故郷
電車の中で、僕は遥香のことばかり考えていた。
僕は、彼女の壊れたさまを美しいと思った。それはひねくれた感性からではなく、素直な僕の気持ちからであった。彼女の素晴らしいところを挙げよう。
まず、遥香は秘密の漏洩を恐れつつも、まったく慌てていなかった。あの暗い瞳は、僕に見つかった時点で全てを諦めていた。辛うじて僕に食い下がったのは、自己防衛本能のさせたところなのか。これは、僕の勝手な妄想ではない。遥香は言っている事とは裏腹に、まったく焦りをみせなかった。本気で止めようとしている人間なら、もっと必死にすがりつくか、いくらか乱暴な手段に出るだろう。
しかし遥香は違った。彼女はまったく諦めていた。あくまで形式的に、ほとんどその効果を期待することなく、僕に食い下がった。そこに、熱は感じられなかった。
徹底している。僕は、第一にそれに感動したのだ。やけになって酒を飲んでいた、とか、不良ぶってみたかったとか、そんなものではない。遥香はほとんど壊れているようだった。そして当たり前のように、屋上で酒を飲んでいた。
さらに遥香のギャップ、つまり二面性である。これには大変驚かされたが、これがまた、僕の心を強く揺さぶった。もとよりルールや常識が眼中に無い人間や、内向的でほとんど語らないような人間であったならば、僕もこれほどの感動は覚えない。あの人気者の遥香だったからこそ、僕は感動したのである。
僕は抵抗の余地なく、遥香に惹かれていた。こうして言葉を並べてみても、やはり不十分だと感じる。僕は、文字で説明できるようなことに惚れたのでは、決してない。いや、もっとも、こうして説明しようと思えばできてしまうのだけれど、それは完全ではない。僕は一瞬にして、あの屋上の幻想的な光景をもって、遥香に惹かれたのだ。その全てを言葉で表現するのは難しい。辛うじて僕がそれを成し得るとすれば、一目惚れという一語に全てを託すしかあるまい。つまり、まったく本能的で、内的なものである。
とはいえ、僕は遥香のことをよく知らない。こうなったからには、僕も一度、彼女について、すべての情報を整理してみる必要がありそうだ。
電車はいつもの景色を車窓に映し、独特なノイズを生じて進む。イヤホンをつけていても聞こえてくるので敵わない。また駅に停車して、ばらばらと人が降りる。ここまで来れば乗客も少なくなって、ずいぶん快適なのだが、あいにく僕は次の駅で降りねばならない。
それまで、やはり遥香について考えていた。
奇妙なことに、僕と遥香は高校三年間で、ずっと同じクラスにいる。入学直後に同じクラスになって、二年で一度クラス替えがあったけれど、僕らはまた同じクラスになった。それゆえ、関わりはなくとも、僕らは何となく互いを承知していた。
遥香は人気者だ。一番ではないけれど、きっと五番目くらいには人気がある。二年生の頃、偶然前の席にやってきた子が、実は遥香のことを好きなのだと言っていた。僕はそれしか知らないので、その恋の結末も、その他に遥香を慕う者がいるのかも知らない。しかしきっと、彼の恋は成就せず、遥香を好きな者は他にもいるだろう。
これらは風の噂で聞いたのだ。僕のような立ち位置にいると、必要最低限の情報は自ずと入ってくるようになる。というのは、人は自分のことでなければ、世間話のついでにぺらぺらとあれこれ話しがちであるからだ。他人事は所詮、他人事に違いないのだろう。僕は意図せずとも、いくらかの噂話を耳にすることができた。
その中に混ざっていた情報だ。遥香は結構、男の子に慕われるらしい、ということと、それでもまったく男のかげが無いということ。どちらも女の子から手に入れた情報であったと思うので、それなりに信憑性は高い。
これらが、遥香のことをさらにミステリアスで、好ましい人間にしている。ひと付合いは決して悪くないのに、それをひけらかすようなまねは避け、恋人もつくらない。これもまた、彼女なりの処世術であるのかもしれない。
それから、これは僕が何度か話したうちに気づいたことなのだが、遥香は二人称に『あなた』をつかう。実のところ、僕はこれを気に入っていた。別に遥香に限った話ではないけれど、『あなた』という二人称は、丁寧な印象を与える。僕はそう思う。自分では『君』なんて言ってしまうけれど、本当は僕も、自然に『あなた』がつかえたら良いのになんて思う。
電車が停る。僕は鞄をつかんで降りた。いつもの光景に、これほど落胆したのはいつぶりだろう。初めてかもしれない。小さな無人駅。人はほとんど見えない。ここが、僕のふるさとの町だ。身も蓋もない言い方をすれば田舎である。ここを出て、少しの間は灯りもあって、寂れているとはいえまだマシであるのだが、こちらから見て右に雑木林、左に空き地を望む路地をぬけると、もうだめだ。雑木林のどこかから虫の声がして、その先には田の並ぶ乾いたコンクリートの農道が待っている。空き地の方向にも田が展開し、これはこれで良い景色であるのだが、まったく淋しい所である。むろん灯りも乏しく、ぽつぽつと街灯があるばかりだ。いま、まさに陽の失くなってしまった時刻、空はふかい藍色に変わり、星が見え始めていた。辛うじてまだ、真暗ではない。西の空には太陽の残骸がほんのりと残っている。
そんな道を少し行けば、僕は家に帰り着く。二階建ての、古い日本建築である。母方の祖父母が建てたものだと聞いている。僕がまだ小さい頃に二人とも病死してしまい、母の提案でここに住むことになったようだ。
この辺りは自然も豊かであるので、幼少期にはずいぶん楽しませてもらった記憶がある。お気に入りは、ここから十分ほど自転車を走らせたところを流れる川だ。川幅がほんの二、三メートルしかなく、水は飲めるほど綺麗に澄んでいた。僕は夏になると一人でもそこへ行って、魚をとったり、二メートルそこらの淵へ飛び込んだりして遊んだ。今となっては全てが愛おしく感じられるから、懐古というものの力は卑怯だと思う。
門、などというとすこし大袈裟であるが、それらしいものを通りすぎ、小さな庭をぬけて玄関にたどり着く。戸の建てつけがだいぶ悪くなってきたらしく、引くたびにがらがらと鳴る。
「あ、おかえり。ご飯できてるから着替えてきな」
出迎えてくれたのは姉であった。僕の二つ歳上で、面倒見が良い。今はここから県内の大学へ通っている。家事を積極的にこなし、特に料理に関しては、頼まなくてもしょっちゅう振舞ってくれるのでありがたい。
僕は返事をして二階の部屋へ上がり、服を着替えた。隣が姉の部屋になっている。姉は、よくできた人だった。勉強も、まあできた。特別に秀でているわけではないのだが、なんでも要領よくやってしまう人だった。対して不器用で、色々なところで苦労してきた僕は、実はすこし、姉を羨んでいる。しかしそれは激しい感情ではない。ただ静かに、自分もあれくらいできたならばと思うのだ。劣等感は、それほど強くなかった。姉に較べて劣っているとしても、僕はそれを積極的に意識しようとしなかった。ここにも、僕が人について興味を持てないことが顕れているのかもしれない。
父は仕事の都合上、夜遅くに帰ってくることが多かった。母は気まぐれなひとで、退屈になるとふらふら外出する癖があった。今日もどこかへ行ったらしい。
それゆえ、こうして姉弟で夕食を摂るのが当たり前になってしまった。もちろん、これに母が加わったり、まれに父が加わることもある。しかし最近は、母の外出頻度も高くなり、父も早く帰らないので、こうして、二人で夕食というのが常である。
家族仲が悪いわけではない。母の外出も、父の不在も、ごく自然なこととして、この家にあった。僕らがもっとちいさな子供だった頃は、そうでもなかったのだが、もうかれこれ五年ほどは、こんな調子なのである。僕らもすっかり慣れっこになってしまった。必要なものはすべて与えられているし、姉もこうして世話を焼いてくれるし、僕に不便はなかった。これが、この家族の自然な形なのだろうと思う。
「美味しい?」
「ああ、うん」
「なに、その気の抜けた返事」
箸を顔の前に持ち上げて姉が笑う。この人と僕は本当に姉弟なのだろうか、と時々思う。僕と姉は能力においてもずいぶん違うが、性格においてはもっと違う。姉は、明るく溌剌とした人だ。友達も多いらしく、しょっちゅう家に連れてきていた。なかには彼氏だという人もいた。
「姉さん」
「なに?」
「僕らって、ほんと似てないよね」
姉はぽかんと口を空けてから、くすくすと笑った。
「そうでもないと思うけどね。
僕は白米を咀嚼して飲み下した。よく解らなかった。姉が立ち上がる。
「さ、私が片付けておくから、先にお風呂入りなよ」
まったく、姉には敵わない。
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