第2話上
「どっか食べにいこうぜ」
「明日皆で遊びに行かない?」
休み前日の職場は華やかなものだった。
もちろんその中に彼は入っていない。
残業をし、やることを終えた浩太は一言だけお疲れ様でしたと呟いてそそくさとその場を離れる。
その言葉に返答する者はいない。
嫌がらせを受けているのではなく、そこに彼の存在はほぼないのだ。
無口で無表情な性格をしている彼も悪いとも言える。
とある小さなアパートの一階に彼の住まいはあった。
鍵を回して扉を開けると最近住み着いた住人と最近知り合った女性が飛び出してくる。
「あうぁ~!」
「あうちゃんっ、走っちゃダメだって!」
「…」
犬のような耳を生やした獣娘は嬉しそうに彼を出迎えた。
この二、三日でよくもまぁここまで懐いてくれたものだ。
あうが着ている衣類は全て舞のお下がりとのこと。
「あ、小野さんおかえりなさい」
「…ただいま」
カバンを置きながら慣れない言葉を呟く。
舞はエプロン姿で走り回るあうを捕まえて抱きかかえていた。
学生というのは遊んでいるイメージだが、驚いたことに彼女の家事スキルは結構すごい。
「そうだ、明日お休みなんですよね」
「ああ」
「だったらどこか遊びに行きましょう!」
唐突に舞が放った台詞は彼にとって何度も耳にしてきた全く無縁の言葉だった。
しかも舞は初めからそのつもりだったのか、あうの耳を隠す為に麦わら帽子まで用意していた。
眼はカラーコンタクトということにしておくとの事だが、見た目4,5歳児にそれはどうなんだろうか。
舞が作った食事は料理人顔負けといえるほどの腕前だった。
洗い物くらいは、と彼は台所に立ち、使用した数々の食器たちを片付けていた。
「洗い物、ごめんなさい」
「いや、作ってもらったし」
「あうあ~!」
ピョコピョコと彼が何をしているのか見ようと隣であうが飛び跳ねていた。
「危ないぞ」
「あ~ぅ!」
「…よいしょっ」
あうの後ろに回った舞が両手で持ち上げる。
「小野さんは今洗い物だよ~」
「あう」
ジッと彼の手元を見つめる少女。
次々にキレイになっていく食器を見て喜んでいた。
感情が表に出ない。
ただ、きっと今のこの光景はとても穏やかなものだろう。
「いってきます、はいっ!」
「あう!」
「…いってきます」
翌日、準備が整った一同は家の扉の前にいた。
ここに来て初めての外出に喜ぶあうだが、一番はしゃいでいるのは舞のように見える。
目的地はない。
ただデパート内をうろつくだけ。
何もかもが新鮮に感じるのか、あうは見るもの全てに驚きの表現を表していた。
自販機から物が出てきた驚きで尻餅を付いていた。
「あうちゃん、これはね~自動販売機と言って…」
「いや…言ってもわからないと思うけど」
そして一つ一つ物の名前を教えていく舞。
彼女は本当に子供が大好きなのだろう。
舞がお手洗いに行くとのことで、彼と少女は近くにベンチに腰を下ろしていた。
浩太はこの子くらいの歳の娘がいてもおかしくない年齢、もしかすると周りからは親子に見えているかもしれない。
「あぅっ」
「ん?」
突然あうに服を引っ張られ、指差す方に眼をやるとソフトクリームと書かれた看板が見えた。
ほしい、というよりあれは何?といった感じだ。
「あうちゃん、今食べたらお昼ご飯入らなくなっちゃうよ?」
「あう?」
戻ってきた舞があうの頭を撫でながら言う。
「まぁいいんじゃないか、一つくらい」
「ふふ、小野さんって子供に甘いタイプなんですね」
「…そうか?」
「じゃあ食べちゃいましょう!」
あうの手を握って駆け出す舞。
彼にとってあの二人は親子というより、仲のいい歳の離れた姉妹に見えた。
それからは大変な時間だった。
舞は心底楽しそうにしていたが、子供に飲食店での物の食べ方を教えるのがここまで大変なことだとは思わなかった。
そう、彼は大変な時間なんて味わったことがなかった。
全てが新鮮に感じているのはあうだけじゃないのかもしれない。
「夕食ごちそうになってすみません」
「いや、普段世話になってるから」
「…くぅ」
日も落ちてきた帰り道、あうは彼の背中で静かな寝息をたてていた。
「よっぽど疲れたんですね」
「ああ」
それくらい少女にとって楽しい一日だったと言える。
「…小野さんは楽しかったですか?」
「…俺は」
上目遣いで見てくる舞に眼を合わせることができず、彼は無表情で正面を向いていた。
今日一日大変だった。
今日一日いつもより疲れた。
だけどその疲れが普段と違うものだということは理解できていた。
「そうだな、楽しかったかもしれない」
「そうですかっ!」
そんな曖昧な答えに心底嬉しそうな表情を浮かべる舞。
これまで生きてきた人生の一部が脳裏によぎる。
公園で遊ぶ子供達の片隅で一人、拾った枝で地面に絵を描いていた自分の姿を。
獣娘と共に生活に送ることとなって数日、変わった点が一つあった。
夜中にあうは彼の布団の中に忍び込んで寝るくせがあるので、しかたなく浩太も一緒にベッドで寝るようになった。
そんなある日。
眼を覚まし、ぼやけた視界がはっきりしてきたところで驚く。
真正面に舞の顔がある。
気持ち良さそうに寝息を立てて眠っていた。
浩太と舞であうを挟む形。
「…」
「…んん」
舞はゆっくりと眼を開け、しばし彼と見詰め合う。
「…なはっ!」
起きている彼に驚いた舞はベッドから落ちてしまう。
その音であうが眼を擦りながら身体を起こした。
「…あ~ぅ」
「おは、は、おはようございます」
「…おはよう」
「これは…その…小野さんとあうちゃんが気持ち良さそうに寝ていたもので…っ」
顔を真っ赤にして言い訳をする舞。
彼はスマホを取って時刻を確かめる。
「疲れてるんじゃないか」
「…そうとるんですねぇ」
一瞬にして無表情になる舞だが、彼には何がなんだかわからなかった。
毎日朝早いから疲れているのでは、とそう思っただけなのに。
「ちょっと自販機」
寝巻きのまま玄関へと向かうと、あうが彼の服を引っ張った。
「あ~、あぅあ~」
「…何」
「一緒に行きたいんだよねー」
「あう?あぅ!」
この女は何故この獣語を理解できるのか不思議でしかたなかった。
もしかすると保育士が向いているのかもしれない。
「あう、帽子」
「あぅっ」
テーブルの上に置いてある麦わら帽子を指差すと、うれしそうに駆け足で取りに行く。
こういうことには気がつくあうだった。
プライベートでの生活は変わっても、会社での彼の過ごし方は同じだった。
おはようございます、とお疲れ様でしたと誰も返してこない挨拶をするだけの毎日。
だけど最近になって周囲の会話に耳を傾けるようになっていた。
話の内容は、自分の子供との過ごし方について。
最近息子が何をした、最近娘とどこへ行ったなどなど。
その中でも一番気になったのは、誕生日会というイベント。
彼も小さい頃は家族に囲まれて行っていたかもしれないが、何事にも無関心なため記憶にない。
だが、聞けば子供はそういうのにはすごく喜んでくれるそうだ。
「…お疲れ様でした」
誰もいなくなった職場で一人呟いて外へ出る。
珍しく今日は周りを見ながら歩いて帰っていた。
そう、彼はある店を探していたのだ。
「…」
目的のもの見つけた時言葉を失った。
デカデカとスイーツと書かれた看板、考えるだけならいいが入るとなれば相当勇気がいる。
無表情で悩むその姿は周りから異様に見られていた。
決心し、足を踏み入れて元気良く挨拶してくる店員に一言。
「い、祝い事とかのケーキを」
一瞬驚いていた店員だったが、慣れているのかいろいろな商品を紹介してくれた。
結局、ごく普通のショートケーキになってしまった。
「あ、おかえりなさい」
「あぅあ!」
「…ただいま」
未だに慣れないこの挨拶を軽く流して靴を脱ぐ。
「あぅ、あ~っ!」
彼の手に持っている袋に気づいたあうはズボンを引っ張ってこれが何か問いただしてくる。
「あっ、あうちゃんこれケーキですよ!」
恐らく袋に書いてある店名と、かすかにする甘い香りで舞は気がついたのだろう。
珍しそうに彼に視線をむける舞。
「か、歓迎会的な」
あうが来て結構経っているが、祝い事といえばそれくらいしか思い浮かばなかったのだ。
「やったねあうちゃん、晩御飯食べたらいただきましょうね!」
「あ~?」
やはりよくわかっていないあうよりも舞の方が喜んでいた。
でも今はわからずとも、時間をかけて経験していけば次第に理解していくだろう。
何がしたくて、何が好きか。
それはきっと彼にも言えることだった。
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