夢うつつ

 その後、僕らは川沿いをぶらぶらと散歩して、木陰で涼み、結局我が家へ帰ってきた。遥香と共に部屋に入る。この時期は、さすがに暑いので冷房を効かせている。でないと、この湿度も味方して、寝苦しくてかなわないのだ。遥香は室温に歓喜して、上機嫌で椅子に腰を下ろした。僕はベッドに腰掛ける。

 遥香は椅子に乗ってくるくると回っていたが、すぐに机の上の原稿に気づいたらしい。そういえば、うっかり仕舞い忘れていた。見られてまずいものでもないけれど、遥香にはあまり見せたくないというのが本音だ。

「あ、書けてる?」

 僕はかぶりを振る。

「どうにも、上手くいかない。遥香みたいに、上手く書けたらいいのに」

 遥香は逡巡の後、机の片隅に置かれてあった原稿の束を取り上げた。

「これ、読んでみていい?」

 あれは、僕が試験的に書いてみたものだ。本命ではないのだから、問題はないだろう。そう思って、僕は素直に頷いた。こうなってしまった以上、遥香に見られるのは避けられない。

 遥香は椅子に座ったまま、じっと僕の原稿に目を落とした。思いのほか落ち着かない状況である。快く僕に読ませてくれた遥香を尊敬する。

 しばらくの間、僕は前髪を引っ張ってみたり、あても無く視線をさまよわせてみたりして、読み終わるのを待った。短いものであったので、すぐに読み終えてしまったようだ。遥香は原稿を元に戻すと、こちらを見て微笑んだ。

「うん、いい感じだね。慣れてなくて書きあぐねてる感じはあるけれど、センスはいいと思う」

 とりあえずは酷評を受けずにほっとする。作家という者は、こんなことを大勢に対して行っているのだろう。とても耐えられないことに思われた。

「ありがと。表現力とかは、地道に鍛えていくしかないんだろうけど、ただ、なんか、何を書いても上手くいっていない気がしてね。それは一番初めに書いたやつだから、出来はともかく意外とすんなりいけたんだけど、後が続かなくてさ」

 遥香は首を傾げる。

「上手くいかない?」

「そう。なんて言うかさ、自己表現なんだから、ある程度クサいものになっても構わないと思うんだ。でも、そう思って書いてみても、やっぱりダメなんだ。どこか、狙いすぎてる。物語としての面白みにも欠けるし、へんに恰好つけたような所ばっかりが浮き彫りになってるみたいで。それで、最近はひとつも書けてないんだ」

「なるほどねえ…」

 遥香は腕を組み、しばらく考えているようだった。しかしなかなか答は出ないらしく、そのまま数分が経過した。僕も、考えてみた。自分の書いたものは何故あれほど不格好で、気取ったようなものになるのか。

 遥香はついに答を導いたらしく、姿勢を正すと、僕のほうを真直ぐに見て言った。

「たぶん、難しく考えすぎなんだと思うよ。そりゃ、突き詰めたらキリのないような世界だから、難しくて当たり前なんだけど、でも、そんなのは、はっきり言って要らないんだと思う」

「難しく考えすぎ?」

 確かに、書く時にはあれこれと考えながら書いている。どうせ遥香しか読まないのだから、そこまでこだわることはないと思うのだが、なぜだか僕は、より良い表現にこだわった。僕にしては珍しいくらいに、細かいことに拘泥した。

「うーん。まあ、具体的にどうすればいいのか、って言うことはできないけどさ。でも、多分そうなんだと思う。肩の力抜いて、あ、そうだ、お話を書こうと思えばいいんだよ」

 お話。僕が書こうとしているものは、それではないのだろうか。

「もちろん、いままでもお話を書いたんだろうけど。でも、ほら、きっとこだわりすぎて窮屈になってるんだよ。もっと気楽に、単純に考えてみたらどうかな?」

 僕は頷いた。しかし、そう言っても、どうすればいいのかちっとも解らない。それを模索していくべきなのだろう。いずれにしても、僕は書き方を変える必要がある。このままでは、つまらない評論まがいの駄作が増えるばかりである。

「まあ、頑張ってみるよ」

 僕はとりあえず前向きに応えた。遥香が頬を緩めた。

「書いてれば、そのうち何か見つかるよ、きっと」

 そう言って、またくるりと回ってみせる。その拍子に、彼女は机上のスマートフォンに気づいたらしい。動きを止めて、まじまじとそれを眺めている。

「え、これ、すっごいボロボロじゃん。どうしたの?」

 それは、僕が以前使っていたものだった。ある日、うっかり壊してしまったのである。とはいえ、特殊な状況だったので、その壊れ方はひどいものだった。画面のいたるところにひびが走り、フレームも傷だらけになっている。外側についているカメラのレンズは、今にも剥がれ落ちそうだ。しかし奇跡的に、誰かから土産として貰ったストラップは壊れていなかった。

「前に使ってたのを壊しちゃってね。なんか捨てられなくてさ」

 遥香は「ふぅん」とうなり、特別、追求はしてこなかった。僕は少し安心する。


 陽も落ちて、僕らは一階に下りた。そこで、夕食の支度を始めたらしい姉に遭遇する。姉は僕らを認めるなり寄ってきて、にこやかに笑いかけた。

「遥香ちゃん、いらっしゃい」

「お邪魔してます」

「よかったら、晩ごはん食べていかない?どうせ、私と晃だけだからさ」

 遥香はしばらく遠慮していたが、姉の強引な誘いを断りきれず、首を縦にふった。姉はしたり顔で手を打つ。

「あ、でも料理は手伝います。私にできることなら」

「そう?なら、お言葉に甘えようかな」

 姉は上機嫌で遥香を台所へ連れていった。僕は途端に居場所を失い、とりあえず部屋にもどった。少しでも、書き物を進めておこうと思ったのである。

 そうして机に向かったは良いが、これといって書くべきものを思いつかないのであった。まったく困ってしまって、僕は天を仰いだ。年季の入った木製の天井が見えた。どこかで執拗く、ひぐらしが鳴いている。そうして一分ほど、僕は突然に思いついた。

 そうだ、これまでの僕と遥香のことを、小説にしよう。

 それは僕が最もよく知る物語である。僕らが屋上で出会ってから、卒業するまでの全てを、小説にしよう。どのくらいの長さになるのか、また果たして、文章にして面白いものなのか、僕にはさっぱり判らなかったが、それでも、僕はそれが書きたくて堪らなくなった。

 しかし一つだけ、問題があった。果たして、それを読んだところで、遥香はもういちど小説を書いてくれるだろうか。

 僕はしばらく悩んだ。けれども、最後には遥香の意思の強さを信じることにした。彼女は今日、一緒に大学へ行って文学を学ぼうと言った。それが実現されるかはさておき、遥香はもう充分に、前を向けているではないか。ならば、これ以上へんな配慮をするのは独り善がりの過ぎることだ。

 僕はそんなふうに思ってみて、とても嬉しくなった。遥香は、僕の光だった。この虚しい人生に於いて、僕は彼女という希望を見つけた。それはとても眩しく、強く、僕を導いてくれた。おかげで僕は、この人生に多少の意味を見つけることができた。すべて、遥香のおかげである。

 一つ一つ思い出して書こう。僕らのすべてを。僕はペンを持ちなおし、新しい原稿用紙を取り出した。

 深く深く、考えた末に、僕は一行目にタイトルを書いた。そしてそれに続けて、本文を書き出した。せっかくだから、その間にペンネームをはさんでおいた。僕の好きな花の名前だ。

 書き出しは、こんなふうにした。


『たった一つの隠し事。僕はそれを、決して彼女に明かさなかったし、その存在を彼女に知らしめることさえも慎重に避けた。』


 階下から遥香の声を聞いて、僕は急いで下りた。とても良い香りが漂っている。

「おまたせ。食べよ」

 台所のテーブルには、いつもより少しだけ手の凝った料理が並んでいた。品数も多い。姉はすでに席に着いていた。僕は姉の向かい側に、遥香は僕の隣に並んで座った。僕らは一斉に食事を始める。姉と二人の時よりも、部屋全体が暖かく感じられた。

 姉は僕らの関係についてあれこれと訊いてきた。僕らは苦笑いや、その他いろいろな表情と共に応えた。僕はこの瞬間、間違いなく幸福だった。それ以外に、この状態を形容する方法を、僕は知らない。

「で、やるとこまでやったの?」

 姉のこの質問は、遥香に多大なダメージを与えたようだった。さすがに僕も動揺して、吹き出しそうになるのを堪えて、きっぱりと否定した。姉は「なあんだ」と不満げな声をあげながらも、顔にはいやな笑みを貼り付けていた。


 食事が終わって、僕と遥香は片付けを手伝おうとしたが、姉は僕らを気遣ってか、それを許してくれなかった。僕らは仕方なく家を出る。もう暗かったので、遥香を駅まで送っていくことにした。

 この田舎の魅力の一つは、星空の美しさだろう。今夜は特に、星が美しかった。なんとも言えぬ深い空に、小さな点が冴え冴えと輝いている。僕らはどちらからともなく立ち止まって、空を見上げた。

「綺麗だね」

 僕は頷いた。蝉も鳴きやんだ今、聞こえるのはささやかな虫の声と、すぐそこを流れる用水路の水音ばかりである。風もなく、なんだか全てが止まってしまったような気がした。

 ふ、と、僕のなかで何かが切れた。それは感情になって、言葉になる前に、もっと直截なモノになって、僕の両眼から零れ落ちた。思いのほかすぐに、遥香に見つかってしまう。僕は申し訳程度の誤魔化しに、手の甲でそれを拭ったが、うまく止まってくれなかった。

「ちょっと、晃?どうしたの?」

「ああ、なんでもない。ただ、いやね、なんか幸せだなって」

 遥香は呆気にとられたように口を噤んで、それからぷっと吹き出した。

「幸せなのに、泣いちゃうんだ」

「嬉し涙って、あるでしょ?」

 僕もなんとか涙を止めて、笑ってみせた。ゆっくり息を吸って、吐く。

「夢を見るんだ。繰り返し繰り返し、同じ夢を」

「夢?」

 蜉蝣かげろうかなにかだろうか、僕の眼前をかすめて飛んで行った。

「うん。人を助ける夢。よく解らないんだ。でも、最後は決まって同じ」

「へえ…あ、でも不思議。私も、そんな夢を見ることがあるの。誰かに助けられる夢。もしかして、あれは晃なのかな?」

「えっ」

 心臓が痛いぐらいに驚いてしまった。遥香は僕の反応に驚いて、困ったように眉尻を下げた。

 まさか。いや、そんなことは。でも、確かに、言われてみれば。

「…ああ、ごめんね。なんでもないんだ。さ、遅くならないうちに行こう」

 遥香はやや訝しんでいるようだったが、すぐに頬を緩め、僕の手をとった。僕はその手に指を絡める。彼女の手に力が込められる。

 もしも、そうだったのならば。ああ、ようやく、僕は解放されるのかもしれない。そして、あるいは僕は、とても善い人間になれるのかもしれない。僕らの物語は、きっと美談でおわる。

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