第一章 犬
第1話 Let's Get It Started
「
荒波の打ち付ける岩場に、年老いた鬼の張り上げた声が響いた。島でも一番古株の老鬼は今、ヨボヨボになった体を震わせながら、鬼ヶ島の最西端、凸凹した地面から突き出た大きな岩によじ登ろうとしていた。
「鬼子! これ!!」
目元や口元を真っ白なヒゲで覆われた老鬼の視線の先には、岩の一番天辺に腰掛け、汚れた真っ暗な海をぼんやりと眺める幼子……鬼子がいた。黒と黄色でできた、稲妻模様の『布』を身にまとった鬼子は、時折鬼ヶ島の上空を吹き荒れる突風にブラブラ体を揺らしながら、楽しそうに笑っていた。
「これ、鬼子! 降りてきんしゃい!! 稽古の時間じゃろうが!!」
「やぁあよ」
おかっぱ頭の鬼子は欠伸混じりに、眼窩で豆粒のように小さく見える老鬼を眠そうな目で見下ろした。ブラブラブラブラ、風に身を任せながら、鬼子は手にしていた腐ったミカンを一齧りし、苦そうに顔をしかめ吐き出した。
「だって、つまんないんだもん。鬼子、うみながめてる方がすき」
「全くもう……そんなことでは、いつか襲ってきた”人間様”にやられっちまうぞ」
ふうふう、と息を切らし、白髪混じりの老鬼が岩場を登ってきた。老鬼は額の汗を拭いながら、険しい顔を作りぼんやりとした笑みをたずさえる鬼子の顔にずずいっと近づけた。
「ええか、鬼子。太古の昔から、我ら鬼は人間様を食糧にしておった……」
「知ってるよ、桃太郎伝説でしょ?」
「最後まで聞かんか。我ら鬼のご先祖様たちは、昔は人間様と一緒に、山奥に住んでおった。じゃが、ご先祖様たちは人間様の住む里で暴れすぎた。そこで怒った人間様の一人が、我らを成敗し、魑魅魍魎どもと一緒にこの鬼ヶ島へと追放したのじゃ……」
「おい鬼子、行こうぜ」
「鬼美ちゃん」
鬼子が欠伸を繰り返していると、老鬼の登ってきた反対側から、ひょっこりと二本のツノを持った小鬼が顔を出した。真っ黄色な肌にくるくるパーマの女の子を見て、鬼子の顔がぱあっと明るくなった。
「……若い鬼どもは『人間なんて全員とって食え』と血気盛んじゃが……じゃがのう……鬼子や。ワシらは昔、人間様に悪いことをしたのじゃ。そりゃ、怒って当然じゃ。襲ってくるのも無理はない。ワシらは人間様に誠心誠意謝って、償いを……聞いとるのか? 鬼子?」
老鬼がはたと気がついて辺りを見渡すと、鬼子と、その友達の鬼美はとっくに岩場を下まで降りてしまっていた。
「おじいちゃーん!」
岩場の天辺でぽかんと口を開ける老鬼に、鬼子は地上から朗らかな笑みで両手を大きく振った。
「降りるとき怪我しないようにねぇ!」
「これ! 待ちんしゃい、鬼子!!」
老鬼の叫び声も虚しく、二人は風の子のようにさっさと姿を消すのであった。
□□□
「あの青鬼の爺さんよ、モーロクしてるぜ」
真っ黒な空、真っ暗な海。くるくるパーマの鬼美が、腐った木の実をかじりながら、ケラケラと笑った。二人は島の最南端、捻じ曲がった木々が生い茂るジャングルの端に来ていた。それぞれ座り心地のいい木の枝に腰かけながら、二人は物の怪どもの目が光る暗がりの森の中でヒソヒソと笑い合った。
「”償い”だって。謝ったら、その”人間様”は鬼を襲って来ないとでも思ってんのかね。じゃあ、あたしのおっ
「人間だって毎日牛さんや魚さん食べてるのに、どうして鬼子たちは人間を食ったらダメなの?」
「な。だよな?」
鬼美が笑った。鬼子はふわああ、と大きな欠伸を繰り返し、鬼美は稲妻模様の『布』から黄色い腕をグルングルンと回し、枝の上に仁王立ちしてみせた。
「人間どもめ。戦艦でも戦闘機でも、来てみろってンだ! こっちにゃ百匹の鬼たちが、金棒持って待ち受けてンだ。今度鬼退治に来やがっても、ただじゃおかねえ」
「せんかんってなぁに?」
不思議そうに小首をかしげる鬼子に、鬼美は肩をすくめた。
「ンでも……そろそろ、ホントに稽古場戻った方がいいかもな。ホラ、長官……アンタの親父、豪鬼さん。あの人怒るとおっかねえモン」
「…………」
豪鬼の名前が出た途端、鬼子は先ほどまで太陽のように明るかった顔をさっと曇らせ、黒いおかっぱの先にくりくりっとした両目を隠し俯いた。鬼美がおし黙る鬼子を見て、ゆっくりと彼女の隣に腰かけた。
「鬼子、
「だって……」
鬼子は俯いたまま小さく頷いた。
「お
「そりゃ、鬼子は豪鬼さんの一人娘で後継だからなあ。張り切っちゃうんだろうなあ」
「…………」
鬼子は俯いたまま、足元の地面をひょこひょこと歩く豆狸の群れを見つめた。
「鬼子、鬼美ちゃんたちより背も低いし、金棒も下手だし。向いてないよ……」
「成長が遅いだけさ。気にすんな」
今にも泣き出しそうな鬼子の肩を、鬼美が笑ってばあん! と叩いた。だけどそれでも、鬼子の表情は晴れなかった。
実際、鬼子の背は同じ十歳の他の鬼たちに比べて、うんと低かった。他の鬼たちがぐんぐんと大きくなる中、鬼子はその半分しか背丈がなかった。鬼子は何とか身長を伸ばそうと、腐った牛乳や魚の骨をたくさん食べたが、あいにく彼女の見た目はずっと五歳児で止まったままみたいだった。
「……お
「ン?」
「お
鬼子は自分の小さな腕を突き出して、それからとうとう、胸の奥にたまりにたまったものを吐き出した。
「鬼子、お
「鬼子……」
「他の鬼さんたちは、みんな赤に青に黄色に黒に……鬼子だけだよ。こんな、人間みたいに桃色で、ちっぽけで……」
「あのなあ。肌が何色だって、鬼がいちいちそんなの構うもんかよ」
涙声の鬼子を遮って、鬼美が声を張り上げた。
「だって、みーんな違うんだもの。鬼子は、鬼子の色なんだろ。それにどっからどう見ても、鬼子は豪鬼さんの子だよ。怒ると、えれえおっかない」
鬼美がケラケラと笑って、鬼子にその真っ黄色な舌をべっ、と突き出してみせた。鬼子はしばらくそれをぽかんと見つめていたが、やがて泣き出すように顔をくしゃくしゃにしながら笑って、鬼美にべっとピンク色の舌を突き返した。
「ふっ……ふくく」
「えへへ……」
「……行こか。見つからないようにこっそり裏から入って、稽古してたことにしよ」
「ン……」
鬼美が立ち上がり、鬼子に黄色い手を差し出した。鬼子は『布』の端で涙を拭いて、鬼美の手を握り返した。
その時だった。
島全体が爆発したみたいに大きく揺れ、二人は木の枝から放り出された。
□□□
「それにしても、お主も真に
薄暗がりの朝廷に、嗄れた声が響き渡った。明かりは提灯一つだけで、火がゆらゆらと風に攫われるたび、中にいた人影が大きく揺れ動いた。帝は朱色の盃を口に運びながら、唇の端をゆっくりと釣り上げた。その顔はすでにほんのりと桃色に染まっている。
「齢十にして、すでに大人と変わらん体をしておる。お主、名前は?」
帝の据わった目の視線の先には、一人の青年が正座していた。酔いの回った帝とは逆に、青年は精悍な顔つきのまましかと帝を見据え、それから深々とお辞儀して答えた。
「は。桃太郎と申します」
「左様か」
帝は楽しそうに笑い、ぐいっと盃の中身を流し込んだ。
「百年前の戦争以来、この国には英雄の名にあやかろうと、どいつもこいつもやれ『桃太郎』という名になってしもうた。能登の桃太郎、越後の桃太郎、出雲の桃太郎……おかげで呼び分けるのに一苦労じゃ。面をあげい。それでお主はどこの、何をしてくれる桃太郎なのじゃ?」
「は。私めは……」
帝が興味津々で身を乗り出した。桃太郎と名乗った青年は、およそ十歳とは思えない大人顔負けの体つきで、ゆっくりと顔を上げ静かに声を張り上げた。
「私めこそが、にっくき鬼を撲滅せんと、川上から流れ流されやってきた桃太郎にございます。天子さま。どうかこの私めに、鬼退治をお申し付けください」
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