嘘と罪

「おはよう」

 廊下で耳にした言葉を、自分に対してのものだと認識するまでに、すこし時間を要した。普段、廊下で女の子に挨拶されることなんてほとんどないからだ。知っている人と目が合ってしまえば、自然に挨拶が交わされるけれど、今朝は違った。


 向こうから、数人の女の子が一緒になって歩いてきた。クラスメイトであったが、正直、よく知らない人たちだった。いつも遥香と一緒にいることだけは知っているが、それだけだ。あとは名前と顔くらいのものだった。

 ちょうど髪が短くて背の高い子を中心に歩いていた。だから近づいてくるまで、その後を歩く遥香の存在に気づかなかった。すれ違おうとした時になって、彼女はひょっこりと顔を出した。

 遥香はいつも通りだった。口元に微笑を浮かべて、眼もきちんと活きていた。僕はできる限り綺麗な余所行きの笑顔を貼り付け、「おはよう」と返した。ほとんど同時に、遥香につられて他の子たちも挨拶してくれた。僕は念の為、もういちど挨拶を返した。

 異例なことだった。これまでこんなふうに、遥香が挨拶してきたことなんてない。どうやら、昨日のことが影響しているようだった。僕はすこし愉快な気分になった。

 教室に入ると、何人かの善良なクラスメイトに挨拶してから、窓際へ歩いていった。隣の子は既に着席していた。文庫本を机に開き、読み耽っている。

 僕が机に荷物を下ろすと同時に、彼女は顔をあげた。僕はいつも通りに笑って挨拶した。いつも通りの答えが返ってきた。

「なんだか今日は、嬉しそうだね」

 だしぬけにそんなことを指摘され、僕は少し面食らった。

「そう?」

「うん。なんかね」

 僕は彼女の顔をまじまじと見てしまった。この少女が、僕をそれほど観察しているとは思っていなかったのだ。こんな時、僕は相手に悪意があるかどうかをすぐにチェックするようにしている。相手に興味をもたれて嬉しいこともあるが、そればかりとは限らない。

 何を大袈裟な、と思われるかもしれない。しかし、僕のようにどこにも属さず、ふらふらと生きている為には、こんな小さなことにも躍起にならねばならないのだ。少しのことで、人はプラスにもマイナスにも転ぶのだから、まったくあてにしてはならない。人が解らない僕なりの処世術だった。

 しかし、どうやら今回は大丈夫みたいだ。驚いたように彼女を見つめる僕に対して、少女は照れたように笑った。

「そんなに見られると恥ずかしいな」

「あ、ごめん」

「どうしたの?」

「いや、よく判ったなって、感心してただけだよ」

 少女の名は、藤野小春という。小柄で眼鏡をかけていて、髪を肩の下くらいまで伸ばしている。見るからに人が善さそうな子だ。物静かで、普段はよく本を読んでいるようだった。時折、僕に話しかけてきて、なんでもないような話をしては互いにほほえんでいる。

 僕らは去年知り合った。席が近いから、ということで少しずつ話すようになり、今では多少くだけた感じで話すようになった。

 小春は善良だった。僕は、誰にも危害を加えようとしない彼女を好ましく思っていた。友人と呼ぶにはすこし物足りない関係であるが、それでも、僕は基本的に小春を信頼していた。

「ふふ、何となく判るよ。よく話してるからね」

 僕は席に着いた。

「そう言えば、もう一年くらいになる」

「そうだね」

「早いような、そうでもないような。今年で、もう卒業だもんね」

 それでも僕が小春を警戒するのは、断じて彼女のせいではない。僕は、人との線引きが下手なのだ。どうしようもないくらいに。どこまでいっても他人は他人であるように感じられて仕方がないのである。

 チャイムが鳴って、僕らは教卓へ注意を向けた。


 時間はいつも通りに進んでいく。数学の時間にいつも寝ている生徒が、呆れた教師に一喝される。英語の得意な生徒が、やけに気取った発音で教科書を読み上げる。そんな日常を窓際から眺めながら、僕は静かに座っている。

 この先に、何があるのだろう。それを考える時、僕は無性に哀しくなる。きっと、何も無いのだ。僕は、もう何も望めない、いや、悲観しすぎだろうか。けれども僕には、そんな予感が確かにあったのだ。僕だって、若者らしい青い気分に絡みつかれていたのである。

 もっとも、最近はそれも考えないようにしている。それはきっと神様だけが知ることで、僕があれこれと言っても仕方がないことなのだ、そう思うようにした。


 やがて昼休みがおとずれ、僕は席を立った。昼食はいつも、五階の食堂で摂るようにしている。僕以外にも同じ目的をもった生徒が、ばらばらと教室を抜け出していく。

 教室のドアをあけると、そこに遥香がいた。しかしそれは、まったく正常にみえる遥香であった。まるで、昨日とは別人のようだ。

「大槻くん」

 遥香は柔らかい声で、僕の名前を丁寧に発音した。そこに、いっさいの暗い含みは無かった。

「なにかな?」

「ご飯買ったら、屋上来て」

 僕はひそかに喜んでいた。もしかして、また昨日の遥香に会えるのではないか。そんな期待が胸を過ぎったのである。僕は頷くと、ひとまずは遥香と別れて売店へ向かった。そこで菓子パンと飲み物を買い、こっそりと屋上へ向かった。こちらに注目する生徒などいない。当然のことだった。

 屋上への扉は閉まっていたが、試してみると簡単に開いた。晴天。今日もここからの景色は素晴らしかった。夕暮れはとても幻想的だったが、今は単純に気分が良い。空気が下層よりも澄んでいるのだ。僕は遥香をさがした。見当たらない。

「わっ」

 遥香は僕のひらいたドアの陰から顔を覗かせた。満面に笑みを貼り付けている。まったく、平常の遥香だった。僕は少し落胆した。それでも、まだ充分に胸の高鳴りを感じていた。僕もほほえんで応える。

「びっくりした」

「うそつき」

 遥香はさらに楽しげに笑みを深めて、ドアの陰から躍り出た。僕は後ろ手にドアを閉める。それで、今更に気づいた。

「そう言えば、どうやってここを開けたの?たとえ一回侵入できても、また閉められちゃうでしょ?」

 遥香は僕に詰め寄り、真直ぐに僕の瞳を覗き込んだ。身長は、僕の方が少し高い。

「侵入だなんて、失礼な。ちゃんと公認なんだから」

 やはり、遥香は不思議だ。こうして明るいのに、声のトーンは落ち着いていて、静かでさえある。だから、嫌な印象を与えない。

「誰に認めてもらってるの?」

「保健室の先生。でも、一人ならいいよって言われてるんだ」

 僕は笑って首を傾げてみせた。

「つまり、僕は非公認ってわけだ」

「そういうこと」

 遥香は静かに頷くと、真正面にあるフェンスを指さした。街並みが一望できてなかなか良い眺めである。

「あそこにもたれて、ご飯にしよう。ベンチなんて気の利いたものは無いからね」

 僕は遥香に従い、フェンスを背に並んで座った。遥香は手づくりらしき弁当を取り出した。僕はビニール袋に手を突っ込んで菓子パンを取り出す。

「それ、手作りなの?」

「あ、うん。料理は嫌いじゃないから」

 いかにも、遥香らしいと思った。こんなふうに、色々なことに対して器用なのが、クラスでの遥香らしいのだ。けれど。

「今日は、昨日と全然違うって?」

 あっさりと考えていることを見破られてしまった。遥香は笑っていた。

「顔に出てた?」

「ええ。判りやすいね」

「下手なんだ」

 僕は菓子パンを一口齧りとり、咀嚼する。レタスとツナマヨをやわらかな食パンで挟んだだけの簡素な品であるが、これが意外といける。売店に置いてあるものの中では、かなり気に入っている一品だ。

「下手、か。それは、きっと私もなんだけどね」

「そう?かなり上手いようにみえるけれど」

 遥香は目を閉じてかぶりを振った。弁当箱から卵焼きをつまみ上げて頬張ると、そのまま黙り込んでしまった。仕方が無いので、僕はまた菓子パンにかじりついた。ごく弱い風が吹いている。眩しい陽光も相まって、生温い。

「今日は、飲まないの?」

 僕はわざと茶化してみた。いきなり距離を詰めすぎるのは良くない。僕は遥香に惹かれているが、だからといって遥香を傷つけたいわけではない。少しずつ近づいていくのがいい。それは互いにとって。

「やだな、依存症みたいに言わないでよ」

 遥香の周囲で空気が弾むのを感じた。緊張してくれなければいい。僕は遥香を気に入っている。だから、不安を感じて欲しくないのだ。いや、これは僕自身のためにやっていることなのかもしれない。誰かを不幸にしつづけるなんて、そんな怖いことはとてもできない。

「ところで、今日呼び出したのは、なにか用があったから?それとも」

「単純に、あなたとご飯が食べたかったんだよ」

「なるほどね」

「だって私たち、友達になったんでしょう?」

 僕は遥香と目を合わせて、笑った。僕らの関係は、まったく不思議だ。

「ね、私の秘密、教えてあげようか」

「それは聞いてみたいかも」

「私はね、嘘つきなんだよ。あなたの前以外では」

「知ってる」

 僕は笑ったまま空を見上げた。蒼い。

「でも、今だって嘘を吐いているんでしょう?」

「へへ、正解」

「いつか、本当の沢谷さんと話せるといいな」

 遥香は答えずにうつむくと、もう一切れの卵焼きをつまみ上げて、僕の方へ向き直った。

「じゃあ、これから頑張って仲良くなろう。ほら、お近づきのしるしに」

 そう言って、卵焼きを僕の口元へ差し出す。仕方なく、口をひらいた。頭では解っていても、やはり、遥香が繕っていることを気にしてしまっている。そう、これは僕が、ひいてはクラスのみんながよく知る遥香だ。誰に対しても分け隔てなく温厚に構え、こうして、ふっと、僕には真似できないようなやり方で人との距離を詰めてしまう。そして、いやな感触を与えない。

 僕は卵焼きを飲み込んだ。ちょうどよく塩が効いていて、やさしい味わいだった。

「おいしい?」

 遥香は小首を傾げて尋ねる。僕はほほえんで頷いた。

「うん、おいしいよ」

「よかった」

 遥香はくすくすと笑って、また前に向き直った。それから天を仰いで、呟く。楽しそうだ。

「大槻くん、意外と素直なんだ。もっとかたい人かと思ってた」

「そう思われても仕方ないね。ほら、こんな調子だからさ」

 僕は菓子パンの最後の一切れを口に放り込んだ。遥香もまた、最後の一口を含んだまま、弁当箱を片付け始めた。自然な沈黙が流れる。

「ねえ、大槻くんも、嘘をついているの?」

 遥香は、すこし声のトーンを落として言った。小さかったけれど、僕の耳にはまったく鮮明に反響した。その声は、昨日の遥香に近いところに属している。本能がそれを理解したからである。僕は思わず遥香の方を見遣った。しかしそこに居たのは、やはりいつも通りの遥香であった。

「さて、どうだろう。僕は、そんなことができるほど器用でないと思うんだけど」

「そう?大槻くんからも、私と同じような空気を感じるんだけどな」

「実は、僕自身もよく判らない。でも、きっと沢谷さんとは違うんじゃないかな。僕は、そんなふうにしか振る舞えないんだよ」

 僕はビニール袋から紙パックを取り出し、ストローを突き刺した。冷たいカフェオレを喉に流し込む。遥香はペットボトルの緑茶に口をつけた。

「そんなふうにしか振る舞えない、か」

「うん。だから、嘘つきだなんて、そんな立派なものじゃないと思う」

「立派?」

「だって、ちゃんと自分が解ってるじゃない。嘘をつけるってことは、その嘘で、どこを隠せばいいのかきちんと判ってる証拠だ。雑に誤魔化している僕なんかよりよほど賢くて、立派だと思う」

 突然、遥香が吹き出した。お腹に手を遣って、心底楽しそうに笑っている。僕はストローを咥えて遥香を眺めた。そのうちに気が済んだのか、遥香はこちらを向いた。

「ごめん。面白いこと言うから、つい」

「おもしろかった?」

「ええ」

 遥香は立ち上がると二、三歩進み、くるりと回ってこちらを見た。スカートの裾がふわりと膨らむ。長い髪の毛が一緒に揺れた。

「あなたは、嘘つきを、悪者だと思わないの?」

「そんなことを言ったらみんなが悪者になっちゃうよ」

「そうかな」

「きっとね。みんな、何かしらを隠して生きてるんだから」

 僕も立ち上がる。風が、そよと吹いた。

「私も、悪くない?」

「もう知ってると思うけど、僕は、昨日の沢谷さんのことを気に入っているんだ。君は、ただ、二つの側面のギャップが大きすぎるだけだよ。それが悪いことだなんて、ありえない」

 遥香は微笑んだ。なんだか偽物っぽい表情である。けれども嬉しそうだった。

「ありがとう」

 僕らは並んで歩いていって、屋上を後にした。扉を閉めた途端、日常の匂いが僕にまとわりついた。

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