恋の定義
また、嫌な夢を見ていた。何度見ても同じ結末へ向かう、悲劇である。僕は街を歩いている。制服を着ているし、きっと登校しているのだろう。空を仰げば例の桜並木が見える。まだ花が残っていることから、春だと思われる。
木漏れ日に身を穿たれながら、桜の花が散るのをぼんやりと眺め、また僕は歩き出す。アスファルトの上、行き交う車や人々、穏やかな春空。いつもここから始まるのだ。
雨の音に、目を覚ました。窓の外はやはり曇天で、夢はいつもと同じ場面で終わった。僕は頭の後ろへ手を遣りながら、ゆっくりと半身を起こした。部屋の中は、いつも以上に静かに感じられる。灰の空が、物の色までをも冷たく照らしているように思える。
五分ほどかけて、ようやくベッドから抜け出した。今日は土曜日だ。学校へ行く必要はなく、代わりに遥香の家へ行くことになっている。昼前に、駅へ行けばいいのだったか。そう思うと、寝ぼけ眼はすんなりと開いてくれる。
時計を確認してみたところ、八時過ぎであった。まだ、時間がある。どうしようか、と考えつつ、とりあえず窓際へ歩いていって、窓をひらいた。これも年季の入ったために、軋んだ音をたてて動く。木製の窓枠に、結露した水が染み込んでいる。外気は思ったよりも冷たく、清潔であった。正面には
五分ほど、そうしていただろうか。不意に、ドアがノックされた。
「晃?起きてる?」
姉の声だった。僕が返事をすると、ドアがひらいて姉が現れる。休日の朝は、変わらずだらしない。姉は僕のベッドの方へ歩いてきて、そのまま腰掛けた。
「どうしたの?」
「なんか目が覚めちゃってさ。やることもなくて」
姉は手を櫛にして髪を梳きながら、どこでもない虚空を見つめて言った。そう言っても、まだ眠そうにみえる。途中で髪の毛が引っ掛かったらしく、顔を顰めた。
「そっか。でも、僕も暇してるんだけど」
「えー、なんかないの?暇つぶしとかさ」
「僕に趣味がないのは知ってるでしょ?」
姉は不満げな視線を僕にぶつけると、そのまま仰向けに倒れた。僕ら姉弟は距離が近いように思う。だから退屈すると互いの部屋を行き来するし、こうやってベッドに寝転がる時もある。僕と姉には、当たり前の関係性であった。
姉はしばらく視線をさまよわせた後、突然、何かを思いついたようにこちらを見た。
「お宝本とかないの?」
「今どき田舎でも本なんて隠さないでしょ。あったとしても見せないよ」
「えー、つまらんなあ。あ、そうだ。あの女の子とは、どうなったの?」
姉は再び上体を起こし、期待に満ちた眼差しを向けてきた。僕はその視線から逃れるようにして、窓外に目を向ける。少しだけ考えてから、呼吸と一緒に応えた。
「別に、変わりないよ。ただ…」
「ただ?」
「なんでもない。これまで通りだよ」
姉は勢いよくベッドから立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。そうして僕の肩をつかんで揺さぶった。僕は姉に背を向けた。
「うそつき。絶対、なんか隠したでしょ」
僕は揺さぶられながらしばしの無言を貫いたが、別に隠すようなことでもないと思いなおし、姉の方を振り返る。思ったより姉の顔が近くにあって、すこし怯んだ。真直ぐに見据えられたのである。
「あのさ、恋、の定義って、なんだと思う?」
姉はきょとんと呆けたような表情をみせ、それからどっと笑いだした。よほど可笑しかったらしく、身をくねらせて笑っている。こんな姉は久しぶりに見たような気がする。
姉は笑ったまま、勉強机の椅子に座った。僕が小学生の頃から在るもので、未だにしっかりと使えている。合板でできていて、表面は濃い茶色の木目柄に仕上げられている。椅子はどこでも見かけるような、高さが調節できて、下にキャスターがついたものだ。
あんまり姉が笑うので、僕は少し不機嫌になって顔を背けた。それを見て取ったのか、姉は「ごめんごめん」と言って、そのまま続けた。
「あんまり、変な事言うからさ。いやあ、あんたってやっぱり、不器用なんだねえ」
「姉さんが器用なだけだよ」
「そんなことないって。…それにしても、恋の定義かあ。難しいこと言うね」
僕はようやく姉を見た。先程の楽しげな表情から一変、今度はやさしい微笑を浮かべていた。
「ねえ、晃は、その子が好きなの?」
訊かれて、戸惑う。僕には判らない。僕がいったい、遥香をどんなふうに想っているのか。
「判らないんだ。でも、なんとなく、そういうのとは違うような気がして」
「どんなふうに?」
僕はまた困ってしまって口を噤んだ。しかし姉は粘り強く返答を待った。ようやく、ひとつ思いついたことを口にしてみる。
「なんか、さ。あの子だから恋しい、って言うよりは、僕自身が、何かに縋りたがっているように思えて」
姉は静かに頷くと、しばらく黙って何かを考えているふうだった。一分ほど、何も言わなかった。ただ、雨の落ちる音ばかりが耳についた。まだ窓は開け放たれている。
「ごめんね。私も、よく解らないや」
意外な返答に、僕は姉の顔を覗いた。
「晃の言ってることも、なんとなく解るよ。その感覚は、私にも否定できないの。…だけど、まあ、そうだなあ。晃は、その子と一緒に居たいと思う?」
僕は考える。遥香と一緒に居たいか。これは、あまり迷うまでもなく答えが出た。
「そうだね。それは、そう思う」
「その子が笑ってくれたら、うれしい?」
遥香の笑顔を思い浮かべる。人当たりがよくて穏やかな遥香は、笑っていることが多い。けれどその裏に、なにかしらの哀しみが隠れていることを、僕は知っている。だから僕は、遥香の笑顔を必ずしも喜んでいるわけではない。どちらかと言うと、遥香が本物の感情を見せてくれた時に、僕は嬉しくなる。ああ、でも結局、それは遥香の笑顔が見たいという事と大して変わらないのではないか。
「…わからない。でも、たぶん、嬉しいと思う」
姉はそのままの表情で、ゆっくりと丁寧に言葉を繋いだ。
「なら、きっと、晃は恋をしてるんじゃないかな。その二つに、素直に頷けることが、恋の定義なんだと、私は思うよ」
そうなのだろうか。僕は、つまりは遥香を恋愛対象として好きなのだろうか。まったく、自分のこともよく解らなくて嫌になる。
「ま、焦らないことだよ。じっくり考えてみたらいい。相手を傷つけないようにすれば、問題ないと思うから」
姉はそう言い残し、立ち去った。また、一人部屋に残されて、僕は遥香のことを想った。椅子に座り、ぼんやりと雨を眺めながら。静かな雨だ。強くも弱くもならない。
依存。果たして、僕の恋は、それと同質であろうか。
僕は、遥香に対して、一見すると恋と呼ばれる想いをもっている。しかしこれは、今の僕らの状況が作り出す、錯覚なのではないか。僕は遥香の弱みを握っている。遥香はそれによって、僕をある意味であてにしている。それは、心地の良い関係だ。僕にとって、これほどに落ち着く関係はない。臆病者は、これくらい状況が整ってはじめて安心できるのである。そんなことは、とうに解っていた。
しかし同時に、そんなことを認めたくないと思う僕もいた。そんな生臭いことではない。『遥香』だからこそ、僕はこうしていたいのだ。それはつまり、僕が遥香に対して、打算を抜きにした特別な感情を向けているということになる。
両方。そう言ってしまったら、それでおしまいだろう。重要なのは、その比である。僕は、打算ありきの生臭い感情ばかりに依って、遥香に歩み寄りたくないのだ。それは、臆病者なりの矜恃でもあった。
そうして、ずっと考えてみたのだが、やはり結論は定まらない。空は灰色であった。
約束の場所に着くと、遥香はすでにそこに居た。僕は彼女を見つけると、片手を軽く掲げながら、歩み寄った。遥香も同じ所作を返す。
「おはよ」
「おはよう。じゃあ、さっそく行こうか」
遥香が歩き出す。僕は彼女のとなりに並ぶと、その横顔を盗み見た。真直ぐ前へ投げられた視線、しかしその瞳は、どこか虚ろだ。僕は密かな喜びを感じた。
今日は白いワンピースを着ている。二人分の足音が、湿気を含んで道路に跳ねる。辺りは意外なくらい静かであった。そこらに道路も通っているというのに、僕らの周囲だけ取り残されたように、いや、もちろん錯覚だ。そうであればいいという願望でもあるのかもしれない。
「晃くん」
不意にこちらをみた遥香と目が合ってしまい、焦る。彼女はふっと微笑んで続けた。
「なんか、緊張してる?いつもとちょっと違う感じだけど」
実際、今朝あれこれと考えたせいで、僕はすこし緊張していた。変なふうに、遥香を意識していた。それゆえ答えに窮してしまう。
「まあ、そうだね。女の子の部屋なんて入ったことないからさ」
そんなでたらめを、二秒ほどの間にひねり出した。僕にしては上出来だと思う。
「え、そうなの?…ふふ、そんなふうに意識されると、ちょっと照れるな」
遥香にこう言わせてしまったのは明らかに僕であるが、これはかなり効いた。僕はとても顔を見ていられなくなって、前を向く。遥香はその様子を見て、くすくすと笑った。
「あなたのそういう素直なところ、けっこう好きだよ」
「そりゃ、どうも」
そう言ってやるのが精一杯だった。雨の中、二つの傘は辛うじて触れ合わぬ距離を保って揺れていた。
十分ほど歩いて、遥香は足を止めた。そこには比較的新しい、二階建ての家屋があった。外観もモダンで、僕の家とは正反対な雰囲気を醸している。
「ここが、私んちだよ」
遥香に続いてドアをくぐり中に入った。玄関は思いのほか広かった。真直ぐに伸びた廊下の突き当りに階段がみえる。左右にもいくらか部屋があるらしく、ドアが並んでいる。僕は靴を揃えて脱ぎ、遥香に続いて上がった。
「こっちだよ」
遥香は階段を上っていく。すぐ左手にドアが一つ。そこの角を右へ折れると、さらにドアが二つ。どうやら、三部屋あるらしい。遥香は一番奥のドアへ向かった。
「ここが、私の部屋。さ、入って」
中は、すっきりと片付けられていた。正面に一メートル四方ほどの窓が設けられており、そのすぐ下に勉強机がある。右の壁と机のあいだを埋めるようにして本棚が置かれているが、これには色々な小物も納められていて、単なる本棚ではないらしかった。反対の壁際にベッドが置かれてある。部屋の中央にローテーブルがあり、座布団が三つ用意されている。これは来客用だろう。
「きれいだね。ちゃんと片付けられてる」
「そう?そんなに几帳面でもないんだけど」
壁紙は少しだけ年季を感じさせたが、それでも綺麗な白色であった。部屋のどこからとなく、甘い匂いがする。洗剤の類いだろう。
「さて、じゃあまずはお昼にしよう。荷物置いて、下に来て」
僕は言われた通りに荷物を置き、遥香について来た道をもどった。玄関から一番近いドアを開くと、そこはダイニングになっていた。カウンターキッチンが備えられていて、立派なものである。机に椅子が三脚。遥香は三人家族なんだろうか。そういえば、彼女の家族構成をまったく知らない。
「さ、そこ座ってて。準備はしてあるから、すぐできるからね」
僕は三脚のうちのひとつに腰掛け、遥香がカウンターの向こうで立ち働くのを見ていた。髪の毛を頭の後ろで一つにまとめている。最近の小春の髪型と同じであった。キッチンにも小さな窓が一つあって、そこから薄暗い陽光が射していた。
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