出逢い

光と影

 チャイムの音が今日の終わりを告げたのに、僕はしばらく席を離れなかった。意味なんて無い。ただ、少しだけ家に帰る時間を遅らせてみたかっただけなのだ。生徒の過半数が僕を置いて教室を出ていった。親切な隣の子は、去り際に「また明日」と言ってくれた。僕はほほえんで同じ言葉を返し、片手を軽く挙げた。

 残った者は、何やら机に向かって作業している。こうやって頬杖をついて窓の外をぼんやり眺めているのは、僕くらいのものだった。外はまだ明るく、晩春の西日が眩しく射している。校門を出た先の道路を、いくつもの車が行き交い、並んだ緑葉がさわさわと揺れる。一枚一枚の葉っぱが一々ひかりを反射して、僕の眼をくらませる。遠く見えるマンションの向こう側へ、陽は淡々と沈んでいく、いや違う、こんなふうに描写するのはきっと間違っている。僕はそれを見ているわけではない。ただ、そうなることを知っているのだ。

 自転車に乗った生徒達がバラバラと帰っていくのが、ここからは小さな昆虫の散るようにみえた。もちろん比喩だ、僕の眼には小さな人型がきちんと映っていて、学校の教室がそんな高所にあるはずはないのだから。

 けれど僕は、こんなふうに物事を描写してしまう傾向がある。それはつまり、僕の世界観に違いなくて、とてもつまらない。紋切り型、というのだろうか。僕はいろいろな事の先をみて、決まり切ったような表現しかできないのだ。

 今年で、十八。そんな若者に、ものが解るのかなどと言われてしまえば、それまでである。しかし僕の経験則は存外とあてになる物へ変化しつつあり、僕はそれを拒むこともできないのだ。今だけを見つめて生きていられたら、それはきっと素敵だ。しかし、そういうわけにはいかないだろう。僕らは若僧であっても、子供ではなかった。そう言い張れる年齢は、もうとっくに過ぎていて、でもやはり僕らは子供なのだ。どっちかに追いやってくれたら楽でいいのに。

 窓の外を眺めているのにも飽くと、僕は荷物を持って立ち上がった。その音に振り返ったおとなしい性格の男の子が、軽く手を挙げた。僕もそれに倣ってから歩き出した。教室を出ると左右へ廊下がのびていて、左へ行くと一階まで続く階段に着く。廊下はほとんど無人の状態であった。僕の足音ばかりが静かに在って、すこし気が引けた。

 僕は自身の性格ゆえ、人に好かれることも、嫌われることもなかった。いや、嘘だ、嫌われていない証拠など何処にある。そんなつまらない問答をするのは心底うんざりなので、とりあえずはイジメられないということを一つの指標とするならば、僕は嫌われていない。反対に友達だと言い張れる人間がいないことを指標にするならば、僕は好かれていない。

 そんなふうにしか生きられなかったのである。僕は生まれてこの方、人の心を読み、入り込むということに成功した例が無い。そもそも、試みたことがあったかどうかも判らない。それらしいのを挙げるなら、中学生のころ、何となく女の子に囃されたくて、そこかしこで意味のないポーズを、鬱陶しくない範囲で披露したことだろうか。でも、これは何か違うような気がする。

 とにかくそんな調子で、僕は人が苦手だ。かと言って嫌われたくはないので、突っぱねたりはしない。けれど、進んで関わろうとはしない。そうやって生きてきた結果、僕に好意的な態度をみせてくれるのは、控えめな性格の人と、たんに親切な人だけだった。それでよかった。あとの人は、とりあえず僕のことを忘れてくれていれば、それで。


 階段まで行き着いたところで、僕は妙な気を起こした。というのも僕はどうやら、まだ帰りたがっていないらしく、下へおりるのはよそうと思ったのだ。けれども、この学校において、僕の居場所は窓際の席だけであった。

 そんなことを言っていても仕方がないので、僕は上に向かった。我ながら単純な思考に嫌気がさす。だれともすれ違わなかった。放課後の校舎は、ひどく静かだ。遠くから、部活の生徒が演奏する音が聞こえるばかりである。

 四階を過ぎ、五階に着いた。この上は、たしか屋上になっていたはずである。普段は鍵が掛かっていて出られず、だからこれ以上のぼるのは全くの無駄だと思ったが、僕は退屈ついでに屋上への扉を拝みに行った。

 そこで、不思議に出会う。なぜか扉はうすく開いていて、西日が漏れこんでいた。埃っぽい階段を照らす光は、塵に反射して筋のように見えた。僕は興味本位で扉を開いた。

 ゆるゆると風が流れて、僕の頬をなでた。屋上は四方をフェンスで囲まれていた。五月の匂いはどこか湿っぽい。すべてのものが格段に明るく見えるのは、冬の次だからなのか、次が夏だからなのか。そんなどうでもいいことを考えてから、空を見上げて、息をのんだ。これは良かった。青は藍に近づき、西の空ばかりが紅い。教室よりもそのさまがよく見えた。キンっ、どこかで甲高い音がする。野球部が練習しているのだろう。

 僕はすっかり満足してしまって、そのまま踵を返そうとした。しかし、そうやって右側に目を遣った時、どうしようもなく、見てしまった。

 制服姿の少女が、そこにいた。陽を浴びて全身の色がぼやけ、橙色に染まっていた。彼女は片手に缶を持っている。ここからではよく見えない。向こうはこちらに気づいていたらしく、僕を睨みつけたまま足早に歩いてきた。

大槻 おおつきくん」

「え、ああ、うん?」

「どうしたら、このこと、黙っててくれる?」

 そこで、僕は初めて彼女の手にあるものを見た。それは酒だった。缶入りの酎ハイ。確かに、堂々と学校で飲酒しているのにはすこし面食らったが、それまでだった。むしろ、なぜ彼女が?

「…見なかったことにするよ。屋上に入った僕も同罪だしね」

「だめ、それだけじゃ足りない。もっと確信がないと、安心できない」

 こう言われて、僕はすっかり参ってしまった。どうすれば彼女、沢谷遥香 さわたにはるかに信じてもらえるのか、まったく判らなかったのである。

「そんな事言われてもなあ。どうすれば、僕のこと信じてくれるの?」

「あなたに、何かメリットがある、とかなら、信じる」

 遥香はとても抑揚のない話し方をした。それは教室で聞いたことのないものだった。

 沢谷遥香は、クラスの人気者である、などと言うと大袈裟だが、彼女はそれに近い所に在る。スクールカーストなどというものでたとえるなら、確実に上位の方である。反対に僕などは、下から十番以内であるに違いない。

 遥香はいつも明るく振舞っていた。それは常識的で、誰に対しても嫌な印象を与えなかった。そう、この僕に対してもである。基本的に人に対して必要以上に拘泥できない僕は、人に対する明確な印象をもつことが少ない。はっきり言えば、どうでもいいからだ。明るいとか暗いとか、それくらいのことしか考えない。いや、考えられないのだ。

 そんな僕にも、この少女は好印象を与えた。非常に形容しがたいが、人間の生臭さを感じさせないのである。なんだかいい人らしい、僕でさえそんな印象を受けた。当然、クラスの皆は遥香を好いていた。嫌う理由などあるはずがなかった。そんなわけで遥香は大抵、友達を幾人も連れて、いつも楽しそうにしていた。

 それを知っている僕は、彼女の飲酒よりも、まったく違う雰囲気に驚いた。なんというか、生気が抜けている。まるで電池の切れた機械みたいに、遥香はエネルギーを失っていた。

「メリット、か。無いんじゃないかな」

 遥香はうすく笑った。その表情も、僕は知らなかった。

「そう、だよね。どうしよう。あ、そうだ。あなたのお願い、なんでも聞いてあげる」

 遥香の意図するところは判ったが、それが余計に僕を驚かせる。遥香は冗談でもこんなことを口にしないと思っていた。いや、もちろん彼女のことなんて大して知らないし、そもそもあまり話したこともないけれど、それでも、僕は驚愕した。

「いらないよ。とても魅力的だけどね、女の子の弱みを握って楽しむ趣味なんて無い」

 それは本心だった。僕は、誰も好きにならないけれど、誰かを嫌いになることもない。きっと僕が手酷く攻撃された時に、それは例外をもつことになるのだろうけれど、今のところは無い。だから、僕は基本的に人を攻撃するということを知らない。必要が無いからだ。そして、知らないものは怖い。僕はある意味で、人を攻撃することを恐れてさえいた。

「そっか…、じゃあ、えっと、どうしよっかな」

 僕は視線を逸らした、その先に、長く伸びた僕らの影を見た。

 僕は、へんな高揚感を覚えた。その原因は考えるまでもなかった。遥香だ。彼女が、思いもしなかった二面性をもっているということに、僕は感動しているのだ。きっと遥香は、飲酒も含めて、この一側面が皆に知られてしまうことを恐れているのだろう。しかし僕の方はというと、まったく違っていて、むしろ遥香を美しいとさえ思ったのだ。理由なんて判らない。ただ、遥香を貶めたいとか、天才の正体見破ったり、なんて囃して、自尊心を喜ばせたいわけではなかった。ただ、僕は単純に、彼女をひどく美しいものに感じた。本能のはたらきによってである。

 僕が再び遥香のほうを見た時、彼女は僕を見つめていた。まるで何も考えていないみたいに。僕はポケットに手を突っ込んで、遥香の顔を見て言った。

「わかった。じゃあ僕は、沢谷さんのことを知りたい。それで手を打とう」

「私のことが知りたい?」

「そう。簡単だよ。僕に、自己紹介してくれたらいい。ただし、『今の』沢谷さんのことを教えて欲しいな」

 遥香は押し黙った。しばしの静寂が訪れる。空気がすこし冷たくなった気がする。それから遥香は、遠慮がちに口を開いた。風が吹いて、彼女の髪を揺らす。

「ごめんね。それは、難しいかもしれない。だって、私たち、まだ信頼関係ができていないでしょう」

 僕は思わず笑ってしまった。

「よく解ってるじゃない。そう、きっと君は、僕のことを信用してくれないでしょう。なら、これ以上、僕はどうしてあげることもできない」

 彼女は自身の失言に気づいてか、「あ」と声を漏らした。

「そっか、そうだよね…。あ、じゃあ、さ。友達になろうよ」

「友達?」

「そう。私たちが友達になれば、私はあなたのことを信用できるようになるかもしれないし、あなたは私のことを、もっと知ることになるかもしれない。これなら、お互いに良いでしょ」

 まるでとんちだ。けれど、一理ある。信用がないのならば、作ればいいのかもしれない。まったく、善人の考え方である。やはり遥香はいい人なのかもしれない。いや、きっとこの状況の本質を理解したのだろう。信頼などと曖昧なものは、あれこれと語って変わるものではない。僕が彼女の提案を断った以上、彼女にできることはほとんどない。

 こちらに裏切る気が無いかぎり、遥香の提案はそんなに突飛なものではない。彼女が信用してくれるまで、僕がゆっくり付き合ってやればいいだけの事である。

 では、僕にとってのメリットは?もちろん、遥香が言った通りだ。僕は、それに乗ることにした。人に関わることを厭う僕が、今だけは構わないと思った。それくらいに、僕は今の遥香に魅せられていた。

「うん。わかったよ。じゃあ僕たちは、これから友達になろう。少しずつ、互いを理解していこう」

「よかった。改めてよろしくね」

 ここで、遥香はようやく自然に笑った。作り物めいた、死んだような顔ではない。やはり雰囲気は変わっていないのだが、その表情は確実にこれまでと違った。きっと、これこそが彼女の本当の顔なのではないか、などと勝手に思った。よく判らない。

「うん。こちらこそ」

 僕らは握手を交わした。遥香の手は小さく、温かかった。一つだけ、遥香のためと言うよりは、僕のために言っておかなければならないことを思い出した。

「それと、僕は本当に、君のことを話すつもりはないから。信じられないだろうけど、不安には思わないでね。疑うのは構わないけれど、僕のせいで神経を痛めるようなまねは止めて欲しい」

 遥香は暗い瞳のままに頷いた。こちらの言葉が届いていたか、まったくの疑問であるが、仕方がない。とりあえず、僕にできることはこれまでだ。

「じゃあ、また明日ね、沢谷さん」

「うん。また明日」

 僕は遥香に背を向けて歩き出した。屋上を出た途端に、僕は強い気だるさを覚えた。緊張していたわけではない。ただ、先の屋上に較べ、この世界はあまりに退屈だった。そして窮屈であった。

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