決意

 彼女に出逢ってからというもの、僕の人生は一変した。もちろん、目に見えるような部分は大して変わっていないのだろうけれど。それでも、僕は胸をはって言えるようになった。僕は、遥香に出逢うために生れてきたのだと。彼女の孤独に寄り添い、ともに過ごす。ああ、きっと僕の人生は、僕の生れてきた意味は、ここにあったのだと。遥香は、そう思わせてくれた。なにより遥香は、この世界の美しさを僕に教えてくれた。人を想うこと、人を好きになること。きちんと笑うこと、泣くこと。毎日、今日も生きていると感じながら、歩いていくこと。そんなあれこれを、遥香は教えてくれた。そのおかげで、僕はこの世界を、すこしは愛せるようになった。この世界は理不尽だ。あんな神様が支配しているくらいなのだから、仕方が無いのかもしれない。けれど、それでも、この世界は美しい。

 だから、もういいのだ。僕は、少女の身代わりとなろう。

 いつもの交差点についた。少女はそこにいた。また、トラックが来る。もうすぐだ。僕は息を整えて、少女の隣に立った。この少女は何があろうとも、もうすぐ横断を始める。そしてそれは、僕の命をもってのみ、止めることができる。簡単なことだ。彼女が歩き始めたら、後ろに突き飛ばす。あとは、すこし我慢していれば、それで終わる。

 呼吸が荒くなっていた。緊張している。いや、だめだ、今日こそ終わらせるのだ。僕は、この世界に遥香を残して消える。ただ一つ、それだけが心残りだった。僕がいなくなったら、遥香は空っぽになるんじゃないかと。

 しかし、彼女はもう独りじゃない。そのために小春とも仲直りさせて、小説への興味も復活させた。彼女はもう、僕がいなくても大丈夫だ。大丈夫。

 遠く、トラックが見えた。僕は飛び出す準備をする。

 瞬間、自分でも何が起こったのか判らなかった。ただ、視界がぼやけて何も見えない。僕は泣いていた。

 嗚呼、嗚呼。

 僕は、死にたくない。

 膝から崩れ落ちた。トラックはもうすぐそこまで迫っている。少女が横断を始める。いつものように、死んでいく。


 目が覚めても、僕は泣いていた。歯を食いしばって、ひたすらに枕を濡らしていた。全身が震えている。

 僕は遥香に出逢って、死んでもいいような気がした。僕は、もう充分に生きた。そう思っていた、はずだった。ましてや、あの少女は遥香かもしれないのだ。いっそう、僕は死なねばならない。

 けれど。

 僕は、死んでも構わないと思った、それと同じくらいに、いやそれ以上に、生きていたいとも思った。遥香と、未来を見てみたい。僕は、遥香とともに生きていたい。

 当たり前じゃないか。いくら綺麗なことを言ってみたって、僕は、本当は、そうしたかったのだ。遥香。むしろ、彼女と出逢ってしまったことで、僕は死ねなくなったのだろう。全部言いわけだ。遥香がいなければ通じたかもしれないが、もはやそれらは、なんの役にも立たない。

 僕は、死にたくない。まだ、生きていたい。遥香と一緒に、この世界を見ていたい。なあ、こんなのってないだろう?神様。

 僕はただ、ひたすらに泣いていた。ようやく泣き止んだのは一時間後、遥香から電話がかかってきた時だった。

 僕は電話越しの遥香の声を聞いて、また泣いた。遥香はずいぶん心配してくれて、すぐにでも行くと言ってくれたが、雨の中呼ぶのも気が引けて止めた。久しぶりの雨だった。空気はじっとりと重い。

「ひとつ、聞きたいことがあるんだけど」

 僕は声色を気にしながら言った。

「なあに?」

「遥香が、夢の中で助けられたっていう、その人は、なにか特徴とかなかったかな?」

「なんで、そんなこと訊くの?…まあいいや、えーと、うーん…あ、そう言えば、スマホ持ってたな。それで、なんか、勾玉?みたいなストラップがついてた」

「場所は?」

「通学路の、交差点。私が車に轢かれそうになって、それで、私を突き飛ばして庇ってくれるの。倒れるところまでしか見たことなくて、その人がどうなったかは知らないんだけど」

「…そっか。ごめん、ちょっと呼ばれたから、切るね」

「え、ああ、うん。またね」

 僕はすぐに電話を切った。もう話せそうになかった。

 やはり、間違いなかった。あの少女は、遥香だったのだ。僕は、ああ。


 その夜、僕はとうとう、悪夢と決別することにした。心は不思議なくらい穏やかで、恐怖などまったく感じなかった。

 交差点で、僕は、少女を背後から抱きしめた。彼女は微動だにしない。まるで、僕なんていないみたいに。それでいい。僕は無駄だと判っていても、耳元で囁いた。どうか、遥香にも伝わりますように。

「大好きだよ、遥香」

 僕はタイミングを見計らって、少女を突き飛ばした。その刹那、後ろを振り返った。

 靄は晴れていた。そこには、目を見開いたまま倒れる遥香の姿があった。

 衝撃はすぐにやってきた。まるであの日と同じだ。僕は吹き飛ばされ、無様に転がり、そのまま意識を失った。

 神様は出てこなかった。その代わりに、僕はベッドの上で目を覚ました。それから、また、しばらく泣いた。

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