家族
土曜日の朝、僕の家にはようやく一家が揃う。僕と姉は休みだし、父も大抵休みだ。母も朝からどこかへ行ってしまうことはほとんどない。
目覚ましを使わずとも、自然と八時前後には目が覚めてしまう。僕はベッドの上からぼんやりと窓外を見遣り、今日の予定を思い出す。約束の時間はまだ遠い。僕は先に学校で出された課題を片付けておくことにした。
そうして一時間ほどが過ぎ、飲み物を取りに部屋を出たところで、姉と鉢合わせた。綺麗にしていればかなり整った容姿になるのだが、この姉も、休日の朝までしっかりするつもりはないらしい。大きく寝癖がつき、あちこちの緩んだ寝巻きを着ていた。
「おはよう」
僕が声をかけると、姉はあくび混じりに同じ言葉を返した。
「晃、今日は出かけるの?」
僕は頷いた。僕が出かけること自体は、それほど珍しくない。というのも、母親の放浪癖が遺伝してしまったのか、永いこと部屋に篭っていられないのだ。そのため、特に用事がなくてもふらふらと外出することが多い。そしてその頃になると大抵、母もいなくなっている。血には抗えないということだろうか。
「ほんと、大人しいくせにじっとしてないよね、あんたは」
姉は僕に背中を向けて階段を降り始める。僕と違ってこの姉は、人付き合いは良いし、何かを為すのに必要なことがあればそれを厭うことはないのだけれど、基本的に目的のない外出はしない。一日中部屋でだらだらと過ごせてしまうらしいのである。こんなところも少し羨ましい。
二人して台所に向かうと、母がいた。めずらしく朝食を作ろうとしているらしい。
「おはよ。あんたらも食べる?」
僕は頷いた。姉は返事の代わりに「手伝うよ」と言って母に並んだ。後ろから見ると似ていないこともないな、と思った。
我が家には決まり事がほとんど無い。きっとよほどの非行に走らない限りは、両親は僕を放置し続けるだろう。それを、いやだと思ったことはなかった。決して、初めから愛されていなかったとか、そういうことではない。僕らは分け隔てなく親の愛を注がれて育った。今でこそこんなふうだが、昔は食事だって母が欠かさず作ってくれていた。父も、どうやってか知らないが、今よりも早く帰る日が多かったように思う。
単に、形が変わってしまったのだ。僕らが大人に近づき、大抵の事は自分でどうにかできるようになったから、両親は離れたに過ぎない。年齢に適した自由を与えられているのだろう。僕は、そう考えるようになった。
こんな調子なので、僕の家では食事について、みんなで時刻や内容を決めることはまず無い。ぞれぞれが好きな時間に好きなものを食べるのが基本だ。だから、この光景はけっこう珍しいものである。
手伝ってあげたかったが、あいにく僕は料理というものが全くできない。不器用なので、下手に顔を突っ込んでも邪魔になるだけだろう。そう思ったので、ひとりグラスを片手に居間へ向かった。
そこでは、父が新聞を読んでいた。居間には庭を望む窓が設けられていて、立派とは言いがたいが明るくて感じの良い部屋である。父は僕に気づくとこちらを見上げ、目だけで挨拶を投げかけてくる。
「おはよう」
「おう」
父は、口数が少ない。決して厳しいわけでもなければ、威張っているわけでもない。母によると、昔からこんな人だったらしい。僕は何を話せば良いのか見当がつかず、またそれもいつも通りであるので、そのまま机を挟んで父の向かいに座った。
そこでちびちびとミルク入りのコーヒーを飲んでいると、姉がやって来た。日が射し込んできて少し眩しい。
「ご飯、できたよ。お父さんも食べるでしょ?」
「あ、うん」
なお、娘にはすこし弱い所がある。これは多分、扱いがよく判っていないことに依るのだろう。姉が声をかけると、少ししゅんとなって返事をするのが常である。
僕らは台所の机を囲んで座った。久しぶりに一家揃っての食事となる。
しかし、僕らはこれといって語ることをもたない。これは明らかに、いつも別行動をとっていることの弊害であった。もう、どうやって話せばいいのか、誰一人判らないのである。気づまりだとは思わない。それはいつも通りであるから。
黙々と食事を続け、先に席を立ったのは父だった。続いて母が立って片付けをしようとしたが、姉が制した。母は素直に従って部屋を出ていった。結局、僕ら二人だけが残った。
僕は、姉とはよく話す。それは夕食を共にすることが多いからであるし、それ以上に姉が僕に話しかけてくるからだ。部屋にいても、退屈になると僕のほうへやって来て、なんでもないような話をする。だから、姉弟の仲は拗れていなかった。むしろ良いと言えるくらいである。姉は、もしかすると僕を守ってくれようとしているのかもしれない。何となくそう思ったりした。
「姉さん」
「なに?」
「いつもありがとう」
姉は一昨日の晩と同じ顔をみせた。それからやさしく笑んだ。
「なあに、気持ち悪い。なんか企みでもあるの?」
「そんなんじゃないよ。ただ、いつも世話になってるからさ」
僕はホットサンドを頬張って、今更にすこし恥ずかしくて目を逸らした。姉はそんな僕を見て、楽しそうに笑い声をあげた。
「私だって、世話になってるよ。晃がいないと、この家に居場所が無くなっちゃうからね」
姉の言わんとしていることは、何となく判った。この家族は、たしかに形を変えただけなのだ。でもそれは、確実に終了へ向かう変形だ。関わりをもとうとしなくなった人間の集団がどうなってしまうかなんて、火を見るより明らかである。
「でも、ちょっとブラコン気味になるのが悩みだなあ」
「そんなキャラだったっけ?」
「こんなに弟想いな姉はいないと思うよ」
僕はつられて笑った。姉は思い出したように表情を変え、コーヒーを一口飲むと僕に尋ねた。
「そういえば、今日はどこ行くの?」
「えっと、電車に乗って」
「ちょっと待って。もしかして誰かと待ち合わせ?」
僕は頷いた。姉は目を輝かせて続けた。
「もしかして女の子だったり?」
「まあね。そんなんじゃないけど」
これ以上は視線が痛いのでことわっておいた。姉が何を期待しているのかなんて訊かなくても判る。
が、僕の言葉はあまり届いていないらしい。
「へえー、そうかあ。ついに、晃にも春が来たんだね。いつかやるんだって、姉さん信じてたぞ」
「だから、違うってば」
「ま、いいのよ、そんなことは。楽しんでらっしゃい」
なんだか、最近はこの人が母親に思えて仕方がない。姉はしっかりしているし、似合っていると言えば似合っているのかもしれない。もはやこちらの話を聞く気などないらしい姉に、それでも僕は家族としての好意を込めた笑みを返した。
約束の時間にきちんと間に合うように、僕は電車に乗った。出かける前には、姉に服装をあれこれダメ出しされて、準備に時間がかかってしまった。
たしかに僕は、緊密な人間関係を築いたことがあまり無い。中学校の頃は友人と呼べる人間が幾らかいたのだけれど、彼らとも疎遠になってしまった。すっかり独りになった僕を、姉は心配していたのかもしれない。そう思うと、再び姉への感謝の念が湧いてきた。
何となく予想はしていたのだけれど、途中の駅で遥香が乗り込んできた。約束の時間に向かうには、この電車が最適だと思うのが自然だろうから。遥香はしばらく辺りを見回し、こちらに気づくと小走りに近づいてきた。シンプルなパーカーに、膝丈のスカートを穿いている。肩からトートバッグを下げていた。そう言えば、これが初めて見た遥香の私服姿であった。かなりカジュアルな雰囲気であるが、それがひどく似合う。
「やあ」
僕の声に片手をあげて応えてみせる。土曜日の昼ということで、車内は空いていた。遥香は僕のとなりに腰掛けると、にこりと笑ってこちらを見た。やはり、普段の遥香であった。しかし僕は、もう落胆しなかった。
「大槻くんは、映画好き?」
「いや、あまり見ないね。集中力がもたないんだよ」
遥香はバッグからスマートフォンを取り出すと、なにやら検索し始めた。やがて僕の眼前に画面を突きつけると、楽しそうに宣言する。
「今日は、これを見ようと思うんだけど、大丈夫?」
そこにあったのは、恋愛モノのタイトルだった。現代の話なのだが、ファンタジー要素が含まれているらしく、魔女が云々と書かれてあった。
「いいじゃん、面白そう」
「うそつき」
「そんなふうに友達を疑わないでよ」
僕がおどけて答えると、遥香は一層笑みを深めた。自然、僕も笑顔になる。
「ねえ、大槻くんは、普段なにしてるの?趣味とか」
これを尋ねられると、僕はいつも困ってしまう。僕には、特定の趣味が無い。だからといって、本当に何もしないわけではない。ある時は本を読む。しかし決して熱心ではない。ある時は、散歩がてら歩いていって、家の近くで魚釣りをする。しかし決して釣り人とは名乗れない。
同じように、音楽を聴いていたり、ただぼんやりしていたりする。そんな調子なのだ。気が向いた時に気が向いたことをしている。ぜんぜん、ひとところに止まっていられないのだ。
「いろいろだよ。散歩したり、眠ったりする」
「おじいちゃんみたい」
「そうでもない。流行りの音楽を聴くこともあるし、ネットサーフィンだってする」
遥香は「ふーん」と唸ってから、なにやら考えているみたいだった。僕はバツが悪くなってしまって、もう少し情報を与えておくことにした。
「ああ、でも、別に奇人ってわけじゃないよ。なんというか、ひとつのことを続けられないんだ。縛られているみたいでさ、嫌なんだよ」
遥香はこちらを向いて、一先ずは頷いてくれた。僕はなんとか追求を逃れたくて、同じ質問をぶつけてみた。
「え、私?そうだなあ。…言われてみれば、何してるんだろ?たいてい誰かと遊んでるかなあ」
なるほど、遥香らしい回答であった。さらに続けてみる。
「ベタだけど、好きな食べ物は?」
「シチューかな」
「これは、気が合いそうだ。僕も好きだよ」
そんな会話を繰り返すうちに、電車は淡々と走り続ける。正面の車窓から窺える空は、雲ひとつない快晴であった。今日も良い天気だ。これから、雨の季節が来るだなんて思えないくらいに。
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