幕間 上鶴麻衣

幕間ーⅠ

 神奈川県のとある高校のバスケ部員だった上鶴麻衣かみつるまいは、比較的大人しい性格と言えた。

 ベンチスタートの控え選手だったが、必ず試合の途中で入れ替わり、チームの雰囲気を変えて勝利へと導くシックスマンだった。

 大人しく、冷静沈着。全てにおいて物事を冷静に分析し、付け入る隙を見つけては勝利を目指す。

 チームの中でも控えめで、勝利に対する欲求も薄い人間と思われがちだが、実際は誰よりも勝利に貪欲で、例え自分がベンチスタートだとしても、勝利のためならば甘んじて受け入れることが出来た。

 今回の異境いさかいでも、自分が勝利に貢献できるのならいくらでも力を貸すつもりで参戦を決めた。

「此度の町田争奪戦、神奈川代表選手に選ばれたことをご報告させて頂きます」

 一体どうやって、警備網を潜り抜けたのか。

 県内私立のお嬢様学校が故、何重もの警備網が敷かれていたはずだが、彼はいとも簡単に抜けて、一人練習していたバスケットコートへとやって来た。

 すでに他の部員は出払っていて、残っていたのは彼女だけ。

 無心で打ち続け、ゴールをすり抜けた数だけのボールが、彼女と彼の間に転がっている。

 フェアという部外者が突如として現れ、忽然と消えた今、本来片付けなければならないそれらのボールは、しばらく転がったままだった。

 上鶴は迷っていた。何せ彼女の通う学校のバスケ部は、この夏最後の大会に出ることが決まっていたからである。

 上鶴はまだ二年生だが、学校の方針で三年生は受験に専念させるため部活動は二年生までで、上鶴もこの夏の大会を最後に引退しなければならなかった。

 そして異境当日が、この大会初日の試合と被っていたのである。

 さすがに自分のチームが、初日で負けるなどとは思っていない。大抵のチーム相手なら、なんの苦もなく勝てただろう。

 しかし相手は、あの鎌倉夏美かまくらなつみのいる学校だった。他のどの学校よりも因縁の深いチームが、よりにもよって初戦の相手だった。

 もしも鎌倉が出て来れば、止められるのは自分だけだ。勝てる可能性はグンと低くなる。

 繰り返し言うが、上鶴はチームの中で誰よりも勝利に貪欲で、勝利を渇望している人間だ。

 一人残ってひたすらにゴールへと撃ち込んだボールの数が、悠然と物語っている。

 自分が出ると決まっている試合なら、それがどのような分野であれ努力を惜しまない。

 だからといって必ずしも一番になれる訳ではないし、得意になれる訳でもない。勝てる訳でもない。

 しかし出るからには勝ちたいし、やるからには最高レベルの成績を残したい。

 誰にも負けない競争心と闘争心を兼ね備えた静謐な戦士。それが上鶴麻衣という女の本性だ。

 とはいえ、現実不可能な妄言を語るほど馬鹿ではない。

 自分がもしも二人いればと思う瞬間こそなかったが、この時初めて思った。

 バスケにも勝って、異境にも勝つ。そんなにも素晴らしい瞬間は他にあるまい。

 バスケは高校生活最後の大会で、異境は今後二度と選ばれるとも限らない。

 どちらも一生に一度しかない大切な戦い。

 その両者に勝ちたいという衝動が、上鶴を極限まで迷わせた。

 異境にそもそも棄権というルールが存在するのかもわからないが、しかしこれまで続けてきた集大成を見せる場として、バスケの大会は出たい。

 だが一世一代の大勝負。一生に一度の機会となるだろう異境の戦いに出て、自分という勝者を確立したい気持ちもある。

 勉強と部活、双方を両立できたわけではない。

 確実な勝利を得るためには、何かを犠牲にすることも必要なことはわかっている。

 しかしどちらでも勝ちたいという衝動は、隠し切れなかった。

 どうすればいいのか、悩みに悩む。

「麻衣!」

「姉ちゃん」

 上鶴真琴まことは一つ上の姉だ。

 同じ高校で、元は妹と同じバスケ部に所属していて、キャプテンだった人だ。

 勝利に貪欲な妹だが、正直姉には負ける。

 何せ二つ上の兄に張り合うために東大を受験し、一年で合格圏内に食い込んだ人だ。

 そもそもバスケだって、プロで活躍する兄に負けたくないために姉が始めて、その姉に負けたくない一心で妹も始めたのだから、そもそも妹のバスケ人生は、兄に負けたくない姉の影響である。

 そんな姉が今日この日、遅くまで学校に残っていたのは偶然か必然か。

「どしたの。ボーっとして」

「……実は、ね?」

 ボールを片付けるのを手伝ってもらいながら、姉にすべてを白状した。

 異境の参加者に選ばれたことも、バスケの試合と重なってしまったことも、どっちも。

 当然、元バスケ部主将としては大会に出て欲しいのだろうなと思っていたのだが、姉は少し考えると調度持っていたボールを一度跳ねさせて、軽いモーションでゴールポストへと抛り込む。

 一年近くバスケから離れていたのに、体は憶えているものらしい。妹の麻衣も見入ってしまうほど、美しい曲線を描いたシュートだった。

「あたしは別にどっちでもいいと思うよ。バスケの試合も異境も、あんたからしてみりゃ変わらないんでしょ? ただ勝ちたいからやるんでしょ? だったら単純明快。やりたい方を全力でやる! ただそれだけ!」

 ゴールを通り抜けたボールが転がって、姉の足元へ戻っていく。

 それを拾い上げた姉が再びゴールへ抛り、入って、転がって戻って、また抛り込まれる。その繰り返しが、面白いようにはまっていた。

「まぁチャンスだけの話をするなら、バスケなんて今後ずっと出来る。あんたがしたいと思えれば、いつだってで出来る。だけど異境は選ばれないと出来ない。自分がどんな人間で、初めましての人とどんな連携してどう勝利に持って行くか、試すにはいい機会なんじゃない?」

 就職に有利だとか、そんな保険はない。

 異境は国が総力を挙げて行なっている祭典というだけで、優勝賞金と、優勝した際に送られる褒賞くらいしかメリットはない。

 参加する事は国益にはなるだろうが、自分達の利益にはならないのだ。

 だから確かに、異境に参加すること自体に意味はない。

 だが今後の自身の成長のためには、必要なことなのかもしれない。

 対してバスケの大会は参加することに意味があり、今までの集大成を試す大切な場所。

 何より同輩や後輩らと共に紡いできた練習の日々を無駄にしたくないという意味でも、バスケの大会には出たい。

 勝利の褒賞としては物理的なものは異境の方が大きく、達成感としてはバスケの方が圧倒的に高いことは明白。

 やはり迷う。

 戦うことに躊躇はない。

 問題は、どちらの勝利に貢献するために戦うかだ。

 門限となった学校を出ても、答えは出なかった。

 姉の答えも、決心に至るまでにはならなかった。

 ならばどうするか。

 上鶴は考え、そして動いた。その足は自宅ではなく、姉とは違う道を走っていく。

 バスケで鍛えた俊足を鳴らして、颯爽と、肩で風を切って。

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