仲直り

 翌日、遥香はただ一つだけ、僕に助力を要求した。小春を、屋上へ連れて来て欲しいとの事だった。ただ、時間がかかってしまうといけないから、放課後にしよう、ということになった。

 僕は朝、教室へ入ってすぐに、それを小春に伝えた。彼女はもう落ち着いて、僕の知る小春になっていた。けれど、それだって、やはり小春自身ではないのだろう。本来の小春は負けず嫌いで、もう少し情熱的な性格なのだから。いや、それだってきっと、正確な描写ではない。ただの一側面だ。まったく、人間というものはちっとも解らない。ただ、ひたすらに複雑で、果たして僕らは本当に足並みを揃えられるのだろうかと不安になる。

 けれど、僕は遥香の全部を解ると約束した。人間は、そんなふうに考えることもできるのである。ならば、彼女たちも。

 ともあれ、小春は思いのほかあっさりと了承してくれた。

 その他、これといって変わったことは無かった。昨日あれほど威圧してきた詩織も、こちらには目もくれず、いつも通りに過ごしている。遥香もすこし不安げではあったが、変わらぬ教室の空気に、むしろ安堵したらしい。僕は窓際の席から、二人の少女を眺めた。


 放課後、僕は小春を屋上へ連れていった。遥香はすでに行ってしまったらしかった。

 埃っぽい階段を二人して上っている時、ふと、小春が訊ねてきた。

「ねえ、大槻くんは、遥香の何を好きになったの?」

 僕は歩調を緩めずに、少しの間考えた。答えはありきたりで陳腐だったけれど、決まり切っているように思えた。

「僕の解る全部、かな」

 人に、それ以外の何が与えられているというのだろう。理屈ではない。定義などきっと存在しない。それを、実際に遥香と過ごしてみて知った。僕はつまるところ、それに惚れたのである。

 小春はくすりと笑って、それから、ぽつんと応える。

「そっかあ、なんか、らしいね」


 屋上への扉をひらいた。まだ日暮れには遠いけれど、なぜだかあの日を思い出す。蒸し暑い空気が流れ込む。光が階段まで漏れこんでくる。

 遥香は、日陰になったところで待っていた。その瞳は、けれど死んでいなかった。

「遥香」

 小春が小さく、遥香を呼んだ。それに導かれるように、遥香は日向へ出て来た。小春の真正面に立つと、一瞬の躊躇いの後、大きく頭を下げた。

「ごめんなさい。私、ずっと勘違いしてた。確かに、私たちはすれ違っちゃったけど、でも、小春を恨むようなことは無かったのに、それを、私は…ごめんなさい」

 遥香は頭を下げたまま、じっとしていた。小春はそっと歩み寄り、遥香の両肩に手を置いた。遥香がゆっくりと頭を上げる。二人はしばらく見つめあっていた。

「あのね、私も、謝らなくちゃいけない。ごめんなさい。ずっと、意地になっていた。本当は、遥香と仲直りしたかった。でも、私は幼かった。遥香は優しくしてくれたのに、いつまでもいじけて、それで、あの日、遥香に問い詰められても、あんな意地悪しか言えなかった」

 小春が言う。やさしく、静かな声だった。遥香が泣きそうになっているのが、小春の肩越しに見える。やがて彼女はそのまま、ぽろぽろと涙を流した。小春が、遥香を抱きしめる。遥香がぎこちなく、その背に腕をまわす。二人の少女は、失った何かを取り戻すように、そのまましばらく離れなかった。ただ、その様は美しかった。

 人は、解らない。僕も遥香も、あるいは小春も、みんな、それが怖くて人を警戒している。間違っているとは思わない。実際に、詩織のような人間も、この世にはいくらでもいるのだから。しかし、結局のところ、人は人を認めねばならない。真に孤独を背負って生きられる者は、その必要も無かろうが、しかし、少しでも心が揺らぐようであれば、僕らは果たして、人を認めざるを得ない。それでも、判らなくても、すれ違おうとも、それでも、共に在ろうとする営みこそが、愛なのである。

 遥香はそれを教えてくれた。人を想うということを、その煩わしさを、愉しさを、苦しさを、全てを教えてくれた。

 少女らは離れると、再び目を合わせる。今度はどちらからともなく、笑いだす。

 二人は僕のほうへ向き直ると、ゆっくりと歩いてきた。

「ありがとう。もう、大丈夫だと思う」

 遥香が言う。

「私も、ありがとう。大槻くんがいなかったら、こうなってなかった」

 小春が続く。僕は黙って頷き、二人を見比べる。

 これでいい。二人の為にも、僕自身の為にも。いつまでも憎みあっている必要は無い。風が僕らの間を通り抜けた。夏空は今日も青かった。陽が眩しい。


 僕らは屋上を後にした。校門をぬけたところで、小春と別れた。駅につき、電車を待った。その間、僕らはあまり話さなかった。緊張が抜けて、なんだか色々なことがどうでも良くなっていた。

 電車に揺られ、遥香が降りる駅で、僕も降りた。遥香が、もう少し一緒にいたいと言ってくれたからである。遥香の家に着くころになって、ようやく僕らはポツポツと話し始める。

「ほんと、晃くんには助けられてばっかりだなあ」

「そんなでもないよ。僕だって、遥香さんに、いろいろ教わってるから」

 遥香の部屋に入ってから、僕は以前から思っていたことを言った。それは、いよいよ僕の独り善がりのためなのだけれど、それでも、僕はそれをゆずれそうになかった。とにかく、そうしておくことが大切だと思ったのだ。

「あの、遥香さん」

「なあに?」

「できたら、で、いいんだけど、遥香さんの小説を読みたいんだ」

 遥香は大きな瞳を丸くして、僕をじっと見た。

「それは、まあいいけど、どうして?」

 僕はすこし言葉に詰まって、それでも、本当のことを言った。

「それを参考に、小説を書こうと思う。前に、遥香さんの小説を読んでから、なんだか興味が湧いてね」

 僕に文才などない。そもそも、僕は何らの才能も持たない。けれど小説、これは、素敵だと思った。物語としての意味もあるが、なんだか個人の思想が、ぜんぜん難解でなく、ただ話を追っているだけで、すんなりと入ってくるような。難しいことは解らないけれど、僕はそこに魅力を感じた。

「また、急だね。でも、晃くんらしいかも。いいよ、ちょっと待ってね」

 遥香は部屋を出ると、どこからともなく例のダンボールを持ってきた。それを僕の目の前に置くと、手を突っ込んで、あれこれと取り出して確認する。

 しばらくそんな作業をしたあと、僕にいくらかの原稿をくれた。

「後半は、いつもネットで書いてたから、もう無いんだ。でも、ここにあるやつはなんだか棄てられなくてね。短編ばっかりだけど、とりあえず、それ読んでみて」

「え、いま読んでいいの?」

「うん」

 遥香がためらい無く頷いたので、僕はさっそく読み始めた。遥香も、残っている紙の束をぺらぺらと捲って、しばらく流し読みしているようだった。しかしそれにも飽きたのか、やがて僕にもたれたまま眠ってしまった。僕は苦笑して、ゆったりと遥香の小説を読みすすめた。

 三十分ほど、そうして過ごした。手渡されたぶんは、もうほとんど読めた。なかには、僕にさっぱり解らないものもあった。そういえば、遥香は文系科目が苦手だと言っていたのに、文章はずいぶん良く書けているように思う。僕が小説を知らないから、そう思うだけかもしれないが。

 ちょうど遥香が目を覚ました。両手をぐっと突き出して体を伸ばすと、跳ねるようにして僕から離れた。

「どう?読んだ?」

「ああ、うん。渡されたぶんは、だいたい読めたよ」

 小説やら文学やら、そんなものは解らなくて構わない。ただ、小説というものの雰囲気を知り、あとは、遥香の思想に触れられれば充分だ。

 想定される読者は、たった一人なのだから。

 そう、僕は遥香のために小説を書こうと思った。彼女は、確かにこれのせいで酷い目に遭ったわけであるが、それでも、こうして棄てられずにとってあるのには、きっと理由があるのだ。僕には判りえぬことだ。しかしおそらく、遥香はもう一度、小説を書きたいのではないだろうか。根拠はほとんど無い。ただ、なんとなくそう思ったのだ。

 もし、そうであれば、彼女を後押ししたい。かと言って、直截に言うのも気が引ける。だから、彼女を励ますような小説を書くのだ。それで遥香が焚きつけられれば大成功である。

 ああ、やはりこんなのは、傲慢な独り善がりなのだと思う。

「…面白かった?」

「正直、難しいのもあって、なんとも。でも、すごいと思うなあ。中学生で、こんなの書けるなんて」

 遥香は照れて笑った。

「じゃあ、さっそく帰って書いてみようかな」

「あ、ちょっと待って」

 立ち上がろうとした僕を、遥香が手で制した。僕は座り直す。

「どうした?」

「あの、ええと」

 遥香は照れた表情のまま、なにやら言い淀んだ。僕はただ、じっと待った。

 それは突然だった。遥香はゆっくりと両手を持ち上げると、僕の頬にそっと添えた。そして、僕がはっとした頃には、既に遥香の顔が眼前にあった。遥香の体温と、微かに漏れる吐息を感じる。僕の唇は塞がれていた。柔らかくて、温かい。甘い。そんな状況で、五感は怠けずはたらいていた。

 不思議なことに、卑猥さはほとんどなかった。もちろん、心臓は煩いくらいに暴れていた。ややあって離れた遥香は、思い切り照れて、そっぽを向いた。頬が紅潮していた。

 僕はふと、意地悪な気持になって、遥香の名を呼んだ。彼女は素直にこちらを向いた。すかさず、僕はキスをした。遥香は明らかに動揺していたが、すぐに受け入れてくれた。今度は、少し長く。

 満足すると、僕は離れた。自分でも意外なことに、僕はこういった時にわけのわからぬ蛮勇を発揮することができるらしい。遥香は、いっそう紅くなった顔で僕を見つめた。今更に、僕も頬に熱を感じる。

「なんか、あなたって、へんなとこ大胆だよね」

「いちおう、男だからね」

 僕がおどけると、遥香も笑った。僕は遥香の頭を軽く撫でた。


 そのあとは特に何事もなく、僕は家に帰りついた。姉は、制服についた遥香の匂いと僕の態度から何かを感じ、しつこく問い詰めてきた。しかし、本当に僕らは何もしなかった。僕がその気であれば、押し切ることもできたのかもしれないが、それは今ではないように感じたので、しなかった。遥香も求めなかった。

 それに僕は、そういうことを避けねばなるまい。

 とかく、僕は食事と入浴を済ませると、部屋で机に向かった。そして、帰りに買った原稿用紙に文字を入れ始める。書き方なんて判らないけれど、とりあえず実験的に、一つ書いてみることにした。


 二時間程度で、一本の短編を書いた。しかし、どうにも出来が悪い。さすがに、遥香のようにはいかないらしい。

 まあ、焦ることはない。とりあえず卒業までに一本、良いのが書けたら充分である。

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