葛藤

 僕は遥香を無事に送り届けてから、真直ぐに家へ戻った。星が綺麗だ。夏夜の空気は生ぬるくて、妙に湿っている。世界はやはり、美しかった。よかった。きっと、間違いないだろう。いや、もはや間違いでも構わない。僕はようやく、あの悪夢と決別できるのだから。

 僕は入浴を済ませると、小説の続きを書いた。ちょうど、僕らが出会ったところまで書いて、そこで、今日はやめることにした。まだ時間はある。大丈夫だ、そう、言い聞かせる。


 僕は、一つの決意をしてから眠った。どうせ、あの夢を見るのだと判っていた。


 高校二年生のとき、僕は死んだ。

 正確には、死んだはずだった。でも、なぜだかそれは、まるっきり僕の夢の中の出来事になっていた。僕は現実に生きていて、体のどこもおかしくなかった。怪我はもちろん、何らの違和感も感じられなかった。ただ、それを示す傍証は、いくらか残されていた。ぼろぼろになった制服、壊れたスマートフォン、鞄、筆記用具、などなど、僕が学校で使っているものが、ことごとく壊れてしまっていた。明らかに、僕の死に際して出来上がったものだった。

 最も不気味だったのは、家族の反応や、記憶のすり替えである。


 僕は、大きなトラックに撥ねられた。赤信号を無視して突っ込んでくるトラックに轢かれそうになった女の子を、咄嗟に庇った。体のあちこちから聞いたこともないような音がして、思い切り吹き飛ばされて、地面に叩きつけられた。そのまま転がっているうちに、鞄や制服まで破れてしまったのだろう。ほとんど即死だったのではないだろうか。僕は痛みに叫ぶ暇もなく、意識を失った。

 次に僕が目覚めた時、そこは、ただ真白な空間だった。方向も、その果ても、全く判らなかった。絵画のなかにしかないような空間だった。不思議なことに、僕は怪我一つしていなかった。心臓も、きちんと動いていた。血の一滴も見えない。僕は戸惑った。しかしなんとなく、ここが現実のものではない、ということばかりは、本能で理解していた。

 立ち尽くす僕の前に、突然、見覚えのない男が現れた。そもそも顔は見えなかった。男は能面を被っていた。それにまったく似合わず、シルクハットをかぶり、綺麗なスーツを着ている。首にヘッドフォンを掛けていて、その陰から下がった細い銀の鎖の先には逆十字が括りつけれられていた。右手に竹の杖を持ち、その杖には血塗れの錆びた鎖が巻きついている。さらには、下駄を履いていた。

 この男のまとう全てが可笑しかった。何もかもが調和しておらず、存在自体がちぐはぐだった。僕は怯み、逃げ出そうとしたが、体が思うように動かなかった。男は唐突に話し始めた。女の声だった。

「やあ、少年。君は善い奴だな。女の子を庇って死ぬなんて、やるじゃないか」

 不思議なことに、僕はその声に聞き覚えがあった。どこかで聞いたことがある。しかし誰の声だったのか、どうしても思い出せない。

 僕は何も応えなかった。いや、応えられなかった。この男の前では、発言が許されていないらしかった。悲鳴の一つもあげられない。男はそれを知ってか、くすくすと嗤った。

「ああ、ほんとに、私は感動したんだよ。というわけで、君に敗者復活の権利をあげよう。ただし!」

 男は大袈裟に両腕を広げ、能面の顔で僕を見つめた。

「君が少女を救うかどうか、その選択を迫ろう。いいかい、これは試練だ。君以外にも理不尽な死に方をした人間は、この世にいくらでもいる。だから、タダで生き返らせてやるわけにもいかないのだよ」

 男はさも愉しそうに体を揺すって、同じ調子で続ける。

「試練の意味は、すぐに解る。ま、そういうことだ。君の決断を待っている。ルールはシンプルだ。君は、もう一度死んだら、本当に死ぬ。それだけ。では、これで。ああ、言い忘れていたが、私は神だ。君たちが神様と崇める、あの神だ。そして、ここは夢ではない。君の事故は現実のものだ。タイムリミットは卒業まで。以上」

 そこで、僕の意識は途絶えた。

 僕はいつも通りに、部屋のベッドで目を覚ました。そして、いくつかの傍証を見つけ、ほとんど発狂しかけた。僕はなんとしても、いましがたの出来事を否定したくて、家族にあれこれ訊いてまわった。

 たとえば僕が死んだ日、姉の入学を祝って、家でささやかなご馳走を食べることになっていた。僕は姉を問い詰めた。しかし、それは無かったことになり、そもそも、姉は違う大学に入学したことになっていた。僕は諦めず、その日のことを挙げて、それらが正しいと証明しようとした。しかしそれらは尽く、まったく否定された。傍から見れば、僕は狂ったようにみえたらしい。

 壊れた持ち物についても訊ねたが、だめだった。みんな、都合よく記憶を操作されていた。そもそも未だにそんなものをとってあることの不自然についても、まるでこちらが可笑しいと言わんばかりの冷たい眼差しをもって否定された。

 あまりにひどい錯乱に、家族はとうとう僕を狂人だと思って、病院へ連れていった。しかし当然のように異常は無く、僕はただ、安静にしているようにと言いつけられて家へ帰った。

 部屋にもどった僕は、布団にくるまって、ひたすら震えた。死が、これほど唐突に、理不尽にやってくるものだとは知らなかった。しかし、もはやそれは現実のものとしか思えなかった。事故や神は否定できても、これほど明らかな傍証どもを否定することはできなかった。その日、僕はほとんど何もせず、夜になると死んだように眠った。

 神、と名乗ったあの男の言ったことが、すこしずつ解り始めた。

 僕は、あの日をそっくりそのまま再現するような夢を見た。桜並木、春の陽射し。道行く人々、行き交う車。まったく、何もかもが同じだった。そして途中の小さな交差点に差し掛かった時、当然のように、僕の目の前で事故が起こった。僕は動けなかった。トラックに撥ねられた時の衝撃や恐怖が、じわじわと蘇ってきたのである。どうやら、意地の悪いあの男は、僕が誰を助けたのか教えてくれないようだった。女の子の顔は、もやに覆われて見えなかった。とうとう、うつむいてしまった時、僕はまたしても白い部屋に立っていた。

 顔をあげると、男は既にそこにいた。

「私は何も言わない。君次第だ。ああ、でも親切でひとつ。君がもう一度死んでも、すぐには死なない。あくまで、タイムリミットは絶対だ。少女か、君か。どちらかが、卒業の日に死ぬ」

 そこで、僕は目を覚ました。つまり、あの男は僕に選べというのだ。少女を見殺しにして助かるか、元の通り、僕が死ぬのか。

 それからというもの、僕はほとんど廃人のように部屋に閉じこもって過ごした。何も見たくなかった。それでも、夜になると不思議と眠くなって、寝てしまうのである。試練、たしかに、その通りであった。何度も何度も、僕の目の前で女の子が吹き飛んだ。事故を回避することも考えたが、無駄だった。僕がどれだけ先回りしても、女の子は幽霊のように、決まった時間に交差点に現れた。どこからやって来ているのかも判らない。気づくとそこにいるのだ。力任せに引っ張ってみても、彼女は岩のように重くて、びくともしない。

 僕は抵抗するのをやめた。そもそも神などという存在が平然とそこに在るのだから、常識に沿って考えても無駄なのである。

 それから、もう、何度も何度も何度も何度も、女の子は死に続けた。それでも、僕は眺め続けることしかできなかった。たとえ登校せずに部屋に留まっていても、気づけば例の場面に立ち会っている。

 生きるためには、耐え続けるしかない。ひたすら、目の前で少女が死ぬのを繰り返し見続けて、それでも、彼女を見殺しにするしかない。

 初めのうちは、ただひたすらに、それを考えないようにした。どうやら、目を逸らしていることは許されるらしいので、僕はそうしていた。それでも、大きな衝撃音と短く甲高い悲鳴が、少女の死を僕に教えた。

 しばらくして、僕は学校へ行けるようになった。それでもひと月ほどの間は、気が狂いそうだった。僕は必死に抑え続けた。少なくとも、周囲からまともに見えるように、注意して振舞った。僕にしては上手くやったものだと思う。

 僕は少女の死を見続けた。それでも、死のうとは思えなかった。

 だが、ちょうど半年くらい経ったころ、僕の心境に変化が顕れはじめた。僕は、ほとんど悪夢に慣れてしまっていた。どれだけ凄惨なものでも、毎日見せられていれば、存外に慣れてしまうものなのである。ただ曖昧な罪悪感ばかりが、僕の中に蓄積されていった。

 そんななかで、僕は一つの思想のようなものを持ち始めた。それは、僕のような人間が生きているよりも、この少女を生かすほうが、よほど良いのではないか、という考えである。自分を卑下していたつもりはない。ただ、僕はそんな経験を通じて、リアルな死を体感し、命に対してとても敏感になっていた。そうして、自分の人生を振り返った時、その虚しさに愕然としたのである。からっぽだ。いてもいなくても変わらない、もとい、生きているのも死んでいるのも同じことだ。そう思えるくらいに、僕は人間として、ちっとも活きていなかった。

 それから僕は取り憑かれたように、その考え方を捨てられなくなった。僕は、あの子のために死ぬべきだと。思えば、僕の倫理観が悲鳴をあげていたのだろう。静かにゆっくりと、だが確実に、僕は壊れていたのである。

 そうやって、僕は自分の生れてきた意味を考えるようになった。虚しく、孤独に生きてきて、最期は少女を救って死んだ。案外悪くないシナリオだった。物語の中ならば、僕はヒーローと呼ばれるかもしれない。

 けれど、ここは現実だ。僕は、とても哀しかった。この僕の人生は、こんなところで終わるのか。僕は何も成せないまま、きっと家族以外の誰にも思い出されることなく、ただ消えていくのか。そう思うと、涙が出そうになったこともあった。

 そうやって、生きているのか死んでいるのか、まるで判らない人生を続けてきた。彼女に出逢うまでは。

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