苦しみのかげ

「お、お、つ、き、くん」

 突然、そんなふうに名前を呼ばれて振り返った先に、遥香がいた。駅への道のりは、ここで半分といったところだ。学校から徒歩五分ほどのところに、僕らはいた。

 立ち止まった僕の傍を、自転車に乗った生徒が通り過ぎていく。すぐそこは片側二車線の車道になっていて、忙しく車が行き交っている。そもそもこの地域は都会ではないのだが、この辺りはすこし街らしい雰囲気を醸している。だから高校にも多くの生徒が在籍する。僕の故郷に較べれば確実に都会である。なにせ、中学校の教室には生徒が二十人もいなかったのだから。

「なにかな、沢谷さん」

「一緒に帰ろ?」

「いいけど、家、こっちなの?」

「うん。電車なんだよ」

 遥香はゆっくりと近づいてきて、僕に並んだ。僕は、いつもより少しゆっくりと歩き出した。

 頭上には緑の葉が広がる。今はもう咲いていないが、これらは全て桜の木である。春には、それは見事に花を咲かせる。この歩道はずっと続き、駅前の交差点でようやく途切れる。今はちょうど日陰になっていて、爽やかな風が吹き抜けている。

「沢谷さん」

「なに?」

「僕はいいんだけど、こんなに絡んで大丈夫なの?周りに、なにか言われたりしない?」

 遥香は僕の方をちらりと見て、また前を向いた。不服そうである。

「なんにも言われないよ。誰にも見られてないし」

「ならいいんだけど」

「それに、あなたといても、文句言う人はいないと思う」

 それには賛同しかねる。

「だって、カーストが違いすぎるからさ。みんな、気にするかなって」

「カーストって。あなた、もしかして自分が底辺だと思ってる?」

「それに近いところだとは思ってる」

 遥香は僕の脇腹を肘でつついた。驚いて少しふらついた先にアスファルトの裂け目があって、それに軽くつまづいた僕を見て、彼女は笑った。

「ひどいな」

「ごめんごめん。でも、あなたはそんなでもないよ。確かに、存在感はうすいけど」

「やっぱり僕の言ったとおりじゃないか」

「そんなことない。みんな、想像以上に人の事なんて気にしてないから」

 僕はまた遥香のとなりに並ぶ。

「気にしてない?」

「そう。だから、カーストみたいなものなんて、本当は無いんじゃないかな。むしろ、それくらい単純だとありがたいんだけどね」

 その言葉には、若干の暗い含みが感じられた。遥香は、きっと僕なんかよりもずっと上手く立ち回れるから、人のことだってよく解っているのだろう。すこし、羨ましく思った。それくらい自信がもてたら、一々不要な警戒を続けて、心のどこかでびくびくしながら人と接する必要も無いのだろう。

「なるほどね。やっぱり、沢谷さんには敵わないな」

「そうやって自分を卑下しないの」

 めずらしく叱るような口調で言われた。と言っても、遥香は楽しげに微笑んだままだ。

「気をつけます」

「よろしい。なんてね」

 僕は、自分を過小評価しているのだろうか。そんなことはないと思うけれど、そもそも僕は自分のこともよく解っていないので、判別できない。ただ、一番下を想定していれば、痛い目に遭うことは少ないから、というごく単純な思考に依って、僕は時折自分を悲観する。それは認める。そうやって、自分を慰めているのかもしれない。

 なんにせよ、僕は遥香の言葉に少し救われていた。それは認めねばならない。


 交差点の信号が青に変わる。二十人くらいの人が一斉に横断を始める。その向こうに見える駅は、今日も変わらぬ様相を呈していた。

 まだ、電車に乗るまでには時間があった。都会と違って、本数が少ないのだ。タイミングが悪ければ、何十分も待たなければいけない。今日の待ち時間は十分ほどだと思われた。

「よし、じゃあ何か飲んで待とう」

 そう言われ、僕は自販機へ向かった。僕はカフェオレを、彼女はミルクティーを買った。冷たいそれをちびちびと飲みながら電車が来るのを待つ。

「カフェオレ、好きなの?」

「ああ、うん。どっちつかずでいいよね」

「独特だなあ」

 あまり、はっきりとした味のものは好きでない。曖昧なくらいが僕にはちょうど良いらしかった。加えて、飲食物はシンプルな方がいい。味付けは複雑でいいから、形としてはシンプルなものが好ましい。例えばスープとか、シチューとか。飲み物なら水も良い。でも水は、あまりにも味気ないので、結局はこうしてカフェオレばかり飲んでいる。いや、カフェオレはシンプルなんだろうか。よく判らなくなってきた。

 やはり十分ほどで電車はやって来た。混雑はしていないが、座れそうにはない。仕方なく、二人して隅っこのほうに立っていた。

 しばらくの間は無言のままに過ぎたが、やがて遥香のほうが切り出した。

「あ、そうだ。連絡先交換しよ」

 遥香は上着のポケットからスマートフォンを取り出した。僕も同じようにしたけれど、一応訊いてみることにした。

「いいけど、使い道あるかな?」

「何言ってるの。私たちは友達なんだよ。連絡先知らないと、遊ぶ時に困るじゃん」

 遊ぶと言うのはつまり、校外での事を言っているのだろう。

「遊ぶって、そこまでするの?」

 僕は自身でも意外な言葉を吐いた。遥香に惹かれている反面、本気で期待していなかったのだ。遥香が納得すれば、それで済む話であると、どこかで割り切っていたのである。

 遥香は驚いたような表情をみせたけれど、やがてふっと微笑んだ。

「ほら、やっぱり似てる」

「ん?」

「なんでもないよ。まったく、ひどいなあ。大槻くんは、私と遊びたくないの?」

 遥香はわざと大袈裟に、呆れた口調を装った。そんなはずはないけれど。僕はゆるゆるとかぶりを振った。

「ならいいじゃん。こうなったのも何かの縁だよ」

 今度は、僕が吹き出してしまった。

「なあに?」

「だって、さ。沢谷さん、僕のことが信用できないから、友達になろうとしてるんでしょう?それなのに、ずいぶん前向きだ」

 ああ、そうだ。遥香の行動は、やはり可笑しい。僕を監視するのが目的のはずで、友達になるなんていうのは一種の比喩であるとさえ考えていたのに、遥香はそれを本気で実現しようとしている。

 なぜ?遥香にとって、僕は信頼ならぬ他人ではないのか。

「それは、えっと、その」

「その?」

 遥香は言い淀んだままにうつむき、しばらく黙っていた。僕が意地悪をしているみたいだが、そんなつもりは毛頭ない、などと言っても、こんなひねくれたことを言って遥香を困らせている以上、僕は意地悪なのかもしれない。

「…毒を食らわば皿までってやつだよ」

「皿まで食らっても、どうにもならないと思うんだけど」

 遥香は観念したように笑んで、僕を上目遣いに見た。その目は、昨日の遥香に近い。

「実はね、もう、だいぶ疲れてるんだ。あなたを信用できないから見張りたいっていうのも、嘘じゃないんだけどね。あなたに知られてしまって、安心してる自分もいるんだ」

「安心してる?」

「もう、独りで抱えていなくてもいいのかなって。偶然とはいえ、あなたにはあんな姿を見られたわけだし、もう、ある意味吹っ切れてもいいのかな、って、思うんだ」

 僕は思わず視線を逸らした。今の遥香は、昨日のように壊れてはいない。ただ、ひたすらに哀しげであった。

「沢谷さんは、いつも怖がっているの?違う側面が、ばれてしまうことを」

「ええ、そう。なんで、ってところは、ごめん、まだちょっと言えない。でも」

 僕は遥香の言葉をさえぎる。

「いいよ、言いたくなければ。君は、ある意味で吹っ切れたいわけだ。だから、僕と居ると或る意味で安心する」

「ええ。それであなたが、本当に誰にも言わずに、私を認めてくれることを、ちょっと期待してる」

「なるほど」

 遥香はまたうつむいた。

「ごめんね、わがままだよね」

「僕は気にしないよ。隠し事なんて、めずらしいことじゃないから、それで苦しむこともめずらしくないでしょう。それで、いいんじゃないかな」

「あなたは、隠し事、ないの?」

「…無いよ。言ったでしょう、僕は不器用だからね」

 僕は車窓に目を向けた。ほとんど定速で景色が流れていく。


 遥香はそのあと十分ほどで降りてしまった。

「じゃ、またあとで連絡するね」

「え、さっそく?」

「なに、いやなの?」

 別れ際、そんな会話をした。

 それからぼうっとしているうちに、いつもの無人駅に到着してしまった。

 遥香は、吹っ切れたいと言った。自らの二面性に、疲れているらしかった。

 人を欺いて、自分を繕うことは、罪であろうか。

 いや、きっとそんなことはどうでもいいのだ。遥香が、それを気にしてしまっているのが、一番の問題なのだろう。

 遥香は、僕に弱みを握られている。それが、かえって僕を気楽な存在にしているらしい。僕は遥香のことを放っておきたくないし、できれば解ってみたいと思っている。だから、これは好都合であった。

 僕らの奇妙な関係が、それでも遥香のやすらぎに繋がるのならば、それでいい。互いに良い、といった彼女の言葉は、正しかったことになる。


「もしもし」

 帰宅して、いつも通りに食事と入浴を済ませたところで、遥香から電話があった。電話越しの遥香の声は静かだったけれど、どこか気だるげであった。ようやく、彼女も一息つけたのかもしれない。

「あ、大槻くん。こんばんは」

「こんばんは。で、遊びのお誘いだっけ?」

「うん、そうだよ。明日、空いてるかな?」

 僕はベッドに腰掛けて、意味もなく手元にあった参考書をぱらぱらと捲りながら応える。

「うん、空いてる」

「そっか。じゃあ、いつもの駅まで来てよ。映画を見よう」

 映画なんて、わざわざ見に行くのはいつぶりだろう。もう思い出せなかった。

「わかった。何時にする?」

「昼の一時がいいな。来れる?」

「大丈夫。じゃあ、明日、一時に」

 僕は「おやすみ」を言ってから電話を切った。スマートフォンをベッドに投げ出してから、自分も横になる。天井を見るでもなく見て、明日のことを考えた。いや、遥香のことを考えた。

「二面性、罪、息苦しさ」

 昨日の僕は、圧倒的な幻想に囚われて、遥香を概念か何かのように認識していた。しかし今日話してみて、思い直した。遥香は概念などではない、肉体をもった少女だ。

 僕は、遥香の壊れたさまを美しいと思った。それは、いまでも変わらない。その壊れたところを僕に知られて、安心したと言ってくれたことも嬉しかった。でも、それは、正しいだろうか。違う、その問はズレている。この際、正しさなんてどうでもいい。遥香は、それでいいのだろうか。そして僕は、果たして遥香の二面性ばかりを美しいと思っているのだろうか。どちらともつかない。

 そもそも、たしかに僕は遥香があんなふうだったから惹かれたわけだが、その感情はどこから来ている?まさか、遥香を異性として好きなわけでもないだろう、ならば。そうして考えてみても、思考は堂々巡りを続けるばかりで、ちっとも前へ進まないのであった。諦めて、否、どうでもよくなってしまって、僕は目を閉じた。いつもはこんなふうに、ましてやこんな時間にすんなり眠れないのだが、なぜか今夜は眠れてしまうのだった。

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