彼女のこと

曇り空

 雨の季節がやってきた。ここ一週間ほどは曇天がつづき、空気が湿っぽくてかなわない。何処へ行くにも傘が手放せず、僕はいっそう学校へ行くのを億劫に感じた。

 遥香と週末に出かけてから、二週間が経った。あれ以来、遥香は二人きりの時、僕を名前で呼ぶようになった。僕もまた、遥香に倣った。この距離感を心地よく思っていた。

 あの日から、僕らの関係はほとんど変化しない。近づきもせず、離れもせず。結局のところ、僕は自身が遥香に向けている想いをちっとも解らぬまま、今日に至る。それでいいと、思いたいのだが、そういうわけにもいかないらしかった。


 学校へ行くと、朝から体育館に集められた。緊急集会、とのことである。だらだらと他の生徒につづいて歩き、列になって座った。壇上にはいくらかの教員が立っていて、順番に話し始めた。大抵はつまらないものだった。生活の上での注意とか、何かの部活の宣伝とか、そんなものばかりであった。

 一つだけ異色であったのは、交通事故の話だ。今朝、学校近くの交差点で、自転車に乗った生徒が撥ねられたらしい。病院へ搬送されて、容態はまだ判らないとのことだ。校長が話していた。これは久しい大事故だと、大仰な口調でまくしたてた。ついこの前も事故があったように思うけれど、気の所為だったかもしれない。

 皆も気をつけるように。そんな通りいっぺんの言葉を残して、校長が壇上を去った。次に養護教諭の女性が登壇し、なんとなく聞き覚えのあるような、ないような、そんな声で話し始めた。なるほど、あの人が屋上を解放したのか。たしかに優しそうだ。多少のワガママは聞いてくれそうな気がする。

 ここまでに要した時間は全部で二十分というところであったが、すでにうつらうつらと居眠りをしている生徒が見受けられる。そんな光景に、僕のほうも欠伸が漏れた。

 教室へ戻ると、僕は教科書やらノートやらを引っ張り出し、次の授業の準備をした。そこへ、隣の小春が話しかけてくる。そう言えば、髪がずいぶん伸びたように思う。いまはそれを頭の後ろでひとつにまとめている。

「もうすぐ、テストだね」

 中間試験が近いのであった。

「そうだね。面倒だけど、ちょっとは勉強しないと」

 僕は、決して頭が良いほうではなかった。それゆえ、試験に際してはいくらかの準備が必要だ。もっとも、高い成績は必要なかった。ただ、あまりに極端な点数は避けたいのである。第一に、両親に心配されたくない。あの二人は僕の成績の善し悪しに拘泥しないだろうが、見過ごせないくらいの酷い点は避けなければならない。加えて、クラスでなるべく目立たぬようにする為にも、これは必要なことである。成績が悪くて見くびられるようなことが、万が一にもあってしまうと面倒だ。

「藤野さんは、頭いいから余裕でしょう」

 僕は声色に気をつけながら、そんな軽口をたたいてみた。小春は大袈裟に両手を顔の前で振って否定する。ひとつにまとめた髪がゆらゆら揺れた。

「そんなことないよ」

 そう言いつつも、小春の表情は朗らかであった。僕は軽口が成功したのだと知り、そのまま会話を続けた。

「謙遜しちゃって。僕にも教えて欲しいくらいだ」

「私で良ければ、いつでも」

 小春はふわりと笑って応えた。彼女の穏やかさにはいつも助けられる。こんな僕でも、少しは警戒を解いても平気なのだと思える。

 その後、小春は唐突に表情を変えて、何かを思い出したようだった。

「そうだ、先生に、ものを運ぶの手伝ってくれって言われてるんだった」

 小春は真面目で、賢い。だから、教師からも基本的にはあてにされているようである。時々こんなことを頼まれては、「めんどくさいなあ」なんて呟きながらも、笑って指示に従う。気弱であるから、というよりは、バランスをとっているのではないだろうか。警戒深い僕などは、すぐにそんな邪推にはしってしまっていけない。しかし、案外的を射ているのではなかろうか。

「なら、僕も手伝うよ」

「え、悪いから…」

「いいよいいよ、どうせ暇なんだから」

 僕は音をたてて立ち上がった。小春はなおも遠慮しているようだったが、僕が微笑んでいるのをみて、観念したらしかった。

「じゃあ、お願いします」

「よし、いこう」

 僕は小春に並んで歩き始めた。教室のドアを引いたところで、ちょうど遥香と鉢合わせた。

 遥香は一人だった。そして僕と小春をいっぺんに見て、ほんの少し困惑したような顔をみせた。

「二人とも、おはよう」

 それでも一瞬の後には平素の微笑を浮かべ、落ち着いた声色で挨拶を投げかけた。僕らが応えると遥香は教室へ入っていった。

 僕らは職員室へ向かい、プリントの束を受け取ると、それを二人で協力して運んだ。本当は一人でも簡単に運べる量であったのだが、いまさら手伝わないわけにもいかぬから、僕は積極的に振舞った。とくに何もなく教室へ戻ったところで教師が追いついてきて、そのまま授業に入った。


 時間はゆるりと流れていき、昼休みを迎えた。いつものように売店へ向かって、例の簡素な菓子パンを買った。やはり人気がないらしく、たいてい売れ残っている。これを美味しいと思うのは少数派らしい。

 最近では、僕は言われずとも昼休みに屋上へ向かうようになっていた。僕が行けば、遥香はいつでもそこで待っていた。いちど、本当に心配になって、友達といっしょにいなくていいのかと問うたことがあるが、気にするなと突っぱねられた。少し不機嫌でさえあった。

 とはいえ、最近は雨ばかりなので、屋上へ出るわけにもいかなかった。そこで、僕らは屋上への扉の手前で食事をするようになった。こうまでして、遥香が屋上にこだわり続けるわけは、考えなくても判った。ここは遥香にとって、校内で唯一落ち着ける、休憩場所なのである。そこに僕が呼ばれるということは、成りゆきであっても名誉なことであり、僕にとってはありがたいことであった。

「やあ、遥香さん」

 僕が階段を登っていくと、遥香は片手を挙げて返事をした。膝にはやはり、手作りの弁当が乗せられている。

 僕はとなりに座って、菓子パンを取り出した。それを見た遥香は呆れたような声をあげる。

「すきだねえ、それ」

「なんで人気が無いのか判らない」

 遥香は弁当箱を開けて、エビフライをつまんだ。ここはすこし薄暗いし、埃っぽいので食事には不向きであるが、もう慣れてしまった。

「あのさ」

 僕が一口目を飲み下そうとしたとき、遥香が口をひらいた。その声は少し弱々しい。

「なに?」

「藤野、さんと、仲いいの?」

 僕は今朝のことを思い出した。遥香は僕らを見て、ほんの少しだけ表情を変えた。それは些細なことだったけれど、良いことでないのは僕にも判った。

「まあ、席が隣だしね。二年の時から話し始めたんだ」

 遥香は力なく「そう」と呟いた。僕は不穏な気配を感じ取り、落ち着けなくなる。

「どうしたの?藤野さんと、なにかあるの?」

「う、ん。ちょっとね」

 これ以上は詮索するなという命令が、口調からはっきりと読み取れた。こういう場合、僕は抗わない。怖いからだ。たとえそれが、遥香であっても。

「よく解らないけど、僕らの関係はそれだけだよ。遥香さんについて話したこともほとんど無いし」

 僕は、すこしでも遥香の精神的負担を取り除きたくて、可能な限り直截な言葉を紡いだ。遥香もそれを判ってか、こちらを見て頷いた。すこしぎこちないけれど、きちんと笑ってくれた。

「ごめんね、気を遣わせちゃって」

「大丈夫。それより、僕の言葉を信じて欲しい」

 遥香はもう一度頷くと、食事に戻った。僕は喉の乾きを覚えて、紙パックを取り出す。冷たい。

 とにかく、この空気はよくないだろうと思い、なにか話題を探していた。しかし僕が思いつくより先に、遥香が切り出した。

「そういえば、そろそろテストだよね」

 それは奇しくも、小春が口にしたものと同じ話題であった。僕は気にせず、それに応じる。

「だね。勉強しなきゃ」

 そして、同じようなセリフしか返せない自分に呆れる。こういう所に、僕の『下手さ』が顕れている。

「じゃあさ、勉強会しよう。教えてよ」

「教えるって、遥香さん勉強できるでしょう?」

 僕の記憶が正しければ、遥香はけっこう頭がいい。というのは風の噂で聞いたり、何度か先生に褒められているのを見たのである。そうだ、遥香には少し、姉を思わせるところがある。器用で、大抵の事はできてしまう。

「そんなでもないよ。特にね、文系はだめなの」

「へえ。と言っても、僕よりはできるでしょう?」

「全然。この前なんて赤点ぎりぎりだったんだから」

 思わず疑ってしまうが、こんなことで嘘をついても仕方がないだろう。遥香にそんな弱点があったとは、まったく知らなかった。

「でも、僕なんてどの教科もできないよ?」

「うそつき」

「だからなんで疑うの」

 遥香は口をおさえて笑い声をあげた。僕は小さくなってきたパンを半分くらいにちぎって口に放り込んだ。

「でも、さっきのは嘘でしょう。あなた、そうやって目立たないようにしてるから」

「…誇張があったことは認めます」

「やっぱり」

 確かに、僕は頭が良くないが、だからといって悪いというほどでもないのである。勉強すれば、まあ人並みにはできる。ただ、そこに努力が必要なのだ。我ながら、なんと個性の無い人間であろうかと呆れてしまう。

「でもね、できないって言うのは本当だよ。だから、教えてあげるのは難しい」

 焦れったくなったのか、遥香は白いご飯を咀嚼しながら、行儀悪く僕の背中をばしばしと叩いた。ようやく口の中を空にすると、少し怒ったように言う。

「勉強なんて建前だよー、もう。判ってよ」

 言われずとも、何となく言いたいことは判っていたのだが、わざと食い下がってみたのだ。それくらいの冗談が通じる程度に、僕らは打ち解けていた。少しずつ、少しずつだけれど、僕らは近づいている。その関係をなんと呼ぶかはさておき。

「判ってるよ。遊ぼうってことでしょう?」

「もー、意地悪だなあ」

 遥香はそう言いながらも楽しげであった。僕はそれを見て安心する、いや、満足する。

「次は、なにするの?」

「うーん、さすがにサボりすぎると私もまずいから、少しは勉強するけどね。そうだなあ、私んちに来てよ」

「なるほど。雨にお邪魔して大丈夫なの?」

 確かにこの季節に、外を歩き回るのは避けたい。遥香の提案はもっともかもしれない。

「へーきだよ。じゃ、さっそく今週末でどう?」

「いいよ。また、お昼?」

「うん。で、よかったら、ご飯食べにおいでよ」

 さすがに、世話になりすぎているような気がした。臆病者の僕は、こういう線引きに不必要なくらい敏感だ。

「さすがに、迷惑じゃない?」

「いいよ、どうせ誰もいないからさ。一人で作って食べても、なんか味気ないし。私の料理で良ければ、だけど」

「…なら、そうさせてもらおうかな」

 遥香が大丈夫だというのなら、いいか。そんなふうに考えるのは、実に僕らしくない。彼女の前では、僕はこれまでの僕を保てなくなってしまうらしい。それには、遥香をある程度信用しているから、ということも大いに影響しているのだが、どちらかと言えば僕の願望である。雨の部屋に一人閉じこもっているくらいなら、遥香と一緒にいたい。

「よーし、じゃあ、土曜の昼に。十一時くらいに、私がいつも降りてる駅に来て。迎えに行くよ」

「わかった」

 だって、ほら、こうして週末を少し楽しみに思うことなんて、これまでに無かったのだから。

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