お別れ
夏休みの後半から、僕と遥香は受験勉強に励み始めた。かなり遅いスタートだったが、僕らはその分、怠けずに努力した。
遥香は大学についての提案を、小春に話した。意外にも小春は乗り気で、僕らと一緒に勉強するようになった。小春は僕ら三人のなかで最も勉強が良くできた。それゆえ、どちらかと言うと、僕と遥香の先生役と言ったほうが正しいような立ち位置にいた。
僕らの勉強場所は、もっぱら遥香の部屋だった。時には学校の図書館で勉強することもあった。遥香と小春は、その雰囲気を懐かしく思うらしく、それを気に入っていた。
初めはさっぱりだった勉強も、しばらくするとだいぶ身についてきた。これは、小春のおかげだ。模試でも結構な点数をとれるようになってきて、志望校合格も見えてきた。
何もかもが順調だった。僕の死を除いては。
僕は、決してそれを明かさなかった。この大事な時期に遥香を哀しませて、勉強まで駄目にしてしまったら、僕は死んでも死にきれない。もはや後戻りはできないのだから、それを黙っておくことは、あまり苦痛ではなかった。むしろ、あれ以来僕は、さっぱりとした気分で日々を送っていた。後悔は無かった。もう、未来は無いのだと思うと、勉強でさえも楽しく思えた。彼女たちと過ごす日々の一つ一つが愛おしく、輝いてみえた。
夏が過ぎて、秋が来て、それも過ぎていって、冬が訪れた。この辺りでは珍しい、積もるような雪が降った。遥香は雪玉を僕に投げつけて、嬉しそうに笑った。僕はそんな彼女に駆け寄って、思い切り抱きしめた。遥香はくすぐったそうに身を捩りながら、僕のほうを向いてキスをねだった。僕は彼女の要求に従った。
そんな、幸せな記憶がいくつもできた。そんな時には、さすがに、いくら覚悟しているからといっても、強がってはいられなかった。僕は独りになってから、密かに声を殺して泣いた。誰かに気づかれたら崩れてしまいそうで、姉にも言わなかった。僕はあくまで頑固に、独りで死の運命を背負い続けた。
冬休み、僕は遥香の家へ泊まりに行った。センター試験を間近に控えていたので、そのための追い込みと称して。実際、僕らは勉強に励んだ。疲れたらなんでもないような話をして、それで、また勉強した。遥香は、やや緊張しているようだった。
夜も遅くなってきた頃、遥香は僕に、キス以上を要求してきた。僕は揺れた。けれど踏みとどまった。徒に、遥香を傷つけたくはない。僕がいなくなった後、一秒でも早く、僕を忘れられるようにしなければならない。などと言いながらも、僕は遥香へこの小説を遺すつもりで、ああ、人間というのはどうにも弱い生き物だと、我ながらだに苦笑してしまう。
遥香は不満げだった。その代わりに、僕は遥香を抱きすくめ、素直で、直截な愛の言葉をたくさん囁いた。決して、嫌なわけではないのだと、理由を教えることはできないけれど、せめて遥香が誤解しないように、丁寧に気持を伝えた。遥香はそれで納得してくれた。
その後、僕らは部屋の窓を開けて、二人並んで星空を見上げた。僕の故郷に較べると、やはり幾分か見劣りするけれど、それでも冬の夜空は綺麗だった。切れるような鋭く冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。吐いた息が白く煙る。僕らは身を寄せあって、しばらくそうしていた。
何となく、僕は哀しくなってしまって、遥香に問いかける。
「ねえ、生きてるって、なんだろうね」
「なあに、改まって。勉強のし過ぎ?」
僕は笑った。
「そうかもしれない。でもさ、時々思わない?自分は、なんのために生れてきて、なんのために生きてるのかってさ」
「そりゃ、思わないこともないけど…私は、今が幸せだから、それでいい。こんな時間が、ずっと続けばいいと思ってる」
「なるほどね」
遥香が細く息を吐いた。白いそれが宵闇に消えていくのをじっと眺めてから、僕は静かに言った。
「ねえ、これだけは、今のうちに伝えておきたいんだ。僕は、遥香に会うために生れてきた。こうやって、遥香のそばにいるために、生きてきたんだ」
「なんか、ロマンチックだね」
「クリスマスだから、ちょっと恰好つけようと思って」
僕はおどけて笑ってみせたけど、本当は目頭が熱くて仕方なかった。少しでも気をぬくと、泣き出してしまいそうだった。
むかえたセンター試験。僕は適度に緊張がぬけていたからか、予想以上の手応えを感じた。遥香も力を出し切れたようだった。二日間、僕らはあえてあまり話さなかった。互いを意識しすぎると、試験に集中できないかもしれないから。
僕らは二次試験に向けての対策も怠らなかった。二月は寒かった。時間はこれまでの人生のなかで、一番速く流れていった。僕は、後悔などしていないつもりだったけれど、いよいよそれが近づいてくると、当然のように気持は沈んだ。しかし、それで良いのだ。僕は、やるだけのことをやった。
バレンタインには、遥香からチョコレートをもらった。小春もくれた。遥香のチョコレートには手紙が添えてあった。
『晃へ
元気ですか!って、いつも会ってるのに、そういうのもおかしいね。でも、日頃はちゃんと言えていないような気持を、どうしてもこの機会に伝えておきたくて、手紙なんて、らしくないことをしてみました。
私たちが出会ったのは、あの屋上だったよね。正直、私は初め、晃が怖くて、どうしようか、本気で悩みました。でも、晃は本当に優しい人だった。私は、どんどんあなたに惹かれていった。いつしか、あなたと一緒にいたいと思うようになっていた。あなたの隣はとても居心地がよくて、いつまでもそこにいたいと思えるの。
あれから、色々なことがあったけれど、晃はいつだって私の隣にいてくれた。私の全部を見てくれるって、言ってくれた。初めて、私自身を見てくれる人を見つけた。本当に、嬉しかったです。
なんか、改めて文字に起こすと恥ずかしいから、これくらいにしておきます。でも、これだけは伝えさせてください。
いつもありがとう。大好きです。ずっと一緒にいて下さい。』
家に帰ってから、僕はまた泣いた。最後の一行を何度も何度も読み返して、泣きじゃくった。僕だって、本当は、いや、もういいんだ。僕は、たしかに生きていた。沢谷遥香という女の子と出逢って、彼女の命を救って、恋に落ちた。遥香と抱き合って、キスをして、色んなものを見た。世界は美しかった。今ならば、僕は胸を張って言える。そして僕の代わりに、遥香にこの世界を生き抜いて欲しい。それだけが、僕の望みだ。
二次試験も終わり、いよいよ、卒業の日が迫ってきた。二月二十八日、僕は遥香を学校へ呼び出した。夕方、屋上へ来て欲しい。遥香にはそう伝えた。
僕は一足先に学校へ向かい、一つ一つの教室を見て回った。もちろん、一、二年生は通常通りの授業を受けているし、三年生も、次の試験対策に忙しいらしかった。そのため、全ての教室を好き勝手に見て回ることはできなかったが、それでも、僕はゆっくりと校内を練り歩いた。
遥香との約束の時間が近づいてきた頃、僕は屋上へ向かった。しかし、屋上への扉は閉まっていた。そういえば、最近はここへも来なくなっていた。どうやら、保健室の先生はそれに気づいていたらしい。
僕は仕方なく、保健室へ向かった。扉をノックすると、優しげな女性の声が返ってくる。
「いらっしゃい。どうしたの?」
何度か見たことはあるものの、直接話したのはこれが初めてであるような気がする。まだ若い、綺麗な女性だ。僕が入学した時からここにいる。
「あの、三年の沢谷遥香の、恋人です。できれば、屋上を開けていただきたいのですが」
僕はすこし遠慮しながら言った。彼女は微笑みを保ったまま、黙って机の引き出しを開けると、そこから鍵を取り出した。しかしその瞬間、引き出しの中に、奇妙なものを見た。
細い銀の鎖に、逆十字。
僕は思わず身をこわばらせた。それは、あの神様がつけていたのと、まるで同じものだった。彼女は固まってしまった僕の右手に、強引に鍵を収めると、不気味に笑った。それは、ぜんぜん人の笑顔ではなかった。
ああ、そうか。この声。どこかで聞いたと思った。
「いいよ、もちろん。私は、君たちのことを気に入っているからね」
僕は鍵を握りしめ、ゆっくりと歩いて部屋を出た。不思議なことに、あまり動揺していなかった。
ああ、存外に、あの神様も悪くないのかもしれない。理不尽だけれど、でも、たしかに神様は、僕の人生に意味を与えてくれたわけである。
僕は屋上に出た。空気は少しずつ春に向かっているようだったが、まだ冷たい。日は傾いていた。ちょうど、僕らが出逢った、あの夕方に似ていた。青は藍に近づく。キンっ。音が聞こえる。
僕は空を眺めながら、遥香を待った。彼女はちょうど約束の時間にやって来た。
「おまたせ。どうしたの?急にこんな所に呼び出して」
「遥香、来てくれてありがとう。どうしても、今日ここで会いたくてね」
僕は遥香のほうへ歩み寄ると、やさしく彼女を抱きしめた。遥香は抵抗しなかったけれど、明らかに困惑していた。
「なに?何かのサプライズ?」
「ああ、そんなところだよ。…ねえ、今日のここは、あの日に似てると思わない?遥香と僕が出逢った日」
「たしかに、言われてみれば、そうだね。あの日も、こんな天気だった」
僕は右手で遥香の髪を梳いた。もう見慣れた、けれど滑らかで美しい髪。もう、決して触れられない髪。
「今日は、絶対に遥香に伝えておきたいことがあるんだ」
「えー、なあに、改まって」
僕はゆっくりと息を吸って、吐いた。油断すると、また涙が零れそうだったから、僕は必死に気持を落ち着けた。そして静かに、けれどたしかに遥香に伝わるよう、ありったけの感情をこめて告げる。
「僕と、出逢ってくれてありがとう。幸せでした」
遥香はくすくすと笑って、僕の胸をかるく叩いた。
「なにそれ。別れたいの?」
「…んーん。絶対に、そんなことはないよ。僕は、ずっと遥香と一緒にいたい。だから、さっきの言葉は、しっかり憶えておいて欲しいんだ」
「えー、なんか、へんな晃。まあ、いいや。わかりましたよ」
「ありがとう」
そのあと、僕らはファミリーレストランで食事を済ませて、遅くなる前に別れた。別れ際、人目につかないところで、そっとキスをした。
家に帰って、姉の部屋を訪ねる。日頃の感謝を伝えた。それが今生の別れと気づかぬ姉は、僕の態度を訝しみ、けれど笑って応えてくれた。これで、よい。
そしていま、ここまで、僕らの物語を書き進めてきた。いいかい、遥香。僕は、明日、消えてしまうんだ。意地悪で、けれどどこか優しい、あのへんな神様のせいで。僕は明日のことを、この小説に書けない。だからエピローグとして、僕の想いを残すよ。それで、僕らの物語は了る。どんな別れになるのかは、君だけが知っているんだ。でも、それで充分だろう?だって、これは僕と君の物語なんだから。
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