第6話 Volare

「ええか? また鬼子ちゃんがら……そん時は、お前が止めるんだぞ」

「うぅ〜……」


 一夜明けた鬼ヶ島の浜辺では、黄鬼の副長と鬼美が木陰に隠れて何やらコソコソと話していた。波打ち際では、鬼子と、首だけになった豪鬼の胴体が、せっせとイカダ作りに励んでいるところだった。鬼美は焼け残った森から丸太を運ぶ鬼子の様子を眺めながら、不安そうに自分の天然パーマを指でいた。


「でもよ、おっとう……。あたし、正直言って自信ないよ。鬼子ってば、怒ったら考えなしに突っ込んで行くんだもん」

「オラがついて行ってやれりゃあいいんだが……」

 鬼美の父親は少し悔しそうな顔をして、千切れた自分の足を眺めた。


までしばらくかかる。あん時稽古場にいた奴はみんな怪我が酷くて、鬼子ちゃんのそばにいてやれるのはお前しかいねえ。お前が鬼子ちゃんをしっかり守るんだぞ」

「そりゃ、分かってるけど……」


 鬼美は自信無さげに小さく呻き声を上げた。

 向こうではおかっぱ頭の小さな桃色の鬼子が、丸太を運ぶのを手伝ってくれた天狗の子供たちと一緒に大粒の汗を流していた。どんよりとした薄い雲に覆われた、の浜辺で、真っ黒な海に浮かぶ漂流物ゴミがキラキラと光って見えた。


「鬼美ちゃあん!」

 しばらくすると、薄暗い浜辺に物の怪たちの歓声が上がった。見ると、三人乗りのイカダを完成させた鬼子が、少し離れた木陰にいた鬼美に大きく手を振っている。鬼美は足を千切られた父親の元を離れ、鬼子に駆け寄り、不安を悟られないように精一杯笑みを作った。


「おう。じゃ、行こうぜ」

「鬼美ちゃん」

 鬼ヶ島から本土まで、およそ一週間はかかる。

 一週間分の食糧を抱えイカダに乗り込もうとする鬼美に、鬼子が改まって話しかけた。


「何だよ?」

「ありがとう」

「何が?」


 小首を傾げる鬼美に、鬼子は「何でもない」と呟いてクスクス笑った。それから鬼子と、最後に胴体だけになった豪鬼がイカダに乗り込んで、三人は黒い海の中をゆっくりと進み始めた。先頭に立ってイカダの行先を睨んでいるのが鬼美で、豪鬼の胴体は一番後ろでオールを漕いでいた。


「気をつけて行くんだぞォ!」

「鬼蔵さァん! ありがとぉお!!」


 だんだんと遠くなっていくイカダを、浜辺から鬼美の父親や、残された鬼たちが大きな声で見送った。海の途中まで、天狗の子供たちがふわふわとイカダの周りを飛び回り付いてきてくれた。鬼子はイカダを漕ぐ父親の肩に飛び乗って、精一杯声を張り上げみんなに別れを告げた。やがて大きな風が吹き、大きな波が来て、鬼ヶ島は遥か彼方に遠く小さく見えなくなった。



「ん……」


 それから三人を乗せたイカダは、一晩中海の上を漂った。鬼ヶ島が見えなくなった途端、疲れて眠ってしまった鬼子だったが、うしこくも過ぎた頃、一人海の上で目を覚ました。夜の波は静かだった。揺りかごのようにゆらゆら揺れるイカダの上では、鬼美が『布』を頭から被り寝息を立てており、豪鬼の方はオールを抱いて、腕を組んで胡座をかいていた。鬼子は、いつの間にか自分の体に掛けられていた『布』からのそのそと這い出し、

「!」

 そこであんぐりと口を開けた。

「うわぁあ……!」

 鬼子は空を見上げ、思わず声を上げていた。


 空が、光っていた。


 初めて見る、雲に覆われていない空。

 そこには数え切れないほど小さな光の粒が散りばめられ、鬼子の頭上で煌々こうこうと輝いていた。鬼子は十歳になる今日まで、鬼ヶ島の外に出たことがなかった。色も、いつもの真っ黒ではない。深い青に染まる上空の景色に、鬼子はしばらく目を離せなかった。


 そこは、鬼子が見たことのないものばかりだった。

 降り注ぐ星の光の他にも、夜空には黄金色に輝く巨大な模様かおが浮かんでいた。その模様かおが『三日月』と呼ばれるものだと鬼子が知ったのは、イカダを降りてしばらく経ってからだった。その『三日月』も毎晩逢えるものではないと知ったのは、もっともっと後になってからだった。鬼子がぽかんと口を開けている前で、満天の星空はするみたいに星の光一つ一つが閉じたり開いたり、ゆっくりとその表情を変え続けた。


「おっちゃん……」

 やがて小さな流れ星が一つ、夜の空から零れ落ちて行った。

 鬼子は顔を上げたままポツリとそう呟くと、寒そうに体をブルっと震わせ、『布』を引っ張って豪鬼の側に身を寄せて丸くなった。

「…………」

 その様子を、鬼美が横になったまま黙って見つめていたが、結局最後まで鬼子に声をかけることはなかった。それから、再び眠りについた二匹の鬼娘たちを、空に浮かぶ星たちが夜が明けるまで静かに見守っていた。


□□□


「失礼します!」

「入れ」


 空母『ハチ公』の司令室。

 部下の一人が激しく扉をノックする音に、犬神がガジガジ齧っていた『鬼』の骨を皿に戻し、低く唸った。若い水兵は勢い良く扉を開け、中央の椅子に深々と座る犬神に向けて、その場で敬礼した。


「夜分遅くに失礼します! 艦長。ご報告が二件あります!」

「何だ?」

 袈裟姿の大型犬いぬがみは机の前に身を乗り出し、黒縁眼鏡を光らせた。部下は敬礼の姿勢を崩さずに、上司の前でハキハキと声を張り上げた。


「はっ! 一つは本部からであります。明後日みょうごにち、『新人研修』を兼ねて今年征夷軍に入隊した新人を数名、犬神艦長に預けたいと」

「『新人研修』だと?」

「はっ!」

 思いがけない言葉に、犬神が片方の眉を釣り上げた。

「俺に若い奴の世話係をしろってことか?」

「はっ! 先ほど帝から直接連絡があり、何でも『面白い奴がいるから、見てやってくれ』と……」

「面白い奴?」


 犬神の表情がますます険しくなった。大体人間の上司みかどの言う『面白いこと』とは、物の怪の部下いぬがみに取ってちっとも『面白くないこと』がほとんどだった。

「どんな奴だ?」

「はっ! 詳しくは存じませんが、『桃太郎』だそうです」

「桃太郎、ねえ」

 犬神が背もたれに体を戻し、深いため息をついた。


 人間の世界に伝わる神話のおかげで、我こそは桃太郎だと名乗りを上げる輩は後を絶たない。

 犬神が海軍に雇われ始めてからも、何人もの自称・『桃太郎』たちが征夷軍にやってきた。彼らはみな意気揚々と自慢の武器を片手に、鬼ヶ島や、本土にある物の怪どもの巣窟そうくつを血に染めてきた。容赦なく撃ち殺した物の怪たちの返り血を浴び、の雄叫びを上げる自称・『桃太郎』たちの姿を見るたびに、犬神はどちらが本当の『鬼』なのか次第に分からなくなったものだった。


「……精々今度の『桃太郎』とやらは、多少は正気マトモな奴であることを祈るのみだ」

「ですが、これは帝からの勅令であり……」

 「分かった分かった」と面倒臭げに頷いて、犬神は渋い顔で部下の言葉を遮った。

「それで? もう一つの報告は何だ?」

「はっ!」

 水兵はやはり敬礼の姿勢を保ったまま、表情一つ変えずに声を張り上げた。


「先ほどから電探レーダーが海で”何か”を感知しておりまして……」

「”何か”?」

「どうやら漂流したいかだのようです。念のため、攻撃の許可をお願いします」

「馬鹿野郎。そっちを先に言わねえか」


 犬神は唸り声を上げ、机の下からガトリング砲を引っ張り出した。

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