニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて見せた。
「どうするんだ? おいらは別にどっちでもいいんだぜ? お前らが助かろうが助からまいが、どっちでも……」
かっぱえびがいい終わるか終わらないかの、その間だった。
突然、雷鳴のような音が廊下に轟き、鬼子たちは思わず立ちすくんだ。すると、見る見るうちにかっぱえびのいる真上の天井がひび割れて、天井にぽっかりと穴が空き、そこから袈裟を身にまとった犬神が飛び降りて来た。犬神は床に着地すると、荒々しい唸り声を吐きながら、縮み上がる鬼子たちを一睨みした。
「……ッ!!」
鬼子たちが苦痛に顔を歪め、膝をつく中、犬神が力強く遠吠えした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます