僕らと小春
過去
久しぶりの青空を見た。ここ最近はずっと雨が続いていたが、雨の季節もようやく終わりを迎えそうである。
昨日の約束どおり、僕は駅まで遥香を迎えに来た。遥香は、もう着いていた。さすがに暑くなってきたので、白い半袖のブラウスに、膝上までの淡い水色のフレアスカートと、涼しげな格好をしていた。僕が何も無いと言ったからか、手荷物は小さなバッグ一つだけだった。その軽装が、なんだかリラックスしてくれているように思われて嬉しかった。
遥香はこちらに気づくと、ちょこちょこと駆け寄ってきた。背中で髪が揺れている。眩しい陽光に細く光って綺麗だ。
「おまたせ」
「んーん。いこ」
遥香が僕に並んだのを見て、ゆっくりと歩き出した。通学路を通って家に向かう。今日はたしかに暑かった。雨ばかりだったこともあって、ひどく蒸し暑い。僕も結構な薄着なのだが、それでも汗ばんでしまう。
「確かに、何も無いね」
遥香は辺りを見回しながら言った。
「でしょう。でも、これからもっとひどくなるよ」
雑木林の路地を抜けて、田圃が見えてきた。稲は青々と伸びている。時折、弱い風が吹いて、その青葉をさわさわと揺らした。
「へえ、これは、ほんとに田舎だ」
「ほんとだよ。田圃ばっかりで」
「でも、景色はいいね。なんか懐かしい感じがする」
遥香は軽い調子で駆け出して、僕の五歩くらい先でくるりと回ってみせる。スカートの裾がふわりと膨らんだ。この景色は、驚くほど彼女に似合っていると思う。何故だろう。きっと、遥香が静かで穏やかだからだ。
「そう言えば、晃くんって兄弟とかいるの?」
「大学生の姉さんがいるよ。両親と四人暮らしだけど、この頃は大抵、姉さんくらいしか家に居ないんだ」
「そうなんだ。いいなあ、お姉さんかあ」
「遥香さんは?」
「お兄ちゃんが居たんだけどね、歳が離れてるから、私が中学入る頃に出て行っちゃった」
それで、遥香の家は部屋の数が多かったのかもしれない。遥香の兄、と言われても、上手く想像できない。どんな人なのだろう。
「仲良かった?」
「うん、すごくやさしい人だったから、かなり可愛がってもらえたよ。だから、別れる時は寂しかったな。今でも時々帰ってくるんだけどね」
「そうなんだ」
そんな話をしているうちに、我が家にたどり着いた。
「ここが、ぼくの家だよ。母さんの親が建てたみたいで、もうだいぶ古いけど」
「うわ、立派だね」
僕は先に玄関へ行って、戸をあけた。ちょうどそこで、だらしない姿の姉を発見する。
「あら、おかえり。ずいぶん早いんだね…って、その子は」
遥香は僕の隣に割り込んでくると、ゆったりとした動作で頭を下げた。その落ち着いた雰囲気は誰が見ても好ましく、流石だなと感心するばかりだった。遥香はいつもの静かな声で挨拶する。
「初めまして。いつも、晃くんのお世話になっております。沢谷遥香といいます」
「あ、これはどうも。晃の姉です。…晃が女の子を連れてくるなんて、雪が降るかもしれないわ」
「失礼だな」
姉は僕の声を無視して、遥香にあがるよう勧めた。遥香はくすくすと上品に笑っている。僕はせめてもの抵抗に、姉を睨んだ。
遥香が靴を揃えてあがってから、僕もつづく。
「僕の部屋は二階なんだ。こっち」
僕は遥香を部屋へ連れていった。今日のために少し掃除をしておいたが、そもそも僕の部屋には物が少ない。特定の趣味をもたないからだ。窓は開け放たれている。こんなところに住んでいると、どうしても戸締りの意識が緩くなってしまう。
「…なんか、殺風景?」
「遥香さんのそういうところ、嫌いじゃないよ」
遥香は窓のほうへ歩いていって、外を眺めていた。僕も後ろからその様を眺める。部屋に友達を招いたことなんてあっただろうか。人の家に行くことはあっても、その反対はなかったような気がする。
「いい眺めだあ。空気が綺麗な気がする」
「それくらいしか取り柄がないからね」
僕は遥香に椅子をすすめ、ベッドに座った。窓から心地よい微風がそよと流れてくる。少しだけ、土の匂いがした。
「さて、ここへ来たからには、晃くんの昔話を聞かせてもらおう」
「なんでいきなり」
「いいでしょ。なんか思い出をさ。興味あるんだよ」
遥香は口元を緩ませて僕を見つめる。僕は小さくため息をついて問う。
「もしかして、だから、わざわざここへ?」
「何事も形から入るタイプなので。と言っても、それは理由の半分だよ。もう半分は、単純に、家が知りたかったから」
「なるほど」
「さあ、語ってください」
僕は右手を頭の後ろへ遣りながら、思い出してみる。過去。僕の過去。それは、まるでつまらない映像だ。自分で思い返してみて、ときおり美しいもののように感じることがあるけれど、それはあくまでノスタルジーの為せる業で、僕のそれが大したものであるという事では、決してない。
孤独と、冷たい世界。端的に表現すれば、そんなものだ。意味のない虚しい人生。僕は、ぽつぽつと語りだしてみる。
「僕は、ずっとここに住んでるんだ。小学校も中学校も、近くにあるよ。クラスメイトも二十人、いや、それより少なかったかもしれない」
遥香が頷く。と同時に、彼女は細い脚を交差させた。
「やっぱり人は少なかったわけだね」
「うん。ずっと平凡な人生だったよ。小学校の頃は、ほら、こんなところだからさ、自然の中で遊んでた。川とか林の中とか。友達も、人が少ないから自然とできた。普通、の、子供だったと思う」
小学校の頃のことを思い出しても、特別いやな気はしない。ただ、子供らしく遊んで過ごした。友達も笑っていた。家族はまだ、ひとつにまとまっていて、それなりに幸せだった。
「中学校は?」
「中学校もね、特別変わりやしなかったんだけど、でも、ひとつだけ。僕は、人と上手く話せなくなった」
そう、それは突然の変化だった。当時の僕にとっては恐ろしい変化で、真面目に先生に相談したこともあった。先生は一笑にて僕の頭をたたき、心配ない、お前は大丈夫だ、と言った。僕は大丈夫じゃなかったのに。
「人と話せなくなった?」
「そう。なんだかね、何を言っても失言を繰り返してるみたいでね。実は、自分は空気を読めていないんじゃないかとか、みんなに疎まれているんじゃないか、とか、今思えば過剰なところもあったと思うけれど、でも、本当に、そう思うようになったんだ」
「それは、いまでもそうなの?」
「今は、かなりマシになった。でも、僕の今の性格を形作っているのは、きっとそれだ」
突然の不安感であった。人の表情を見ながら話しても、上手く話せないのである。もっとも、それは僕の錯覚で、実際、僕の人に対する態度は、さして変わっていなかったのだろう。それは、いまなら解る。でも、当時はただただ怖かった。
「それで、僕は自然と、あまり話さなくなった。怖かったんだ。人に上手く接することができなくて、嫌われてしまうと考えると、堪らなかった」
その恐怖の正体を、今ならば僕は正確に表現できる。それは、対人恐怖である。そういう精神病であったのかは知らない。たぶん違う。思春期の難しい何かだったのだと思う。でも、それは確かに対人恐怖だった。僕は背が伸びるみたいに自然と、人を怖がるようになった。人が自分を良いふうに理解してくれることを、まるで期待しなくなった。
「僕は、自然と友達を失った。過剰に線引きをしようとする僕は、皆からは気取ったやつみたいにみえたと思う。いつもびくびくしていた。嫌われはしなかった。ただ、僕に近づこうとする子は、もうほとんどいなかった。かろうじて最後まで付き合ってくれた子たちも、高校へ進むと疎遠になってしまった」
遥香は目を伏せた。僕は視線をすこし落とす。白い爪先が目に入った。また、風が吹いた。
「それで、高校では、もう遥香さんも知ってるよね。僕は、人を警戒しながら生きてきた。中学の頃ほどは、酷くなかったし、もう気持の整理もできていたから、苦しくはなかった。でも、問題だったのはね、この部屋を見てもらったら判ると思うけれど、僕が、特定の趣味や思想をもたなかったことなんだ。大抵、なんだってやってはみるんだけどね。だめなんだ、長続きしないんだよ。じっとして居られないんだ。母親の遺伝なんだと思う。
僕は、人もモノも、ちっとも自分にくっつけないまま生きている。そうやって、ねえ、あ、ごめん、なんか変な話になっちゃった」
顔をあげると、遥香と目があった。やさしい瞳だった。遥香は不思議な眼をしている。色が深いのである。僕はへんに、泣きそうな気持になって、意味もなく窓のほうへ目を逸らした。青い、雲ひとつない空があった。僕はそれを、素直に美しいと思った。
「それで、あの日、屋上で出会った」
「うん。遥香さんは、素直に綺麗だった。僕は、そんな景色に一目惚れした」
目を逸らしたまま言うと、遥香は声を出して笑った。
「そこは、私に惚れたって言ってよ」
「僕にとっては、どっちも同じなんだよ」
遥香のほうへ視線を戻してから続ける。
「初めて、確かなものができた。きっかけはただの偶然だったけれど、相手が遥香さんだったから、ここまできた。だから、ほんとに感謝してる」
「えへへ、よろしい」
遥香は誇張なしに、そんなふうに笑ってから脚をもとに戻した。背中を後ろにぐっと預けて、体を伸ばしている。僕は後ろへ両手をついて、ふっと息を吐いた。
「そんなところだね。だから、ずっと思っていた。僕はなんで生きているんだろうって」
一つだけ、エピソードを意図的に省いて語った。いずれ遥香にも話すことになるだろうが、今はまだ早い。
と、その時、突然ドアがひらいた。
「しかし、晃には一つだけ隠していることがあるのです!」
ドアの向こうから現れた姉が、そんなことを言った。驚いた、では済まないくらいに心臓が騒いでいる。
「お姉さん」
「遥香ちゃん。この子はね、今、あなたの前で恰好つけようとして、言ってないことがあるのよ」
遥香が僕を訝しげに見る。僕はとっさに目を逸らした。姉が得意げに話す。
「この子、いっとき、登校拒否になってたの。ほんと、突然」
「あ、もしかして、高校二年の時ですか?たしか、一週間か二週間くらい」
「あら、知ってた?」
「はい。でも、病気だって聞いてましたけど」
僕は観念して、遥香のほうへ向き直った。彼女の大きな瞳は半分くらい閉じられていた。なんだか責められているような気がした。もちろん気の所為だ。
「みんなには、そう言ってもらうように頼んだんだ。本当は病気なんかじゃなくて、ただ引きこもってただけ」
「えっ、そうなの?」
「そうなのよ。私も、ほんとうに驚いたわ。朝起きて、突然わけのわからないことを言い始めてさ。私、ちょうど大学に入ったばっかりだったんだけど、この子、私がどこの大学に入ったのかも判らなくなっててさ。すぐ医者に見せたんだけど、異常なし。難しい時期だから、気長に見守ってやれって」
その通りだ。僕はある日の朝、起きてすぐに狂ってしまったことがある。まったく出鱈目なことを言って、それで、周りをひたすらに困惑させた。その時ばかりは、あの父も心配してくれた。姉なんかは過剰に世話をやいてくれて、立ち直れない僕を見守ってくれた。
「でも、なんでそんなことに」
「自分でもよく解らないんだ。でも、えーと、なんというか、混乱してたんだと思う。こんな性格だったのが災いしたのかもしれない」
遥香は真剣な顔で僕を覗き込んでくる。本気で心配してくれているようであった。僕はこれ以上姉に掻き回されまいと思い、笑ってみせた。
「今は、もうすっかり良くなったよ。悪い夢でも見てたんだろう、そう思えるようになった」
遥香も、ようやく穏やかに笑ってくれた。僕は姉を見上げたが、とうの姉はにこにこと僕を見下ろしている。僕の無言の罵倒に気づいていて、それでも、
「なに、こういうところから素直になっていかないと長続きしないよ?愛のムチってやつだよ」
「要らないよ、そんな愛は」
「仲良いんだね」
遥香が笑ってくれたので、ひとまず良しとした。まったく、姉には敵わない。
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