時折、自分の生きる意味について考える。この空虚な人生で、僕は何を残せるだろうか、などと考えてみて、そのつまらない思考に閉口する。きっと、何にだって意味は無いのだ。そう言い聞かせて、自分を納得させてきたのだ。或いは、僕は懸命に考えないように努めた。


 目を覚ますと、やはり雨が降っていた。遥香の身に何かが起こってから、三日が経った。遥香はそれほど落ち込んだ様子をみせず、けれども確かに、状況は変わっていた。今日も日常は流れていく。

 あれ以来、遥香は教室でも独りで居るようになった。これまで一緒にいた女の子たちは、遥香を除いてグループを成していた。周囲には随分と奇妙な光景であった。あの遥香が、クラスで孤立している。どういうわけか他の女の子たちも、遥香を避けているらしかった。

 いじめと言えば大袈裟だが、異常なことではあった。僕はそんな様子を視界の端に眺めながら、かといって目立ったことは何もできず、ただ昼休みを待っていた。一限が終わり、二限が終わった。次は教室を移動しなければならない。僕は荷物を持って立ち上がった。

「大槻くん」

 話しかけてきたのは小春だった。

「なにかな?」

「移動でしょ?一緒にいこ」

 僕は素直に頷いた。なぜだろう、小春の声が、心持ち甘ったるく聞こえる。しかし、これは都合がよかった。小春ならきっと、女子についての情報を豊富にもっているはずだ。なんとかして、遥香のことを訊きださなければならない。

「あのさ、沢谷さん、なんか変じゃない?」

 僕はまったくフラットに聞こえるよう、気をつけながら言った。これは上手くいったように思われた。

「あ、まあ、うん。…噂、知らないの?」

「噂?」

 まさか、僕と遥香の関係についてのことだろうか。もしそうだったら、僕はこれから、遥香に合わせる顔がない。そう思ったのだが、小春が告げたのは思いもしないことだった。

「うん。まあ、男子はあんまり気にしてないらしいんだけどね。沢谷さんってさ、小説書いてるらしくて」

「小説」

 本当だろうか。そういえば、確かに昔の趣味は読書だと言っていた。いや待て、遥香は読書だと言っていただろうか。

「そう。しかもね、その中身が酷いらしくて。すごく気持ち悪い話なんだってさ。それで、みんな幻滅しちゃったみたいだね」

 遥香の書いた小説の内容が悪かったから、嫌われてしまった?そんなことで?本当にあの遥香が、嫌われてしまったのか?

「そんなことでって、大槻くんは、変だと思わないの?」

 つい、思考が言葉になってしまったらしい。こんなことは初めてだ。そして、我ながら最悪なタイミングだ。

 変だなんて、思うものか。小説だろうが詩だろうが、個人の勝手じゃないか。それを周囲が異端扱いすることの方が、よほど可笑しい。

 声を大にしてそう言ってやりたい。しかしそれは、大多数への反逆に他ならない。日頃の僕なら決してやらないことである。けれど一方で、大多数に流れることは、遥香への裏切りに等しい。

 僕は、なんと応えれば良かったのだろう。

「そうだね、僕は、別に良いんじゃないかと思うけれど」

 何にせよ、結果として僕はそう応えた。くだらない大多数に流されて遥香を否定することなど、ここに遥香がいないからといってできることではなかった。ほとんど条件反射なのだろう。

 なにせ、人はいつもそうなのだと思う。結局のところ、放り込まれたところで、あらかじめ定められた動きしかできないようになっているのだ。僕という人間を、ここへ放り込んだら、こうなってしまうのである。

「ふーん、そっか、うん、そうだろうね」

 小春は少しだけ温度の低い声をつかって相槌をうった。僕はドキリとするが、それでも、怖くはなかった。ここで、自然な反応を拒んでしまうことの方が、よほど怖かった。

「まあ、たしかに。正直ね、私も、そんなに気にしてないよ」

 小春はようやく表情を和らげてくれた。それですこし救われた気分になるのは、せめて罪でなければいいけれど。


 僕は急いでいた。遥香に会わなければ。早く真相を確かめなくてはならない。その一心で、人の目も気にせず階段を駆け上がった。

「遥香さん?」

 そこに、遥香はいなかった。僕はいっとき、呼吸ができなくなる。僕らが屋上で出会ってから、遥香がここへ来なかったことなどない。この三日間も、ここへは必ず来ていた。しかし薄暗く埃っぽい階段をどれだけ探そうとも、遥香はいなかった。

 僕は力なくいつもの場所に座り込んだ。ビニール袋が音をたてる。それすらも今は神経質に感じられた。僕はすこし苛立って菓子パンを乱暴に取り出した。

 遥香は嫌われたと言っていた。やはり小春の言っていたことが原因であるのだろうか。しかし、これほどまでに突然、素早く、悪い噂というものは広まってしまうものだろうか。

 そう思ってみて、けれど僕はそれを否定できなかった。どうにも、ありうる話に思われたのだ。人は、一寸 ちょっとした事で、良い方にも悪い方にも転んでしまう。そんなふうに考えていたのは、紛れもなく僕ではなかったか。

 遥香だから、そんなことはありえないと思っていた。僕ならばまだしも、あの遥香に限ってはありえない事だと考えていた。

「なんで、こんなことに」

 独り呟く。遥香が心配だ。ここへきて、崩れそうな、壊れた彼女の横顔が思い出される。それは、どうしようもなく鮮明だった。僕が、あれほど美しいと思ったものだから。

 心臓がへんなふうに動いている。遥香が、妙な気を起こさなければいいのだけれど。とにかく、僕は遥香を探してみることにした。一度教室に戻ったが、そこにはいなかった。それから校内をさまよい歩き、遥香の姿を探した。ところが、彼女の姿はどこにもなかった。

 ちょうど、僕が諦めて教室へ戻ろうとした時である。廊下で、不意に背後から声をかけられた。そこにいたのは、クラスメイトの一人であった。たしか、遥香と一緒にいた子だ。名前は、そう、小川詩織。肩の上くらいで切りそろえられた髪に、やや吊りあがった眼。いつも笑っていることが多いものの、その眼光の鋭さに、僕は正直に言って、善い印象をもっていなかった。

 今も、詩織は僕を真直ぐに見据えていた。思わず怯んでしまう。

「ねえ、もしかして、遥香を探してるの?」

 心臓を鷲掴みにされた気分だった。その通りである。しかし、ここで素直に認めてしまうことは危険を伴うかもしれないと、本能が言葉にブレーキをかける。今度は上手くいった。

「ああ、すこし用があってね。もしかして、早退かな?」

 詩織は首を傾けて、僕に冷たい目を向けた。この子からは、温度が感じられない。ちっとも安心できない。僕はいつにも増して警戒心を胸に満たし、彼女の言葉を待った。

「そう、早退。体調悪いみたいでさ」

「へえ、そっか。じゃあ、今日は諦めるよ」

 僕は努めて冷静であろうとした。ほんとうは、すぐにこの場から逃げ出したい。本来こんな場面は、僕の人生上に在ってはならないことなのである。

「ありがとう」

 僕は素直に、いや、そう聞こえるように礼を述べた。詩織はほんの少しの間、答えずに僕を眺めていた。

「どういたしまして。でもね、大槻くん。遥香は、君が思っているよりもヤバい子なんだよ。気をつけてね」

 彼女はそう言い残すと、ふらりと踵を返して歩いていった。僕はひとまずその場を離れ、胸を撫で下ろした。そして、詩織の言葉を咀嚼し始める。

 ヤバい子。その意味は、きっと小春の言っていたことと同じなのだろう。遥香は、風変わりな小説を書いていた。それは、同年代の子供たちに受け入れられるものではなかった。だから遥香は今、こんな扱いを受けている。

 教室へ戻っても、やはり遥香はいなかった。もちろん、次の授業が始まっても、彼女は戻ってこなかった。どうやら詩織の言葉は嘘ではないらしい。

 放課後まで、僕は授業もそっちのけで遥香のことを考えていた。遥香の気持と、彼女が受けた手酷い裏切りについて。それは、とても陰惨な思考であった。僕だって、考えたくはないことである。けれども、仕方が無いのだ。遥香のことなら、僕は黙っていられない。意気地無しであったとしても、遥香が苦しんでいるならば、助けてあげたいと思うのだ。


 ようやく放課後になって、僕は駅へと急いだ。遥香の家に寄ろうと思った。このまま帰ってしまうことなど、できなかったのである。

 いつもより早く電車を降りて、しばらく歩いた。傘を揺らしながら雨を弾いていると、遥香についてのあれこれが思い出されてきて、僕は堪らない気持になった。遥香はいつだって怖がっていた。何かを恐れていた。その何かを忘れたくて、あるいはささやかな反抗として、遥香は壊れていた。それくらいは、もう判っていることだ。

 だから、これは一大事なのだ。

 遥香の家には、スムーズにたどり着くことができた。問題はここからだ。僕は恐る恐る、呼び鈴を鳴らした。

 家の中で、明らかな人の気配があった。僕はじっと待っていた。気配は近づいてきているように思われた。

 二十秒ほど経っただろうか。ドアがゆっくりとひらいた。その先にいたのは、果たして遥香であった。まだ、学校の制服を着ていた。しゃんと真直ぐに立っていて、ちっとも具合が悪いようには見えないが、表情ばかりが虚ろだった。瞳は、まるで病人か、廃人のそれだった。

「晃くん」

 遥香はちいさく、低い声で僕を呼んだ。僕は表情を偽らないことに決めて、ゆっくりと遥香に話しかける。

「学校で、いろいろあったみたいだね。とても、放っておけない。話を聞かせて欲しい」

 僕は不器用だから、こんな時に恰好の良い、気の利いた台詞なんて言えない。僕にできるのは、愚直に、直截な言葉を紡ぐことだけだ。ただ、真直ぐに伝われと祈りを込めて。

 遥香は困っているように見えた。複数の感情のあいだで揺れ動いているような感じである。僕は黙って遥香の返答を待った。雨がすこし弱まったように思われた。軒先で、ひっきりなしに雫が垂れるのをうしろに聞く。

 遥香はようやく口を開いた。ひどく遠慮がちに。

「…あがって」

 僕は静かに頷くと、遥香の後に続いた。遥香は一言も話さなかった。やがて部屋に入って腰を落ち着けると、遥香は観念したように笑った。それはまるで嘲笑だった。

「晃くん、私の噂、聞いたでしょう?あれはね、本当だよ。でも、きっと、みんなは、いまも私が小説を書いてるみたいな言い方をしてたでしょうけど、それは違う。私は、とっくにやめてる」

 けれど、遥香の声はぜんぜん感情的でなかった。やはり、遥香は確信していたのだろう、何時かこうなってしまうことを。その嘲りには、自分と世界に対する諦観が大いに含まれているようだった。そうと判るくらいに、遥香の笑顔は痛ましかった。

「あれ。前に、晃くんには話したよね。いつもは片付けてるんだけど、あの時は油断してて、置きっぱなしになってた」

 遥香は、部屋の片隅にあるダンボールを指した。だからあの時、露骨に戸惑っていたのだ。

「でもね、大丈夫。こうなることは、何となく判ってたから」

 遥香はうつむいた。水を含んだ空気は、どうしようもなく重い。閉ざされた部屋に、僕と遥香の二人きり。遥香は、僕を部屋に招き入れてくれたのだ。たんなる信頼からか、自暴自棄の絶望からか。そんなことは判らない。けれども、ここで遥香に声を届けられるのは、僕しかいない。

「ねえ、遥香さん」

「なあに?」

 遥香は応えながらゆっくりとこちらに目をくれた。

「『普通』であることは、そんなに大切だろうか?」

「えっ」

 気障きざでも、つまらなくても構わない。ただ、遥香に、真直ぐな言葉を届けてみようと思った。それは僕のエゴであり、遥香への愛情であり、僕というシステムがこの状況で為せる全てのことだった。

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