転落
教室は変わらない。あちらこちらから聞こえてくる雑談、人の動き回る気配。窓は灰色の空を映している。
欠伸を噛み殺し、教室へ入っていく僕に、はじめて声を掛けたのは小春だった。僕は鞄を机に置きながら、真横の彼女に笑みを送る。
「おはよ」
「ねえ、最近、沢谷さんと仲がいいって、ほんと?」
唐突な質問に驚いた。確かに最近は校外、校内を問わず遥香と居ることが多いので、誰かに見られていてもおかしくはない。しかし、まさか小春に気づかれるとは思わなかった。
「え、あ、そう、だね」
僕は躊躇った。僕のためではなく、遥香の為にである。僕のような男子と連れ立っているなどということがクラスに広まってしまうと、遥香の立場に何らかの悪影響が生じる可能性がある。それを第一に憂いた。しかし、小春がこれほどはっきりと尋ねてくることをふまえると、その噂はかなり確かで、信憑性を伴うものになりつつあるのだろう。いまさら隠せることでもないと考えた僕は、諦めてそれとなく受け流すことにした。
「へえ、なんか意外」
「偶然だったんだ。話してみたら気が合った、みたいな」
小春は黙って頷いた。僕はこれ以上の追求が無いことを祈ったが、そういうわけにもいかないらしかった。
「もしかして、好きだったり?」
「えっ?」
「沢谷さんのこと。好きなの?」
最近、そんなことばかり考えていたせいで、上手く誤魔化すのに時間がかかってしまう。適当な言い訳を思いつけない。口ごもった僕を見て、小春は見たことのない意地悪な笑みをうかべた。
「そうなんだ」
「いや、突然そんなこと言われたら、うまく答えられないよ。今のところは、そういうのは、ないから」
なんとか濁してみようと思ったのだが、明らかに不自然な言葉になった。僕は数秒のあいだ、怖くて小春の顔を見られなかった。今度は自身を案じたのである。僕は、この場において波風をたててはいけない。何らの特徴もない生徒として、静かに過ごしていなければならないのだ。背中に冷たいものが走った。
「ふぅん。まあいいや」
小春は興味を失ったかのように前へ向き直り、何かの課題の続きを再開した。僕はゆっくりと席に着くと可能な限り小春を視界に映さぬよう、真直ぐに前へ体を向けた。その様が、反対に小春を刺激してしまわないかどうか、不安で仕方がなかったけれど。
大丈夫、小春は、簡単に人を傷つけるような子ではない。
いや、どうしてそう言いきれる。僕に、小春の何が解る?
何時まで経ってもこうなのだ。僕は、どれだけ人に近づこうとも、警戒を解くことができない。今のところでの例外は、遥香だけだ。その他の人々は、僕にとってただ恐ろしいものなのだった。
好かれも嫌われもしない。こうやって生きてきたと言うよりは、こんなふうにしか生きられなかったのである。
何も無ければいいけれど。そんなことを心中で小さく呟きながら、僕は一限目の準備をした。
時間の進み方は、なぜだかいつもより速く感じられた。きっと、僕は遥香に話したがっていた。このままでいいだろうか、お門違いであるとしても、彼女にこの不安をぶつけたがっていた。
昼休みになると、僕は急いで教室を抜け出し、売店へ向かった。そして用が済むとすぐに、今度は普段よりも慎重に周囲を警戒しながら、屋上への階段をのぼった。遥香はもうそこにいて、僕を認めるとすぐに食事の手を止めた。
「今日はずいぶんと深刻な顔をしてるね」
遥香はだしぬけにそんなことを言った。
「判る?」
「なんとなくね。普段からそんな観察ばっかりしてるから」
聞きなれた静かな声で言う。僕はそれを聞いてすこし落ち着いた。僕らの勉強会から一週間が経っていた。あれ以来遥香は、もっと素直な感情を見せてくれるようになった。それが信頼の顕れなのか、僕には判別がつかないけれど、なんでもいいと思った。遥香が僕を特別だと思っていてくれたら、何でもいいのである。
「今朝ね、藤野さんに、遥香さんと仲良いのかって訊かれてさ」
遥香は明らかに顔を顰めた。やはり、小春と遥香のあいだには、何かがあるらしい。
「ふうん。それで、何か言ってた?」
「まあ、それほど追求はされなかったけど、好きなのかって訊かれてさ」
遥香は再び箸を動かし始めた。僕はパンに噛みつきながら、すこしの間、それを眺めていた。やがて、白米を飲み下した遥香が低く呟く。
「それで、なんて答えたの?」
「うまく誤魔化せたら良かったんだけど、突然だったから失敗しちゃってさ。ちょっと、変な感じになって」
遥香は僕が答えているあいだ、虚空をじっと見つめていた。その瞳は、あの時のものと同じだった。虚ろで、何を考えているのか、ちっとも判らない。僕は、もうこんな表情を見て喜べない。だって、こんな表情は、きっと遥香の怯えの顕れなのだから。僕は、もはや遥香を人間として大切にしている。
やがて、遥香はひとり笑い始めた。小さく乾いた笑い声が、薄暗い階段に反響する。僕は気が気でない。
「どうしたの?」
「ああ、ごめん。…いいよ、私のことは気にしなくて。別に、あなたとなら、そういう噂されても構わないから」
それが本心からの言葉であったなら、僕はここで心底からの喜びに悶えているのかもしれない。しかし遥香の言葉には、なんの感情、いや、意識も込められていなかった。
「それは、どういう意味?」
「そのままだよ。それとも、晃くんは、いや?」
「そんなことはないけれど」
僕は素直に否定した。遠回しの告白にも成りかねない言葉だが、今は問題ないだろう。遥香も、本当のことを話していないのだろうから。
「ならいいでしょ。むしろ、あの子に言ってあげなよ。私たちは付き合ってるってさ」
これ以上は我慢できそうになかった。以前の僕なら、適当に受け流しているところだろう。けれど、僕は、もう。
「遥香さん。何があったのか知らないけれど、そんなに自分を傷つけないでよ。僕はそんなの見たくない」
遥香がこちらを向いた。まるで表情が無かった。眼が合っているはずなのに、決して視線が交わらない。
「なんで?」
「友達だから。遥香さんは、僕に近づこうとしてくれたから」
僕らはそのまま、黙って見つめあった。その時間は決して、ありきたりな男女の甘い時間ではなかった。僕は遥香に、すこしでも安心してほしかった。そんなふうに
「…あなたは、本当にやさしい人。不器用なだけで、或る意味で誰よりも人のことをきちんと考えてる」
やがて、遥香が声色を変えずに呟いた。そうだろうか。いや、どちらだって構わない。
遥香は微笑んでいた。
僕も笑った。それでいい。僕は二人の関係なんて知らないし、難しいことはよく解らないけれど、それでいい。
放課後になって、僕は図らずも、見たくないものを見てしまった。遥香が、廊下を一人で歩いている。それ自体は構わない。問題は、日頃、遥香の連れている女の子たちが少し前を歩いているのに、遥香が決してそれに加わろうとしないことだった。僕は距離をとって、遥香の後ろをそっと歩いていった。そして校門を抜けたところで、後ろから声をかける。
「遥香さん。どうしたの?友だちと離れてたけど」
偶然なのかもしれない。けれど、あの間隔には違和感があった。確か、昨日まではいつも通りに話していたはずなのだ。なぜ、話しかけないのか。
振り返った遥香は、やはり暗い瞳で僕の顔をのぞき込んだ。どうやら、僕の勘は正しかったらしい。遥香がここまで暗い雰囲気を漂わせることは、僕といる時でさえあまりない。
「あ、あはは。なんか嫌われちゃったみたいでね」
遥香は、本当に文字を読み上げるように笑った。瞳はちっとも笑っていなかった。遥香は僕に背を向け、再び歩きだす。僕は黙って遥香の隣に並ぶと、そのまま歩いた。
あえて何も言わなかった。もし、自分がその立場だったらと想像する。大抵、僕は慎重に人の気持を考える時、このやり方に固執する。それは僕が僕以外の人間についてあまりに無知だからである。またあるいは、どこかで、人間の気持など似通ったものだと思い込んでいるからである。
とにかく、僕はそうして遥香の気持を想像してみて、閉口した。僕が何を言っても、なんの効力も持たないだろうと思われたからだ。
それは恐ろしいことだった。僕のような人間にとっては、特に。
僕の場合、裏切られたことを、大して苦痛に思わない。人に期待するだけの勇気も気力もないからだ。ただ、なんだか、日頃からそんなふうに考えていることを看破されたようで、そちらの方が辛い。そして今後、生じるかもしれない実害のことを心配する。
遥香もそうなのだろうか。それとも彼女は、もうすこし感情的な考え方をしているだろうか。
僕らは何も話さないまま駅にたどり着いた。電車を待っている時間も、無言のままに終わった。そして乗り込んだ電車にて、隣合わせで座った時、遥香はようやく口を開いた。僕らの影が、床に伸びていた。車窓の景色が加速し始める。誰かがページを繰る音が微かに聞こえた。
「あのね、私は、ずっと、こうなるのを恐れていたんだ。いつか、こうなってしまうんじゃないかってね」
「これが、遥香さんが、屋上にいた理由なんだね」
遥香は黙って頷いた。またしばらくの沈黙が流れる。僕は、言葉を急ごうとしなかった。
「でもね、あなたに会った時から、こうなるのは、避けられないことだったのかもしれない」
「どういうこと?僕が、なにかした?」
遥香は力なく首をふった。
「んーん。あなたは、なにも悪くないよ。ただ、巻き込まれただけ」
遥香はそれきり、口を噤んでしまった。僕も追求はしなかった。しかし、気になっていた。巻き込まれた?どういうことだ。遥香と小春のあいだに、何があるというのか。
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