僕の生れてきた意味

目標

 土曜日の早朝、なぜだか早くに目を覚ましてしまった僕は、独り机に向かった。家はまだ静まり返っている。しかし夜は明けていて、空は白みはじめている。

 机には原稿用紙の束。字が入ったものはほんの十数枚といったところだ。もうずいぶん書いてみたのだが、やはり納得のいくものは書けていない。句読点を書いたところでくたびれて、僕はペンを置いた。

 今は夏休みの最中である。遥香とキスをしたあの日から、だいたい二、三週間が過ぎている。僕らの関係は特に変化しない。ただ、ときどきキスくらいはするようになった。また、僕らは互いの名前を呼び捨てにするようになった。どちらからともなく、そうなった。

 いけない、このままではデート中に眠くなってしまうかもしれない。そう思った僕は、素直にベッドに潜り込んだ。


 次に目を覚ましたのは午前十時を少しまわったところだった。思いのほか寝すぎてしまった。窓の外はすっかり明るくなり、陽は、もうずいぶん高くなっていた。僕はやおら体を起こすと、そのままで、しばらく窓外を眺めた。蝉がいっそう活気づいて、息苦しささえも感じられる。

 また、おなじ夢だ。僕が登校する夢。最後は、よくわからない男が出てくる。僕は彼をちっとも知らないが、彼は僕を知っているらしい。いきなり、馴れ馴れしい口調で話しかけてきて、そして、いつも同じことを言って消えていく。

「君次第だ」

 彼は神様と名乗った。信じられないけれど、僕はなんだか夢を夢だと判っていて、それで、反論することもできないのだ。

 しばらくして、僕は立ち上がると、また机に向かった。このところ、ずっと小説に打ち込んでいる。僕にしては珍しく、一つのことに熱中している。それは、ある種の焦りに裏付けられたものであると、なんとなく判るのだが、あまり認めたくない、いや、正確には考えたくない。

 上手く書けない。そう思えば、遥香の小説は見事なものだった。思想が、決して主張しないのである。物語はあくまで物語として成立していて、しかしじっくりと読み込んでいけば、その裏に独特の思想が在ることに気づく。そう、僕もそんなものを書いてみたいのだ。それこそが、遥香への小説に相応しい。

 すこし、続きを書いてみる。すぐに手が止まる。ここから、どうやって続けていけばよいのか判らなくなる。よしんば書き切ってみたところで、それはひどく陳腐で、独り善がりな何かに思えて仕方がなくなる。せっかくの物語も、ただの人形遊びに成り下がる。それが、なんとも情けなくて、僕は半ば絶望さえ感じる。

 遥香にアドバイスを求めることはできない。これは、彼女に向けた小説なのだから。だから、こうして独り部屋に閉じこもって、じっと考えているのだ。

 やはりペンは動かない。僕は苛立ちすら覚え、原稿をくしゃっと丸めて、ゴミ箱へ投げ込む。これで何度目か判らない。

 やめよう。続きは明日だ。そう思って立ち上がった、ちょうどその時、スマートフォンに着信があった。遥香だ。僕はすぐに応答する。

「おはよー。もう着いたよ」

「ああ、ちょっと待っててね」

 僕は急いで着替えると、家を出た。門の傍に遥香が立っている。夏の陽を嫌ってか、つばの広い帽子をかぶり、真白なワンピースを着ていた。僕は目を細めながら、ゆっくりと彼女に歩み寄った。

「あー、絶対寝てたでしょう。寝癖ついてるよ」

 遥香は僕の後頭部に手を遣って、寝癖を直してくれた。至近距離で髪が香る。もうずいぶん慣れてきた。

「はい、直った」

 遥香は僕から離れ、満足げに微笑んだ。彼女の右手には、洒落たバスケットがあった。今日はこの近くをふらふらと案内する、という約束であった。

 夏休みに入ってから、僕らは毎日のように顔を合わせた。二度か三度、小春も顔を出した。なので、もう街中を歩くのにも疲れてしまったのである。遥香の家で過ごすことも多々あったけれど、それにも飽きてしまって、今日に至る。

 あれほど、遥香の身の周りで沢山のことが起こったというのに、僕らの日々は怖いくらいに穏やかだった。夏休み直前には、噂話にも飽きたのか、遥香に話しかける女の子もすこし見られた。なんだか事態は拍子抜けするくらいに呆気なく、日常へと還元されていった。こんなことなら、遥香が怖がることもなかったのに、と思わないではないが、それも無理な話だろう。いまになって判ったことであるし、そもそもその恐怖は、過去のトラウマに基づいたものであるのだから。

「さて、まずはどこへ行くの?」

「そうだね、暑いからあんまり気は進まないけれど、すこし歩いて、川を見に行こう」

 それは、僕の気に入りの場所だ。幼少期には良き遊び場であったし、成長してからも、幾度となく僕の気持を和ませてくれた。僕がこの辺りを散歩する時には必ずと言っていいほど、あの川に立ち寄る。

 今日も暑かった。僕らは並んで歩いていく。遠く、コンクリートに陽炎が揺れている。田圃からもむらむらと熱気が立ち上り、余計に蒸し暑く感じられる。

 僕は遥香からバスケットを取り上げた。軽いけれど、作ってもらったうえに運ばせるのはなんだか申し訳ない。

 僕らはできるだけ日陰をえらんで歩いた。遥香は陽だまりを飛び越えて笑ってみせる。素朴な風景は、彼女にとてもよく似合う。

 しばらくの後、目的の場所にたどり着く。歩いてきた道を左に逸れ、細い道をすこし歩くと、川が見える。降りられるのは、コンクリートの小さな橋を越えた先だ。岸は雑木林に隣接しているため、日陰になっている。夏はこれがありがたい。

 僕らは川原に降りた。狭い川だが、すぐ前は水深二メートルほどの淵になっていて、緑色に透き通っている。水面で漣がきらきらと反射して、眼に刺さる。僕らは手頃な岩にもたれて、バスケットを開いた。飲み物は、近くの自販機で確保してある。

 バスケットの中身は、多様な具で彩られたサンドイッチであった。目についたものをつまんで齧りとる。素朴ながら、おいしかった。やはり遥香の料理はやさしい味がする。

「ん、おいしい」

「よかった」

 遥香も続いて、サンドイッチを頬張った。人なんて滅多に通らない。ひたすらに穏やかな景色だ。聞こえてくるのは、川のせせらぎと蝉の声ばかりである。

「綺麗な川だね。水が透き通ってる」

「そうでしょう。ここは、僕のお気に入りなんだよ。子供の頃は、よく泳ぎに来たからね」

 目を凝らすと、水中できらきらと小魚の光るのが見える。おそらくカワムツか、オイカワか。どちらもなじみ深い魚だ。僕はそれをぼんやりと眺めながら、遥香の作ったサンドイッチを味わった。

 四つめに取りかかったとき、その具材に驚いた。これは、僕が好きなツナサンドだ。それを見た遥香は、嬉しそうに笑う。

「へへ、気づいた?」

「ああ、なんか、こういう気遣いは嬉しいね」

 遥香の作ったそれは、売っているものとも違う味がした。こちらが、ずっと美味しい。

 僕は食事を済ませると立ち上がって、近くに生えている女竹めだけを、持ってきたポケットナイフで伐った。やや苦戦したが、何とか上手くいった。僕はさらに、先端の葉をもいで形を整え、そこへ釣り糸を括りつけた。それを基に、針と錘だけのシンプルな仕掛けを作り、遥香のほうへ持っていった。

 遥香はそんな僕の様子を、目を丸くして見つめていた。

「ちょっと、遊んでみよう」

「…なんか、晃って、意外と男の子っぽいところあるよね」

「田舎育ちだから、このくらいはね」

 こんな遊びなら、多少の自信がある。ここでは、こんなふうに遊ぶのが当たり前だからだ。僕は浅瀬の石をいくらか裏返して、裏に着いた川虫、正確にはカゲロウの幼生だったか、それを捕まえる。これがよい餌になるのだ。

「ええ、なにその虫?まさか」

 それを見た遥香は、露骨に顔を顰める。

「そう、これが餌だよ。大丈夫、付けるのは僕がやるから」

 僕は虫の頭に引っ掛けるようにして、釣り針を突き刺した。こんなのも、あまり抵抗がない。遥香に竹竿を持たせ、淵へできるだけ近づいた。ここまでは日陰が続いているから、快適に過ごせる。

 この辺りを泳いでいる雑魚は、簡単に釣れる。僕に言われた通りに仕掛けを投げ込んだ遥香は、すぐに魚信を捉えた。

「わっ、これ、どうすればいいの?」

「ゆっくり釣り上げてみて」

 水面から躍り出たのは、小さな銀の魚体だった。

「なんか綺麗な魚だね」

「カワムツっていう魚だよ。モノによってはオレンジ色でね、もっと綺麗になる」

 僕はそんな豆知識を披露しながら、手早く魚を逃がしてやった。

 そうして、三つ、四つと雑魚を釣り上げて、少しはこの地味な遊びも盛り上がってきた頃、遥香が僕を見て問うた。釣り糸は淵へ垂れたままだ。

「ねえ、大学、決めた?」

「ああ、正直、まだ何も」

 僕は勉強ができるわけでもないから、きっと立派な大学には行けないだろう。だから、あまり考えていなかった。選択肢はきっと限られているし、行けなけば、それはそれで仕方ないと思っていた。

 遥香は少し目を伏せて、静かに言う。

「その、もし、あなたがよければ、だけどさ、同じ大学に行かない?」

「…どこへ?」

 遥香は、あまり聞かない大学の名を挙げた。けれどれっきとした国立大学で、もちろん、入学するには相応の学力が要求される。

「正直、僕は自信ないよ。こんなのが、大学なんて行けるのかな?」

 一つは、学力。もう一つは、そもそも僕自身の都合によって、それは難しいように思われたのだ。ここで、遥香に過剰な期待を抱かせるのは誠実ではない。

 しかし、遥香は譲らなかった。

「大丈夫だよ、私だって自信ないし。でも、やってみる価値はあるんじゃない?それでさ、そこの文学部に入って、二人で、いや、できたら小春も入れて三人で、文学をやろう。ほら、私が文系苦手なの知ってるでしょ?私に較べたら、晃なんて全然有利だよ」

 確かに、遥香の言うことは一理ある。しかし本当に、ここで約束してしまって大丈夫なのだろうか。

「だから、これから受験に向けて、一緒に頑張っていこう?いいと思わない?だめだったら、その時はその時だよ。ほら、ね?って、うわっ」

 突然、遥香は声をあげて竿をあおった。曲がりからして、これは結構な大物らしかった。慎重なやりとりの末に浮いてきたのは、立派なウグイだった。

「おおー、おっきい。こんなのもいるんだね」

「ああ、このサイズは珍しいけどね」

 遥香が笑う。その笑顔に、僕は負けてしまう。そんな未来を、信じてみたくなる。

「ほら、私たちって、けっこうツイてるから。ね?」

 僕は、仕方なく笑って頷いた。たとえ、それが叶わなくても、共に同じものを目指すことに意味はあるのかもしれない。僕はウグイをそっと解放してやって、遥香と笑いあった。

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