ほんとうは
映画館はデパートに入っている。二時からの上映で、僕らはあれこれとおしゃべりしてその時を待った。大体、二時間ほどの映画だった。内容は、悪くなかった。恋愛が主題になっているのだが、感動的なシーンに力が入れられていて、不覚にも感じいってしまった。ラストに、魔女と呼ばれ虐げられた少女が、少年と幸せな未来を築いたことが語られた。
「いい話だったね」
遥香が独り言のように呟く。僕らは、デパートのなかをふらふらとさまよっていた。この後は特に目的もないわけで、僕らはすっかり気を緩めていた。
「だね。魔女の女の子も、最後は救われてよかったよ」
悲劇は美しいが、それまでであると思う。やはり、物語はめでたしめでたしで終わってくれた方が、こちらも幸せになれる。哀しさに頼らないで面白い話が作れたなら、それは非常にすぐれた作品であると思う。
目についたベンチへ二人で腰掛けた。僕はすぐに立ち上がり、隣の自販機で飲み物を買う。遥香は僕に硬貨を渡し、ついでに買うように促した。回収した二つの冷たい缶を手に、再び座る。
僕がプルタブを引き上げると同時に、遥香が口を開いた。
「たとえば、私が悪い魔女だったとして」
「うん?」
「あなたは、私を罵る?」
僕は缶に口をつけてから考える。遥香が悪い魔女だったとして。そもそもそれが、上手く想像できない。口を離しても、やはり新しいものは生じなかった。
「沢谷さんは悪い魔女なんかじゃないでしょ?」
「うそつき」
「口癖なの?」
遥香は楽しげな声をあげる。僕は再び缶を持ち上げた。遥香も缶の封を切った。それを口元へ持っていきながら呟く。
「たとえばの話だよ」
「別に、僕は気にしないけどね。僕に対して優しければ、それで良い」
僕は思いついたことをそのまま口にした。人間なんて、そんなものでなかろうか。
「素直でよし」
遥香はスマートフォンを取り出して、なにやら操作した。それから唐突に僕のほうへ身を寄せた。咄嗟に身を引いた僕に構わず、遥香は僕の肩に腕を回してくる。抵抗のしようもなく体が密着する。遥香の髪から甘い空気が舞い上がって、さすがに心拍数が上昇する。
「はい、ちーず」
僕は遥香に促されてカメラの方をみた。それを逃さず、遥香はシャッターをきる。かちっと、ひどく人工的な音がして、僕らは写真に収められた。
「記念だよ」
遥香は言い訳をするみたいに言いながら、ゆっくりと僕から体を離した。視線は画面に落とされていて、写真を丁寧に確認しているらしい。僕の心臓は、まだ煩く暴れていた。
「びっくりした」
「ごめんね。でも、なんか残しておきたくて」
ようやく静まってきた心臓を、遥香にバレないように服の上から撫でると、僕は声色に注意して言った。
「僕はいいんだけど」
「ほい、送っておいたよ」
彼女から送られて来た写真には、困惑顔の僕と、その隣でにっこりと笑む遥香が写っていた。それは不格好で、けれどなぜか幸福な写真であった。
「これでも、私のこと、責めない?」
遥香は悪戯っ子のような表情を浮かべて問うた。僕はだまってうなずいた。遥香はその表情を変えずに、スマートフォンをしまって前を向いた。
「あなたは、思ったよりやさしい。だから、甘えてしまいたくなる。しつこいくらい」
その声は、なんの飾り気も帯びていなかった。隣にいるのはしかし、いつもの遥香なのであった。
「そうかな」
「ええ。…ね、晩ご飯、いっしょに食べていかない?もう少ししたらさ」
僕は少し急いで飲み物を流し込むと、スマートフォンを握ったまま立ち上がった。
「いいよ。でも、ちょっと家族に連絡しておきたい」
「どうぞどうぞ」
遥香はこちらを見て応え、つづいて、再び視線を落とした。僕はすこし離れてから姉に電話をかける。
「もしもし」
電話越しの姉の声は、とても眠そうだった。
「姉さん。ごめんね、寝てた?」
「ああ、いいよ。どうしたの?」
「友達と晩ご飯食べていくことになってさ。だから今日は」
僕が言い終わらぬうちに、姉は全てを察したかのように、いや恐らくは的はずれな推察をしながら、僕の言葉を遮った。
「そっかそっか。もういい、みなまで言うな。姉さん応援してるからね」
「…とりあえず、そういうわけだから」
弁解は諦めて、電話を切った。スマートフォンをポケットにねじ込みながら、ベンチに戻る。
「おまたせ。これで大丈夫だ」
「ありがとね、付き合ってくれて」
僕は缶の残りを飲み干すと、そこにあったゴミ箱へそれを放り込む。遥香も同じようにしてから、僕に缶を手渡してきた。僕は続けて、それをゴミ箱に放り込んだ。
目の前を多くの人々が行き交う。こうしていると、僕らはどんなふうに見えるのだろう。友達?恋人?それとも、弱みを握られた女の子と、それを握った男の子?
僕らの関係は、ひどく歪だ。けれども、そこにはある種の安らぎがある。不意に、気づいてしまった。僕は、遥香をあまり警戒していない。たしかに、僕は遥香を気に入っている。それは本当だ。しかしそれは、遥香を警戒しない理由には成り得ない。
僕は、そんなふうにしか生きられないはずであって、そもそも人に頓着できないはずであった。しかし今の状況はどうだ。僕は明らかに遥香との関わりを持ちたがっている。打算抜きにして、遥香に関わろうとしている。それは昨日、遥香の人間を感じてから始まったことである。
同情か、それとも優越感からくる安心に依るのか。もはや判らない。しかしいい加減に認めなければならないのは、僕が、遥香を他者と区別して扱い始めていることだ。惹かれている、僕は、人が芸術品に惹かれるように、遥香に惹かれているはずだった。しかしいまは違う。僕は、単純に遥香という、一人の人間に惹かれている。これを恋と呼ぶのかどうかは判らないが、未だ、それほど綺麗なものではないと思う。僕はもっと生臭い奥底の何かによって、遥香を欲しているように思った。
はた、と、それに思い当たる。
淋しかったのか、僕は?
そんなことは、ない、と言いたいが、一度気づいてしまったら、もう否定はできない。思えば遥香は、僕の人生に突然現れた光であった。この虚しく意味のない人生に、僕は無意識のうちに辟易していたのかもしれない。そう思えば、全ての混乱が、すとんと落ち着くのである。
「…くん」
遥香が僕にある種の安楽を感じるように。
「…つきくん」
僕も、彼女に縋りたがっているのだろうか。
「大槻くん!」
顔をあげると、すぐそこに遥香の顔があった。また、へんなふうに心臓が軋んだ。
「どうしたの?大丈夫?」
「あ、ごめん、考え事してた」
遥香は特に何も追求せずに、「そっか」とだけ呟いてもとの姿勢に戻った。
「なんか難しい顔してるから、心配しちゃった」
口角をほんのりと上げて、眉尻を下げて。静かに、一つ一つの単語を丁寧に発音するような話し方。
「ああ、ごめんね。本当に、なんでもないんだ」
僕は、そんな全てに、縋ろうとしているのではないか。
それから二時間ほどふらふらと歩いては店に入り、特になにも買わないまま次へ向かう、ということを繰り返した。唯一の例外は、ゲームセンターに立ち寄った時だった。
「おお、このぬいぐるみ可愛い。取りたいなあ」
そう言って、遥香はクレーンゲームの景品を食い入るようにして見つめた。すぐに何度か挑戦していたが、上手くいかなかったようだ。遥香はすこし悔しそうで、しかもそこには、なにやら本物らしい感情が顕れていた。いつもよりは、身構えていない。その様子は、明らかに僕を幸福にした。
「ねえ、大槻くんもやってみてよ」
「沢谷さんでもできないことが、僕にできるとも思えないけど」
「わかんないじゃん」
「まあ、やってみよう」
仕方なく、僕は硬貨を投入した。安っぽい効果音が鳴って、ゲームが始まる。あまり経験がないものだから、先の遥香の動きをなぞらえた。僕の操作は的外れだと思っていた。しかし、予想に反してクレーンはぬいぐるみをがっちりとつかみ、力強く持ち上げた。遥香が歓声をあげる。
やがて出てきたぬいぐるみを大事そうに取り出して抱えると、遥香は僕の目を真直ぐに覗き込んで言う。
「やるじゃん。ありがとう」
「どういたしまして。奇跡だね」
僕はあくまで微笑み、静かに応えたが、内心で安堵していた。いつの間にか、僕の中には遥香に嫌われたくないという意識が芽生えていたらしい。期待に添えないことを、恐れていた。
そんなこともありつつ、僕らはファストフード店に入り、それぞれに注文の品を受け取った。さすがに人が多く、ここでは落ち着けないということで、僕らはデパートを出ることにした。とはいえ、この時間に行くあては、特になかった。もっとも近い場所で、静かなところを考えてみて、僕らが同時に思い浮かべたのは、この近くの公園だった。
それは、僕らの高校のすぐ近くにある、小さな公園だ。あまり人のいる所を見たことがない。隣にはこれまた小さな神社があり、反対側はアパートになっている。北側はフェンスで囲われ、南側に入口がある。遊具はブランコと、こぢんまりとしたジャングルジムだけだ。申し訳程度の滑り台が、ジャングルジムについている。
フェンスの手前には樹が三本植わっている。名前は判らないが、花が咲くのを見たこともなく、いつ見ても代わり映えがしない。その間にぽつんと街灯が立っていて、下には木製のベンチがひとつ設置されている。
僕らは並んでベンチに座った。そこで、先ほど購入したハンバーガーに噛みつく。すこし冷めてしまっていた。味が濃くて、とてもわかりやすい料理だ。曖昧さはないけれど、これはシンプルで良い。
隣の遥香も同じようにした。何となく頭上に目を遣ると、三日月が浮かんでいた。細く、蒼白い。さすがに僕の故郷に較べると、星はよく見えない。
夜風が吹いている。すこし冷たくて、心地よい。僕はセットになっていたフライドポテトを齧った。油でふやけているみたいだった。
「あのさ」
遥香の声に、首をねじった。彼女もこちらを見ていた。
「なに?」
「今日は、ありがとう」
その言葉は、きっと嘘ではないのだろう。いや、それは僕の願望だろうか。でも、少なくとも、僕は疑いたくなかった。面と向かって応えるのは少し面映ゆいので、ふいと視線を逸らす。
「お礼を言われようなことじゃないよ。友達なんでしょ?」
遥香は笑った。つられて僕も笑った。すぐそこは、例の桜並木の歩道であるから、車通りは多く、辺りは決して静かとは言えない。それでも、僕らの声はやけにはっきりと響いた。
「大槻くん」
「ん?」
「ついでに、もうひとつ、甘えてもいいですか?」
どきりとした。反射的に身構えてしまう。
「僕にできることなら」
「名前で、呼んでもいい?」
なんだ、そんなことか。僕はほっとして、黙って頷いた。
「じゃあ、晃くん」
呼ばれてみると、すこしくすぐったい。なにせ、僕のことを未だに名前で呼ぶのは、家族くらいのものだから。しかし、悪くない響きである。
「晃くんも、私のこと名前で呼んでみて」
「じゃあ、遥香さん」
「はい。…ふふ、なんか変な感じだね」
街灯に照らされて、彼女のほほ笑む顔が闇夜に浮かぶ。僕はまた視線を逸らした。
徒に緊張していた。けれど、とても満たされていた。この感覚が、何に由来するもので、なんと呼ばれるのか、さっぱり判らない。けれど、今ばかりは、そんなことはどうでもいいと思った。
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