つながる

 正直に言って、遥香の書いた小説は難解なものだった。日頃、ほとんど本を読まない僕には、解りづらい内容である。

 しかし、何となく遥香の言いたいことは伝わった。何よりも、この主人公、これは、きっと遥香自身なのではなかろうか。あれこれと難しい言い回しで、どうとでも捉えられる小説だが、しかし、少女はただ、人間と真直ぐに向かい合いたかっただけなのではないか。

「この女の子は、きっと寂しかったんだろうね。あまりにも空っぽな人生は、生きている意味を考えさせる。それは、僕自身がそうだからよく解るよ。彼女は純粋無垢な乙女に憧れたと言うよりは、ただ、誰かと真直ぐに向き合いたかっただけなんじゃないかな」

 遥香は黙って聞いていた。僕は頭の後ろへ右手を遣りながら続ける。

「心を失ってまで友達を手に入れても、孤独だった。少女にとって致命的だったのは、心を失ってしまったことじゃなくて、どう足掻いても孤独で、空虚である自分に気づいてしまったことなんじゃないかな」

「…よく気づいたね。そう、私は、少女の孤独を描きたかったわけではなくて、その向こうにある絶望を描きたかったの。彼女は魔法によっても救われませんでした、って所を、描きたかったんだ」

 僕は頷いた。しかし、これが批判されるような内容だろうか。確かに最後のシーンは、やや猟奇的で狂気を感じるが、別に珍しいものでもないように思う。どこにでもありそうな話で、それほど突飛な内容でもない。だが、そんなことは重要ではないのだろう。

「確かに、遥香さんの思想が顕れてて、すこし変わった雰囲気になっているとは思う。でも、僕は悪くないと思うんだけど」

「そう言ってもらえると嬉しいよ。でも、やっぱり、そんなことは関係ないんだろうね」

 そう、つまり、内容など重要でないのだ。こういう、言ってしまえばすこし変わった自己表現自体が咎められているのだろう。少なくとも僕達のクラスでは、それは異端だった。

「ねえ、晃くんは、ほんとうに、変だと思わない?」

「思うわけないよ」

 僕は即答した。遥香のほうを真直ぐに見て言った。

「…、そっか、うん、そっか。あなたは、確かに、そう言うかもしれない」

 遥香はゆっくりと頷き、それから俯いてしまった。しばらく黙ってしまった遥香を、僕はただ見守ることしかできない。

 やがて、彼女の顔から膝へ、ぽたりと雫が垂れた。僕は戸惑う。

「遥香さん?大丈夫?」

 顔をあげた遥香は、泣いていた。大きな瞳を歪ませて、静かに透明な涙を零している。

「私は、私を否定するのが、一番辛かった。だって、それが本当の私なのに、だれも私を見てくれない。私を、私を、だれも見てくれない」

 とうとう彼女は、子供みたいにしゃくりあげ始める。まったく繕えていない。しかしそこにいるのは、まさに遥香という人間だった。誰に怯えるでもなく、彼女の感情が溢れ出していた。

「いいんだよ。僕は、何もしてあげられないけれど、ただ、一緒にいてあげることはできる。僕でよければ、ずっとここにいる」

 遥香は両手のひらで涙を拭いながら、僕のほうを見た。彼女の涙は止まらない。

「だって、さ。遥香さんはやさしいから。なんにも悪くないんだよ。君は、君のままでいいんだ。それを否定するやつは、僕が全力で否定してやる。間違っているのは、彼らだ」

 遥香はやさしい。あの時、一目惚れしてしまったように、僕は、いつの間にか遥香の善性に触れて、それを感じていた。彼女が、一度だって人を攻撃したことがあるだろうか。一度でも、僕に心無い言葉を吐いたことがあるだろうか。遥香は、いつだって怯えていた。それは人を傷つけずに自分を守ろうとした証だ。不貞腐れるでもなく、暴れだすでもなく、彼女は、ただ怯えていた。

 ああ、もしかして僕達は。

「やっぱり似てる」

 唐突に遥香が言う。すこし得意げにも聞こえる。

「あなたも私も、個人を個人として見ているんだ。はじめから、ちっとも期待していないんだ。…だから、だからね、あなたが私と、本当に友達になりたいって言ってくれた時、嬉しかったんだ。人に期待しないあなたが、私には期待してくれた。私の裏の姿や、ちっとも可愛くない姿を見ても、あなたは幻滅しない、いや、それどころか、こうやって助けようとしてくれてる」

 遥香の声は震えていた。初めて見る遥香の涙は、とても美しかった。人間らしい温度が感じられるのである。僕らは、きっと本質的に似ている。人に怯えている。人をあてにしていない。そのくせに、人に傷つけられることを恐れている。だから、過剰に身を護ろうとする。いつだって人を警戒している。

「ねえ、人の気持のほんとうのところって、どこにあるんだろうね。私を慕ってくれる人はみんな、私の何を見ているんだろう。あなたは、私の何を見ているんだろう」

「判んないよ。僕だって、いろいろ考えたんだ。僕は遥香さんに近づきたいけれど、それは、もしかしたら依存に近い欲求で、ほんとうは、遥香さんそのものを見ているわけではないかもしれないとか、そんなことを、考えていたんだ」

 ああ、だから、僕は寂しかったのだろう。これまでの人生で、何一つとして確かなものが無かったから。そんなものが、僕に手に入れられるはずがなかった。誰も彼もが遠かった。臆病者の言い訳だと断ぜられれば、それまでである。しかし僕は、こんなふうに生きていくのに辟易していた。そんな時、現れたのが遥香だった。

 初めて、同胞を見つけたような気がした。僕は、遥香の壊れた様に恋をした。それは、僕の内面を映したかのような彼女の寂しさへの憧れだったのだろう。

「でもね、思ったんだよ。遥香さんとなら、もしかしたら、僕が思っているような真直ぐな関係を築けるかもしれない。僕らは、互いの全部を見て、それで、底の底から相手を認め合うことが、できるかもしれない。根拠なんてない。ただ、僕の本能が、そう言っているみたいで」

「互いの、全部を見て…」

 しばらくの間、僕らはなにも話さなかった。ただ、それぞれがそれぞれを考えていた。沈黙が部屋を満たす。先に口を開いたのは、遥香のほうだった。

「私は、あなたの、どこまでを見ている?私は、それが判らなくても、あなたと一緒にいていい?」

「ああ、大丈夫。僕だって、よく判らないから。だから、これから、僕達は少しずつ解りあっていこう。互いの人間を、少しずつ知って、それで僕達は、本当の関係を作ろう。うわっつらばかりの下らない関係じゃなくて、臆病者どうしの、神経質で、ある意味で妥協を許さない関係を築こう」


 遥香が顔をあげる。涙を力強く拭うと、やわらかに笑んだ。

「ねえ、そっちに行っていい?」

「もちろん」

 ゆっくりと立ち上がると、僕のほうへ歩いてきた。そして隣に腰を下ろし、僕の肩にもたれかかってきた。以前の接触のように、ただくすぐったいばかりではなかった。それは居場所をもたぬもの同士が、身を寄せて慰めあっている像である。

「ねえ、晃くん」

「なにかな」

 遥香の声は静かだったが、震えていなかった。

「好きだって、言ったら、怒る?」

 心臓がとくんと跳ねる。しかし、今度ばかりは僕も引き下がらないつもりであった。意気地無しにも、それくらいの気概はある。

「…怒らないよ。でも、それは遥香さんの本当の気持なの?」

 遥香は子供みたいに笑う。

「嘘だって言ったら、怒る?」

「怒る」

 遥香はいっそう楽しげに、はしゃいだ声を上げた。

「やっぱり、あなたは善い人だ。ほんとうに、好きだよ」

「うそつき」

 照れ隠しの意図が半分。これまでからかわれたことへの仕返しをしたかったのが半分で、僕は意地悪に応えた。遥香は見透かしたように体を揺すると、すこし離れて、僕の眼を見た。僕もまた、遥香を真直ぐに見据える。

「いじわる。これでも、嘘つきにみえる?」

「…みえないね」

 真面目な顔でうけあった僕を見て、遥香の方が吹き出した。僕もつられて笑った。

「で、返事は?私は、フラれちゃうの?」

「僕もね、遥香さんが好き。すぐに『うそつき』って言うくせに、自分も怖がって偽って、でもほんとうにやさしい、君が好き」

 勢いにのって、言葉はするすると零れ落ちた。一つの嘘だってなかったけれど、もちろん、照れくさくなってしまう。僕は言っておいてからその台詞を後悔して、そっぽを向いた。遥香もまた、なにも言わなかった。おそるおそる隣に目を遣ると、彼女の顔は真赤になっていた。ああ、きっと僕も、今こんなふうなんだろう。

「急に、そういうことを言うのは、どうかと思います」

 遥香の反応は恥じらう乙女のそれだった。いかにも素直な反応だ。普段、しっかりと繕っている遥香が、こんなふうに取り乱すのはきっと僕に対してだけだろう。いや、それは思い上がりというやつだろうか。とにかく、僕は嬉しいのだ。


 遥香は僕に寄りかかったまま、離れようとしなかった。本来、彼女はこんな性質をもっているのかもしれない。僕のように、本当は淋しかったのかもしれない。

「晃くん」

 遥香は僕の肩に頭をあずけたままで呼んだ。彼女の髪がふわりと香って、いまさらに距離を意識する。

「なに?」

「デートをしよう」

 デート、なんて言葉を遥香が遣うのは、なんだか新鮮だった。しかし、僕らの間ではちっともロマンチックに響かないから困る。僕は思わず苦く笑む。

「いいよ、なにする?」

「あなたの家に行きたい」

「店どころか、民家も少ないような田舎だけど、いいの?」

 遥香はようやく離れると、僕に向かい合って座った。もう、ちっとも哀しげではなかった。遥香は笑っていた。

「いいじゃん、人目を気にせずにイチャイチャできるよ」

 いつもよりも弾んだ声。瞳は普段通りの色を取り戻していた。これこそが、遥香の本当の姿なのだろう。

「いいよ、遥香さんが、それでいいなら、僕は」

「やった。じゃあさ、さっそく、明日行ってもいい?」

 そういえば、明日は土曜日であった。

「もちろん」

 僕は、いつもの無人駅の名前を告げ、昼頃にそこへ来るように頼んだ。

「わかった」

 遥香が頷いたのを確認してから、僕はゆっくりと立ち上がった。

「じゃあ、今日はもう帰るよ」

「あ、うん」

 僕は玄関まで見送られて、遥香の家を後にした。別れる間際、僕は念のために彼女に言っておいた。

「こうなったからには、遥香さんにどんなことがあるか判らない。でも、なにかあったら、僕に言って欲しい。独りで苦しむくらいなら、きっと、僕に」

 遥香は頬を緩ませて威勢のよい返事をした。僕も微笑みかけてから、遥香に背を向けた。


 帰りの電車の中、僕は隅っこのほうに座って、床をじっと見つめていた。とうとう、ここまで来てしまった。もっとも、後悔するにはあまりに遅い。僕は、遥香に恋などしてはいけなかった。いや、遥香に限った話ではないか。

 けれども、今更そんなことを言っても仕方がないので、僕はただ黙って視線を上げた。何も変わらない空気、景色。この世界は残酷だ。理不尽なことが平気で起こってしまう。善良な女の子が、あんなふうに傷ついてしまう。それに、時計の針は決して止まらない。

 それでも、遥香は僕の同胞であり、光であった。彼女の隣に立って眺める世界は、彼女の温もりに触れることは、これまでに味わったことのない美しさを秘めていた。

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