彼女と小説

「僕は、時々判らなくなるよ。みんなの言う、普通が」

 遥香は驚いたように目を開き、僕の顔をまじまじと観察している。僕は少しだけ深く呼吸をしてから、ゆっくりと続けた。

「正直、遥香さんの噂を聞いた時、本当に驚いたよ。だってさ、そんな、どうでもいいような事で、これまで慕ってた人を嫌いになる?僕ならありえない。小説を書こうと何を書こうと、勝手じゃないか」

「でも…」

「判ってる。僕の方がおかしいんだろう。きっとみんな、もっと空っぽな気持と生きているんだろう。たとえば、ほら、有名人が良いって言ったから、自分もそう思う、みたいな、そんな、無責任で、なんの個性も伴わない考え方。反吐が出るよ。なんにも考えてないじゃないか。一寸した事で、すぐに転んでしまうじゃないか」

 僕は、人が怖い。それは、僕に備わった先天的な感覚である。人は不確かだ。僕はちっとも安心できない。何を考えているのか解らない。僕の目の前でヘラヘラと笑っていて、そのくせして、すこし見えなくなると平気で陰口を叩き合う。

 それ自体が悪いと言いたいのではない。ただ、僕はそんな彼らを理解できなかった。彼らはいつだって傲慢だ。人に、自身の価値観を押し付け、理解させることを何とも思わない。それがいかに自分勝手で、生臭い行為であるのかをまるで考えない。いつだって人は人に、都合のよい姿でいることを、当たり前に望んでいる。

 遥香は口を噤んだ。こころもち俯き、ただ黙って僕の言葉に耳を傾けているようだった。いつもより乱暴な言葉遣いで語る僕は、ますます調子づいてしまって、感情的にまくしたてた。

「だから僕は、怖いんだ。人は、きっと僕とはまるで違った感性を持っていて、さもそれが常識であるかのように堂々と見せつけてくるから。僕はいつだって人を警戒していた。ある意味で僕は人でなしなのだから、大人しくしていなければいけないと、人の機嫌を損ねてはいけないと、そう思って生きてきた。でも今日は、今日は、とても、そんなことできなかった。臆病で、やっぱり怖かったけれど、それでも、遥香さんを否定するような事は、一言も言いたくなかった」

 そうだ。僕は、憤っていた。遥香を理不尽に悲しませる大多数に。小春も詩織も、遥香の何を解るというのだろう。

「だから、ね。その、こんなことを、こんなときになって言うのは、なんだか不誠実な気がして嫌なんだけれど、僕は、遥香さんの味方だからね。いや、そんなふうに言ったらまずいか。僕は、遥香さんを否定しない。だから」

 今日はまだ、大したことは起こっていない。せいぜい、小春にすこし悪い印象を与えてしまったくらいだ。けれどこれから、どんなことがあろうとも、僕は決して遥香を裏切るまい。

「安心して欲しいんだ。遥香さんは、人を攻撃しようとしない。僕は、そんな遥香さんがとても好きだった。過去になにがあったのか、よく知らないけれど、でも、遥香さんは、きっと善い人だと思うから。それは、言葉じゃ説明できない。これまで、遥香さんと一緒にいて、何となく解った。それを、僕は本能で悟ったんだ」

 遥香はじっと話を聞いていた。やがて、ぼそりと、低い声で呟いた。

「…ありがとう。私も、そう思うよ。ちっとも解らない。私がやってるのは所詮お芝居。ウケのよさそうな振舞いを、無理矢理に体に憶えさせてるだけ」

 日頃の遥香は、嘘をついている。いつも自身を偽って、人に嫌われないように、必死で過ごしている。そんな努力もむなしく、遥香は外れ者にされてしまった。

 遥香はしばらくそのままでいたが、やおら立ち上がると、部屋のすみに置かれてあるダンボール箱のほうへ向かった。そこでしばらく物を探し、中から紙の束を取り出す。それをこちらに寄越すと、遥香は勉強机の椅子に座って僕を見下ろした。その瞳に威圧は感じられなかったが、ただ、悲しげであった。僕は試されているのかもしれない。

「こうなった以上、隠していても仕方がないよね。それが、噂の小説だよ。私が中学生の頃に書いたんだ。晃くんに、読んでみて欲しい。感想を聞いてみたいんだ」

 遥香はそれきり、黙り込んでしまった。とにかく読めということだろう。手にあるそれは、十枚ほどの原稿用紙だった。僕は、一行目から文字を追い始める。


『乙女と心

 少女になりたいと思った。それも、なんの汚れも知らぬ、純粋無垢な乙女に。性の事はおろか、この世の美しさや人間の善性をひたむきに信じられるような、そんな少女である。

 しかし私の実態は違う。私は森の中にひっそりと生きる、薄汚く貧しい少女だ。こんな暮らしをしていると、心までもが冷えに冷えてしまって、ちっともやさしくなれぬから、純粋無垢な少女など望むべくもなかった。私は毎日、山菜や茸を山で採っては、近くの村まで売りにゆく。その繰り返しである。その品物だってどだい売れないものであるから、私の心は徒にすり減って、荒んでいった。

 とにかく、この世で辛いものは飢えと渇き。その次に空虚である。飢えや渇きは、まあ何とかなるものだ。貧しくとも、死ぬまでには至らぬから。しかし、ああ、空虚。こればかりはどうにもならぬ。

 私は友達が欲しかった。どんな者でも構わない。とにかく、いつも一緒にいてくれて、それで、なんでもないような話をして、食事を共にして。朝が来たら互いに声を掛け合い、日が昇れば共に仕事に精を出し、日が暮れたなら手を振りあって別れる。そんな友人である。

 私は掠れて消えてしまいそうな毎日の中で、そんなことを夢想した。この山奥には、人よりも動物の方がずっと多い。人の声など、村へ行かぬ限りには聞くことがない。それでも、私は夢想をやめなかった。よそうとも思わなかった。いつか、そんなものが手に入るとも、ぜんぜん思っていなかった。ただ、そればかりが私の命を繋いでいるように思われて、やめられなかったのである。

 ある時、私は森の中で、不思議な男に会った。その男は自分を魔法使いだと言った。怪しげな格好をしていた。黒いマントで全身をすっぽりと覆い、そのあいだから細く皺だらけの腕を伸ばして杖を持っている。杖の先には何やら装飾品が備えられてあるが、ちっともはっきりしなかった。大きな三角帽子を被っていて、その様は、まるで童話の世界に登場する悪い魔女のようであった。

 その男は私に問うた。

「お前は友人が欲しいのか」

 私は素直に頷いた。男は不敵な笑みを口元に浮かべ、それでもって、白く濁った目で私を真直ぐに見据えた。

「私が、魔法で叶えてやろう。しかし、タダとはいかぬ。この魔法を授かりたくば、お前の心を寄越せ。さすれば、お前に永遠の美貌と、裏切りを知らぬ友人を与えてやろう」

 私はすこし悩んだ。友人も美貌も喉から手が出るくらいに欲しかったが、心を奪われるとは、どういうことであろうか。心を奪われてしまったら、私は、どうなってしまうのだろう。

 私はしばらく悩んだ末、魔法使いに問うた。

「その魔法で、純粋無垢な乙女になれますか?」

「なれるとも。心を持たなければ、そりゃ、人間も美しいものさ」

 その一言に背中を押されて、私は魔法使いの話を受け入れた。私は心を差し出した。もとより、私の薄汚れた心など、大した価値があるものではない。それに、そんなものこそが、私を汚れなき乙女から遠ざけているのである。そう思うことで、私は自身を納得させた。

 儀式はじきに済んだ。魔法使いは私から心を奪うと、さっさと立ち去ってしまった。私は言われた通りに大人しく家へ帰り、朝を待った。何故だろう、明日やってくる友達のことを想ってみても、まったく心が踊らないのであった。

 翌朝、私はいつも通りに起きて、虚ろな目で仕事にかかった。私は確かに美しくなった。肌は見違えるほど真白に、滑らかになり、顔立ちもすっかり変わった。今の私は、誰が見ても美しい乙女であった。

 家を出たところで、約束通り友達を見つけた。それは金色の髪に青い瞳が美しい少女であった。少女は私のほうへ小走りに近づいてくると、あれこれと質問を始めた。私はそれらに偽りなく答えた。やがて少女は私を友人と認め、自分の友達を呼んでくると言って、走り去った。

 数分の後、少女は、数人の少女たちを連れて戻ってきた。どの少女も美しく、とても穏やかで優しかった。誰もが私と友達になってくれた。私は、魔法で望み通りの生活を手に入れた。

 しかし、心を失くした私は、ちっとも楽しくなかったのだ。

 何も知らぬということは、果たして美徳でありうるだろうか。純粋無垢な乙女などというものがこの世に在ったならば、その存在は悲劇的だ。それを、心を失って初めて知ったのである。手遅れだった。私は、美しくなった。私は、何も思わぬ、それ故に誰をも慈しむことができるようになった。それは私の憧れた乙女の姿であった。

 その姿は、罪であったのだ。

 同時に私は、人の気持が解らなくなった。村での商売にも苦労するようになってしまった。少女達は、それでも魔法使いの言った通り、裏切ることを知らなかった。私がどれほど愚鈍で、外れたことを言おうとも、彼女たちは私に笑いかけることしか知らなかった。

 来る日も来る日も、私は彼女たちと遊び、はたらき、食事を共にした。それでも、私はまったく孤独だった。私はまるで廃人だった。何も感じない。確かに、ああ、それは。

 魔法使いの言葉を思い出す。「心を持たなければ、そりゃ、人間も美しいものさ」

 その意味がようやく解った。人間の根底にあるものは、複雑に絡まりあった感情と、どうすることもできぬ空虚である。感情を失った私は、ただ、空っぽであった。そしてそれは、確かに傍目には美しかったに違いない。人間は自身の奥底に潜む空虚を、その感情で隠してしまえるから、生きてゆけるのだ。私は、無垢な乙女を夢想することで、自らの空虚に蓋をしていたのである。ちょうど、水やパンで腹をみたすように。

 ある朝、私の中でなにかが切れてしまった。ぷつりと、はっきりといやな音をたてて、それは唐突に切れた。私は少女たちを集めて、その一人一人を殴り殺した。美しい顔が醜く歪むのを幾度となく見た。彼女たちは涙を流して助けを求めたが、それでも、自らの手で私に反抗することはしなかった。哀れな少女達は、一人残らず死んでしまった。

 そして、少女たちの返り血に染まった私は、森の中で独り呟いた。

「全部、要らない」

 私は、自分で自分の頚を切ってしまった。赤い血が吹き出るのを、なんだか他人事みたいに眺めながら、そこで、ようやく私は眠ることができた。』

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