思索に耽る

ひやニキ

理解へのラブコール

 人の時間は有限である、ゆえに識る・理解することの出来る物事もまた有限である。

そうなると次に人は、知り得たい物事の「結果」を追い求め理解しようとする。だが、それは大きな間違いである。

何故ならば、「過程」の理解無くして「結果」の理解には至らぬからだ。

ところが人はやたらと結果のみを急く傾向がある。若い時分、己もそうだったが特に若いほどにせっかちになる気もする。

 喩えるなら高校数学における公式の暗記のようなものだ。

普段勉学に勤しまない学生は少しでも定期テストで点をとるために、数学の公式のみを暗記し、それに当てはめて問題を解こうとする。

しかしながら、これは一時的に結果を覚えているだけに過ぎない。真に公式を理解しているとは言い難い。

本当にその公式が出来た過程と意味合いを理解しているならば、公式を全く覚えていなくても、其の場で与えられた情報から自発的な思考の元、公式を導き出せるのだ。


 結果とは過程の積み重ねである。時間や事象の経過と共に起こりうる事象に区切りを付けた一到達点でしかない。

要は構成する要素を理解しなくては、結果を知ったところで断片的な理解はせども、完全な理解には至らない。

若し「理解した」と思っていても、それは自身の脳が経験や知恵から推測し、自身の解釈を加えた虚像となる。無論、経験や知恵のないまま理解したつもりのものは、もっと矮小なものとなるが。

 完全な理解をしていないということは、正しい結論を導けないのと同じだ。結果と結論は同じ言葉に聞こえるかもしれないが、全く違う。

これを読む諸君の中にもかつて自由研究などで

「結果と結論って何が違うのか?」と頭を悩ませたものもいたことだろう。

僕が解釈しうる結果は、一つの到達点であると共に、生じたものの状態・状況をただ指して言っているに過ぎない。

一方結論とは、結果から生じた考え・考察を取りまとめて判断するという、思考を通して得られた内容そのものを指す。


 これを踏まえて逆を言うならば結果のみを知って、過程を聞かぬまま推測して理解した気になるのは危険と言えよう。誤った見識や誤解を自分の中に生みかねないからだ。

其れにより個人の中に事実とは全く違った像が、まるで陽炎のように朧げに出来上がり、個人の目に映る世界を微妙に歪める。

 先程も述べたが、結果は区切りある一到達点とすると到達点が微妙に歪んだまままた新たな過程を積み重ね続けることになる。

するとどうだろう。最初は微小だった事実との差異も次第にどんどんと大きくなっていく。


 何も知ろうとはしない無知は罪だが、間違った理解も時に大きな罪である。

下手をすると無知である以上に、知った気になっている分

「へぇ、そうなのか!」とならずに

「いや、自分の中ではこうである」と識り直すことを拒み、間違った理解を正そうとしなくなるかもしれない。俗に言う後に引けない、や頑固である。

対して歪んだ結果のような像を内面に構成していたとしても、正しい過程と結果の理解を与えられた時に其れを己の頭で思考し、その上で受け入れることこそ成長であると言えるだろう。

「素直な人間のほうが成長する」とはよく言ったものである。

もっとも、自分の脳髄で思考するにも訓練と勉強が必要だが。


 よくある話だが、A君とB君が喧嘩したとする。

C君がA君から、D君がB君から喧嘩した経過をなぞる話を聞いたとする。するとA君もB君も自分の都合の悪い部分は話さず伝えるため、受け手は正しい過程を理解せず、結果を「理解した」気になり間違った結論=仮想的事実(と仮に表現する)を出す。

更にこれがC君及びD君の口を伝ってE君の耳に入る頃には歪んだ事実のみが複数伝わることとなる。

これをE君が変に感じ「それはちょっと話が違う。違和感がある。」とC君とD君に言っても、二人が素直に耳を傾けなければ、その時点で到達点は歪み、その後もゆがみ続け、仮想的事実と事実が一致することはなくなる。


 と、なると早くから結果を正しく理解する・識るためには、過程を確りと語り手の「感情」のフィルタを極力通さない事実として一つづつ解釈し続け、理解せねばならない。

往々にして感情のフィルタを通さない過程の情報を得るのが難しいのも事実である。

人には悪意があれどなかれど、自身の都合の良いように話を伝える傾向がある。だからこそ、「百聞は一見に如かず」という諺が生まれたわけだ。

伝聞ではなく経験し、見て、読み、知覚する。そしてそれを思考する。それこそ大吾に至る道というわけだ。

先の例において言うなら、E君が二人の話を聞いても差異を感じず、聞いて理解した気になる白痴だったとしたら「へぇー!」と感じて終わり、誰も正しい見識には至れない。

 とはいえ、己の身で知覚するのも、思考するのも案外と難しい。何故ならば、近くするには数多くの行動が必要とされ、思考するには数多くの知的体験が必要だからだ。


 すると以上のように思考した僕は今、自分の若い時分の行いを悔いている。

何故ならそれは若い頃に数多くの時間をもっと知的体験を多く積み重ねたり、数多くの行動を起こす時間に充てられたはずだからだ。

例えを出して言うなら、もっと本を読んだり色んなことに興味を持ち恐怖心を乗り越えやってみることをすべきだったし、それらをせずにただ漫然と今楽しいと思えることをしてただけの時間が勿体なかったと。

余計かつ雑多な感情に悩み、怒り、苦しみ時間があり、何でも「之ゝは無理だ」と制限を課してる暇さえあるならそれが余計なパワーであったということである。


 身近なことから大きな概念まで、世の中のことを理解するには人の人生はあまりにも短く有限である。

その有限な時間の中で、物事の過程と結果を正しく認識し結論づけられるようになるためには、知的好奇心などを契機にした興味から発する積極的行動や読書による知の貯蔵が必要なのかもしれない。

 その知覚と思考の土台があって、はじめて過程と結果を感情のフィルタをブレイクスルーして理解に臨めるのである。

間違った理解に対する素直な修正も同様だ。知と思考がなくては、それは素直ではなく思考の死、謂わば思考停死だと考える。

それは過程や結果の斜め聞きや、頑固も同様だろう。自分の思考が凝り固まり、思考が停止している状態に他ならないと感じている。


 人の有限にして短い時間の中で、数多くのことを正しく理解するために制限なく識ること、学ぶこと考えることこそ肝要ではなかろうか。

そのため、我々は無駄なことに一分一秒も時間を無駄にしている暇はもしかしたら無いのかもしれない。

どうかどうか、無駄にできない時間の中で思考停死しないよう生きていたいものである。

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