それでも
「美味しかった」
僕は素直な感想をもらした。向かいの遥香は満足げに頬を緩ませる。
お世辞ではなかった。実際、遥香の料理の腕は大したもので、僕はそのどれもを気に入っていた。決して凝ったものではないのだが、一つ一つの味がきちんきちんと整っていて、やさしかった。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまです。気に入ってもらえたみたいで良かったよ」
さらに丁寧なことに、遥香は食後のコーヒーまで用意していた。ここまでもてなされるとは思っていなかったので、さすがに気が引けた。しかし遥香は僕の遠慮などまったく気にしていない様子である。
「本当に、おいしかったよ。それに、コーヒーまで貰っちゃって」
「いいよ。やっぱり誰かと食べた方がおいしいから」
僕はコーヒーの残りを飲み干すと、立ち上がった。
「洗い物くらいはできると思うから、手伝うよ」
遥香も同じようにして僕に続いた。
「じゃ、お願いしようかな」
食器洗いが済んだあと、僕らは遥香の部屋に戻った。勧められるままに座布団に腰を下ろすと、言い訳のように勉強の準備をしてみる。そうしないと落ち着かないのである。遥香もそれを見て、素直に僕と同じようにした。二人はローテーブルに向かい合う。
「さて、とりあえずは真面目に勉強してみる?」
「そうだね」
僕は苦手な数学から手をつけることにした。遥香も同じ発想に至ったのか、英語のテキストを取り出した。それから十分ほどの間は、ただ静かな時間が流れる。なにか話した方がいいと思ったのだが、一度黙り込んでしまうと、どうやって切り出せば良いのか判らなくなってしまった。
何問か簡単な問題を解いてみて、少しは集中でき始めた。この勢いに任せて、応用問題にも挑戦してみたのだが、これがさっぱり解らない。解答は持っているが、それを見るのもなんだか悔しくて、僕はしばらく悩んだ。しかし、とうとう解けそうにもなかったので、諦めることにする。
そのとき、向かいの遥香が僕の右手をつついた。顔をあげると、明らかにうんざりした遥香の顔がそこにあった。どうやら状況は僕と同じらしい。僕は遥香の手元を覗き込んでみた。すると、意外なことに、それは僕でも解りそうな問題であった。どうやら、文系科目が苦手だと言っていたのは本当であったようだ。
「解る?」
「たぶん」
僕はできる限りの説明を与えてみた。テキストを見ながら確認してみると、それなりに正しいことを言えたらしい。遥香が小さな拍手を送ってくれた。
「ほら、やっぱりすごいじゃん。よく覚えられるね」
「なんとなくね。ところで、僕にも数学を教えて欲しいんだけど」
遥香は僕の手元を覗き込んだ。そして自分のノートに数式を書き写すと、たちどころに解いてしまった。僕はひたすらに驚くばかりであった。確かに僕は数学ができないが、この問題は応用問題だ、とテキストにも書かれてあるのだ。
「こんな感じかなあ。え、何その顔?」
「…頭の中どうなってるのかなって」
遥香はやさしく笑んで、「失礼だな」と応じた。しかしそのくらい、僕には驚異的なことに思われたのである。どうやら、遥香は数学が相当得意らしい。
「なんとなく、だよ。ほら、数学ってルールを守ってれば解けるじゃない?」
「すでにその感覚が解らないよ」
当初、僕は、いやきっと遥香も、大して真面目に勉強する気などなかった。ただ、手持ち無沙汰になるのを恐れて、こんなポーズをとってみたのである。しかし、どうやら僕らは、互いの弱点を補うのに適しているらしかった。もっとも、僕の方はすこし頼りないけれど。それでも、勉強は予想以上に捗ってしまった。気づくと、一時間ほどが経っていた。
顔を見合わせて、笑った。
「こんなつもりじゃなかったのに」
「案外、悪くなかったね」
僕らはようやく手を止めて、何かを話そうとした。窓の外は相変わらずの曇天だ。閉じ込められた空間が、すこし落ち着けるものになったことに気づいた。
「あ、そうそう、今度さ、またどこか遊びに行こうよ。テスト終わったらさ」
遥香は自然なトーンで提案する。それは果たして。いやダメだ。解っている。言ってはいけない。
「…、ごめんね。鬱陶しいと思うだろうけれど、ひとつだけ」
首を傾げる遥香に向かって、それでも僕は余計な一言を投げかけた。それはひどいエゴだと知っていた。
「そうやって、誘ってくれるのは、僕が弱みを握っているから?」
遥香は明らかに顔を顰めた。背中に冷たいものが走る。完全なエラーであった。僕にとって、そんな直截で大胆なことを口にするのは、明らかなミスである。しかし、僕は尋ねずにはいられなかったのだ。この空気に油断してしまったのがいけなかったのかもしれない。
「どういう意味?嫌なの?」
「いや、そういうことじゃないんだ。でもほら、その…」
僕は即座に否定したが、そのあとの繕い方が全くと言っていいほど判らなかった。これ以上は、僕の素直な気持を晒さざるを得ない。
「その?」
しかし、もう逃れる術はなかった。僕は意を決し、あえて遥香の目を真直ぐに見て言う。
「正直ね、僕は、本当に、遥香さんと友達になりたいんだ。確かに、今の僕らの関係は、偶然の産物以外の何物でもない。でもね、僕はこうして遥香さんと関わってみて、遥香さんと一緒にいるのを気に入ってしまったんだよ」
「…」
遥香は視線すら動かさない、ただ、僕を見つめ返していた。仕方なく、僕は恰好の悪い独白を続ける。
「だからね、これからは、そういうのをあまり考えたくない。僕を信じられないって言うなら、それでもいい。でも、どうか僕に信じさせて欲しい。遥香さんは、本当に僕の友達なんだって」
呼吸がこころもち浅くなっているのを感じた。明らかに緊張している。こんなことはあってはならないはずなのだ。僕は臆病だ。だから、今の僕らの関係性に安心している。それに甘んじているべきなのだ。頭では、そう、解っている。しかし僕の感情は、これ以上の妥協を許さなかった。
遥香は未だに固まったままだ。やがて、本当にごく小さな声でぼそりと何かを呟き、それから、ようやく応えてくれた。
「…本気で言ってる?」
「もちろん」
「私の二面性を知って、それでも?」
「僕は、それも気に入っているから」
そう、はじまりはそれだった。僕は壊れた遥香に惚れていた。それで良かったはずが、なぜか、いまは遥香という一人の人間に、どうしようもなく惹かれている。
遥香は小さく息を飲んでから、満面の笑みを見せた。それは、決して偽物じみていなかった。これまでに僕が見た表情の中で、いちばん大袈裟で、心がこもっているような印象を受けた。
「ありがとう。あなたは、やっぱりやさしい」
遥香はそこで言葉を切った。気の所為だろうか、少しだけ頬が紅潮しているようにみえる。
「そっか、いや、ほんとに嬉しい。晃くんが、そこまで言ってくれて。でも、先に謝っておくよ。私は、もう、人を疑うのが癖になってるんだ。だから、きっとあなたのことを完全に信用するのには、まだ時間がかかると思う」
僕は黙って頷いた。
「でもね、それでも、さっきのは嬉しかったよ。…うん。そうだな、どうやって伝えれば良いんだろう。…えっと、私は、もうそれほど、晃くんを疑っていなくて、だからこうやって居るのも、あなたにある意味で気を許しているからであって…だから、私は、あなたのことをそんなに冷たく想っているわけじゃないの。それは、ほんと。信じて欲しい」
遥香はいつもみたいに、丁寧に、落ち着いた口調で言葉を紡いだ。僕はそのひとつも聞き逃すまいと、必死に耳を傾けていた。
安堵。それが先に感じられた。僕の蛮勇は、どうやら報われたらしい。そして、単純な喜び。遥香は僕のことを、そんなに冷たく想っていない。つまり、僕が、僕らの関係をあれこれと考えるのは、僕の勝手な独り善がりではない。遥香だって、きちんと歩み寄ってくれたのである。それが何よりも嬉しかった。ようやく、自己完結の世界を抜け出せるような気がした。
遥香は今更、照れたようにそっぽを向いた。僕は座布団の上で座り直し、今しばらくその感覚を噛み締め、処理していた。
「…遥香さんの気持は、なんとなく解った。ありがとう。ごめんね、急にこんなこと言っちゃって」
遥香はかぶりを振った。
「んーん、私も、ちょっと思うところあったから。言えて良かった」
「あ、えっと、遊びに行こうって話だったよね」
僕の気恥しさは一足遅れてやってきた。強引に話題を逸らすと、遥香はくすくすと笑って応じた。
「うん。じゃあ、次は、カラオケなんてどうかな?」
カラオケなんて、数えるくらいしか行ったことが無い。だから、あまり気は進まないけれど、僕に選択肢など無かった。
「カラオケ、か。いいね。そうしよう」
人に合わせて、無理に笑ってみることはいくらでもあった。衝突を恐れて、自身の意見をすり減らすことだって、あった。でも、相手と一緒に居たいから、相手に合わせようと思ったことなんて、あっただろうか。
僕は不器用だから、きっと主導権なんて握れない。だから、今しばらくは遥香に手綱を握っていて欲しい。二人の関係を守って欲しい。そのためなら、カラオケだって、勉強だって、なんだっていい。
ああ、そうだ。結局のところ、恋の定義なんて判らないし、この気持の名前だって、いまひとつ判らない。けれど、姉の言葉に従うなら。冷たくてつまらない理性をかなぐり捨てて、僕の気持のみに向き合うなら。
僕は、沢谷遥香に恋をしている。
僕らは次の予定について、さらに話し合った。テスト最終日は、早く帰れて都合が良いね。せっかくだから、ご飯も食べて行っちゃおうか。僕にとっては、どう転んでも都合が良かった。
そんな会話も一段落した頃、僕は何気なく遣った視線の先に、異質なダンボールを見つけた。ダンボールの一つ二つ、部屋にあっても不思議ではなかろうが、この部屋ではなぜか異常に目立った。それ以外の物がきちんと整えられているからだろうか。ダンボールはひどく無機質に映った。
「ねえ、あのダンボール、何か入ってるの?」
僕は率直な疑問をぶつけてみた。遥香は一瞬困ったような素振りをみせ、かるくうつむいた。僕は焦る。
「あ、いや、まずいものなら答えなくていいけど。単に、気になっただけだから」
ややあって、遥香は顔をあげて答えた。
「別に、隠すようなことでもないから、言うよ。あれはね、私の、昔の趣味なんだ。小説。好きだったんだよ」
遥香はとても自然に過去形で話した。
「いまは、好きじゃないの?」
「うん、ちょっと、いろいろあってね」
遥香は笑っていたが、その笑顔がとても悲しげにみえたので、それ以上の追求は避けることにした。遥香も、それ以上なにも語らなかった。話題は自然に変わっていき、やがて、僕らはいつもの調子で無駄話ができるようになった。
雨は、まだ降り続けていた。
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