小春
また、悪夢を見ていた。ここのところ、ずっとこの調子だ。いつだって同じ結末で終わる。けれど、最近はこの悪夢に対しても、すこしは愛着をもてるようになってきた。これはきっと、遥香のおかげだ。
ベッドの上で身を起こし、窓の外を見た。いい天気である。夏空、という形容が相応しいような、力強くも淡い色の空だった。とうとう蝉が合唱を始めた。今日は月曜日、また、一週間が始まろうとしていた。
電車に乗ると、隅っこの席を確保した。イヤホンをつけたまま、ぼんやりと揺られる。駅を過ぎるたびに人が乗り降りして、車内は混みあっていく。いたって普段通りの光景に、欠伸がでる。
昨日、放ったらかしにしていた課題を深夜までかかって片づけたからだろうか、なんだかいつもより眠い。自然、僕はうとうと微睡んでいた。
遥香が家に来てから、一週間が過ぎた。この間には、これといった変化は無かった。遥香は僕を頼ってくれているらしく、学校の中でも、僕にしょっちゅう話しかけてくるようになった。もう、取り繕う必要も無いのだろう。こうなると僕が周囲の男子に睨まれてしまうが、それは問題なかった。皆、驚きはするだろうが、遥香の立場が一転してしまったこともあって、僕を攻撃しようとはしなかった。遥香のほうも、酷い目に遭っているわけではないらしかった。
僕はほとんど眠ろうとしていた。なんとか抵抗しようと、うすく眼をひらくと、制服のスカートが見えた。僕の学校の制服だ。それで目が覚めて、頭上を見てみると、果たしてそこに遥香がいた。イヤホンを外す。
「おはよ」
僕は欠伸と一緒に応えた。ここ一週間、同じ電車に乗るようになった。別に、示し合わせたわけではない。ただ、一度同じ電車に乗り合わせてから、自然とそんな習慣ができたのだ。
「今日はすごく眠そうだね」
「うん。課題をサボったのがだめだった」
ちょうどよいタイミングで隣の人が席を立った。代わりに遥香が座る。かなり人も増えていて、必然的に身を寄せ合う形になる。僕はもう一度、欠伸をかみ殺した。
「私にもたれて、寝てていいよ。起こしてあげる」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
僕はごく軽く、彼女に体重を預けて眼を閉じた。もう、かなり暑い。制服も半袖になっているから、すこし肌が触れあってしまうけれど、大して気にならなかった。慣れた、と言うよりは、遥香を信用していた。彼女になら、触れても大丈夫。
とはいえ、こんな体勢で眠れるわけもなく、僕はついに居眠りができぬまま、いつもの駅に降りた。
「さすがに電車じゃ寝られないか」
並んで歩く遥香が笑っている。僕は鞄を持ち直すと、首にかけていたイヤホンをポケットに突っ込んだ。ついでにスマートフォンで時刻を確認しておく。急ぐ必要はなさそうだった。
「今日の一限、なんだっけ?」
「現代文じゃない?」
「ああ、そうだった。眠いなあ」
照りつける陽射しが眩しくて、僕は眼を細める。桜並木はすっかり葉を茂らせ、ところどころに葉洩れ日を落としている。僕らの隣を、同じ制服の少女が自転車で通り過ぎていく。こんな平穏が、ずっと続けばいいと思った。
「おはよう」
僕が鞄を置くと同時に、小春が挨拶をくれる。これも慣れた光景だ。僕はそれを返しながら椅子を引いた。
小春と遥香の関係は、未だに謎のままだ。いずれ訊かなければならないと思いつつも、この平和に満足してしまって、結局判っていない。しかし、二人のあいだには必ず何かがあるはずだ。それを、いちいち掘り返したくはないが、もし、小春がこれ以上僕に近づいて来るのならば、すこし、考えなければならない。
「最近、ずっと沢谷さんと一緒にいるけど、付き合ってるの?」
小春は直截に訊いてきた。どう答えるべきか迷ったけれど、もう隠す必要も無いのかもしれない。そう思って、正直に答えた。
「まあ、うん」
僕は小春のほうを見ないままでいた。しかし、奇妙な間が感じられたので、隣へ目を遣った。そこには、ひどく顔を歪ませた小春がいた。
「…なんで」
「え?」
小春はさらに何やら呟いたかと思うと、僕を睨みつけてきた。
「なんで、遥香なんかと!あの子、ヤバい子だって、知らないの?」
驚いた。小春が、声を荒らげて誰かを非難している。そんな姿を、僕は想像したこともなかった。小春は基本的に穏やかで、人当たりもいい。遥香の噂だって、そこまで気にしている様子はなかったから、反発されるとは思っていなかった。僕は反射的に身構えて、余所行きの微笑をつくった。
「僕は、あんな噂なんて気にしてないよ。藤野さんも、そうだと思ってた」
小春は表情を変えないまま、何かを考えているようだった。その背中越しに、こちらを不安げに見守る遥香の姿がみえた。幸い、僕らはそれほど注目されていないらしかった。みんなはそれぞれ、雑談に興じている。
「おかしい、おかしいよ。なんで、遥香なの?あの子は、またそうやって…」
僕は、それでも怯まなかった。もはや、遥香のことに関して、僕は一歩も譲る気などなかった。争いはできるだけ避けたいが、必要であれば、僕はためらいなく自己を主張する。これまでのようにはいかない。
「むしろ、藤野さんはどうして、そんなに怒ってるの?」
僕は小春の眼を真直ぐに覗き込んで訊いた。小春は口を半開きにして驚いているような顔をみせた。けれど、目は決して、僕から逸らさなかった。
「どうしてって…」
そうしているうちに、小春の眼に涙が溜まってきた。僕は狼狽える。さすがに、泣かせたくはない。けれど、その理由が判らないから、どうすることもできない。
「もういい。知らない」
小春はそのままそっぽを向いた。僕はそれ以上追求することをよして、前へ向き直った。予想外の展開だった。遥香に対して憎しみをもっているのならまだ解るが、小春は、僕に怒っているようだった。
そうしているうちに、現代文の担当が教室へ入って来て、まもなく授業が始まった。
昼休み、僕は屋上で、今朝のことを遥香に語って聞かせた。遥香はしばらく真面目な顔で聞いていたが、僕が話し終わると、突然吹き出した。
「なに、なんなの遥香さんまで」
「それは、さすがに小春が可哀想かもね。でもまあ、しかたないか。晃くんはそういう人だしね」
近頃は暑いので、出入口のわき、日陰になっているところで食事をする。僕はパンを飲み下して、冷たいミルクティーを含んだ。甘ったるい風味が口の中に広がる。
「ぜんぜん解らないんだけど。どういうこと?」
「んー?つまり、あなたのことが諦められないってことでしょ」
なま温い風が吹く。蝉の声がほとんど意識の外から聞こえてくる。日陰では、遥香の瞳はいっそう落ち着いた色にみえる。
「僕が諦められない?そんな。藤野さんは僕が好きなの?」
「え、知らなかったの?」
遥香は信じられないと言いたげに僕をじろじろ眺めた。まったく気づかなかった。そもそも、僕は人から好意を向けられるということを、まったく想定していなかった。そんなことは今までなかったし、それは僕の性格上、困難なことであった。例外は遥香くらいのもので、他の人から好意を向けられようとは、思ってもみなかった。
「鈍すぎでしょ。あー、私はある意味ラッキーなのかもね。あんな出会いじゃなきゃ、絶対ここまで来てないよ」
「そう言われてもなあ。でも、それなら確かに、今朝の僕の言葉は、挑発にも等しいものだったのか」
「そうだね。誰が聞いてもケンカ売ってるようにしか聞こえないよ」
なんだか、小春に悪いことをしてしまった。謝りたいが、それも難しいだろう。なにせ、小春があんなふうに怒っているのは初めて見た。あの感じでは、下手に刺激するほうがまずい。
「でも、藤野さんも悪いんだよ。遥香さんのこと、悪く言うから。僕も身構えちゃって」
「さりげなくそういうこと言ってくるよね、あなたは。…まあ、嬉しいけどさ。いいんじゃない?小春の自業自得でしょ。私をこんなふうにしてまで失敗したんだから、諦めろっての」
遥香にしては珍しいくらいに冷たい言い方だった。
「やっぱり、二人のあいだには何かあるんでしょう?教えてよ」
遥香は箸を動かしながら、しばらく考えている様子だったが、やがてこちらを向いて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「今日、ウチに来てくれたら教えてあげる」
放課後になった。小春は、やはり一言も口をきかず、とても不機嫌だった。もはや僕以上に、周囲を驚かせてしまっていた。僕もどうしていいか判らず、ただ、彼女と視線をぶつけないように前ばかりを向いていた。
教室を出たところで遥香と合流する。学校を後にして、桜並木の下を歩く。これはこれで、見事な景色ではなかろうか。なにより、夏は木陰が涼しくていい。
途中、小さな交差点で、僕は気まぐれに、遥香と手を繋いでみようと思った。しかしいきなり手をとるのも躊躇われたから、僕は彼女を車から遠ざけるほうへ押しやって、その拍子に手を握った。
「何?護ってくれてるの?」
「遥香さんが、事故に遭うなんて絶対に嫌だからね」
こうやって半ば強引に手を繋いだのはいいものの、結局、暑くてすぐに離れてしまった。まあ、いい。遥香を護るくらいの意味はあっただろう。
電車に揺られて、駅に降り、また並んで歩いていく。炎天下、道行く人々はどこか不機嫌に、陽をさけて歩いていた。遠く、陽炎が揺らめいている。
「到着ー。ほい、あがってあがって」
僕は遥香について上がり、彼女の部屋に入った。遥香はすぐに降りていって、グラスに麦茶を注いで戻ってきた。礼を言いながら受け取り、一口飲んだ。この時期は、冷たいものが何だって心地よい。
遥香も僕の正面に座ると、同じように麦茶を含んだ。
「んー、やっぱり夏はこれだね」
僕はカッターシャツの首元のボタンを外した。遥香もリボンを外して、ベッドへ投げた。その動きを目で追っていて、いまさらに、僕がいつかに取ってあげたぬいぐるみが飾ってあることを発見した。
「あれ、なんか懐かしいね。もうずいぶん昔のことみたいだ」
「ん、ああ、そうだね」
「ちゃんと置いててくれたんだ」
「もちろん。けっこう嬉しかったんだからね」
僕はもう一度、グラスに口をつけた。遥香が立ち上がって窓を開ける。やはり暑いが、すこしはマシだった。
「さて、じゃあ、君と藤野さんの関係を聞かせてもらおうか」
遥香は正座を崩したような形でぺたりと座り込んだ。
「…わかった。じゃあ、話そう」
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