海ぶどう

夏生もも

第1話

 壁に掛けられた電波時計のチャイムが昼休みを告げている。

パソコンのモニターから目を離さなくても、私の斜め前の席にいる大熊さんが伸びをする様子が視界に入ってくる。

隣の席の”彼女”はまだパソコンのモニターに目を向けたままだった。


 男性陣が一人、二人、三人と続々立ち上がり、自然現象的に群れになり食堂に向かい始めた。その最後の一人が後ろ手に閉じたドアが「カチャッ」と鳴った瞬間、私は”彼女”の方に顔を向けた。

 “彼女”こと川島奈美さんは39歳独身、実家でご両親とお兄さん家族と暮らしている。婚活パーティーの常連で、ここ1年半でカップルになった回数は4回、カップル成功率100%、平均カップル継続期間4ヶ月。話題を欠かさない人物だ。


 本音を言うと、彼女の恋話に興味はない。けれど、お昼休みになると毎日この大部屋に席を隣り合わせた二人だけで残され、何も話さないより、彼女のおしゃべりを聞いている方が気まずくはない。そんな思いから何となく話を聞いていたら、昼休みは彼女の恋話を聞くことが習慣化されてしまい、私は彼女の相談役として2人で飲みにいく仲になっていた。


 いつもなら、私と同時に彼女も私の方に顔を向け、「ちょっと聞いてくださいよお〜」と話が始まるのに、今日は彼女はモニターを見つめたままじっとしていた。

仕事の区切りが悪いんだろう。

私は自分の席の後ろにあるロッカーにiPhoneを取りに行き、そのまま部屋を出てトイレに向かった。

トイレに着いて、iPhoneを開くと、彼女からメッセージが届いていた。

 [ちょっと職場では話せないようなことが起きたので、今日の帰りに少し話せませんか?]

またか、と内心思いながら

 [いいですよ。では、いつもの店に18時に集合で]と返信しておいた。


 トイレから戻ると、彼女はお昼を食べながらスマホをいじっていた。

私が開けたドアの音で顔を上げたが、部屋に入ってきたのが私だと認めると、顔をスマホに戻した。

散々相談にのり、飲みにも行っているのに、社内では他人行儀なところがある。



 17時半ぴったりに会社を出て、いつもの店に向かった。

その店は、会社から歩いて10分程の沖縄料理店、彼女のお気に入りの店だ。

会社に近いからなのか、意外と誰にも会わない穴場でもある。

18時まで時間に余裕があったので、お金を引き出しにコンビニに寄り、雑誌コーナーで立ち読みすることにした。興味を惹かれる雑誌があれば買うつもりで何冊か目を通したが、買いたいと思うものはなかった。立ち読みさせてもらったお礼としてガムを買ってコンビニを出た。


 お店に着いた時には18時を2分程過ぎていた。

「こんばんはー」と店に入ると、オーナーが

「いらっしゃい、奈美さん奥の座敷にいるよ!」

手を動かしながらカウンター越しに笑顔を向けてきてくれた。

軽く頭を下げながら、オーナーの前を横切り奥の座敷に行くと、まるで誰もいないような沈黙の中に奈美さんが座っていた。


 「すみません、ちょっと遅れてしまって」私が声をかけると、

「・・・遅いですよー、もうこんなに待たせるなんて!」ちょっとスネながら微笑む奈美さん。座敷の空気が優しくなった。

 ナチュラルメイクにふんわり前髪を下ろし、軽くレイヤーの入ったセミロングがよく似合っている。白い襟がついたグレーのセーターに、膝下までの長さのタイトスカートを合わせた清楚な装いが本当によく似合う。

(この人、39歳には見えないよな。)


「時間があったからコンビニに寄って立ち読みしちゃって。」

脱いだコートを壁にあるハンガーにかけて、座布団に座る私を奈美さんはメニューを持ちながら待っている。

「私はもう決めたので、どうぞ」

奈美さんからメニューを受け取り、

「ありがとうございます。おつまみも決めました?とりあえず、飲み物を先に頼みましょうか」

私が言ったのと同時に、お手拭きを持って店員さんが座敷に入ってきた。

 お手拭きを受け取り、店員さんがオーダーを取る準備を整えたところで、

「生中1つと、カシスオレンジ1つお願いします」と注文した。

奈美さんはあまりお酒が強くなく、最初の一杯はいつもカシスオレンジを頼む。

「あっ、カシスオレンジではなくてレモンサワーお願いします。」

奈美さんが自分の分を訂正した。


 店員さんが座敷から出ていったのを見届け、奈美さんが口を開いた

「ごめんね、今日はちょっとカシスオレンジの気分じゃなかったの。」

「いえいえ、勝手に頼んじゃってすみません。どうしたんですか?会社で話せないようなことって。」

「突然ですけど“ピザに使うチーズ”って言われたらどのチーズだと思います?」

少し前のめりになり、私の目を見つめながら奈美さんが聞いてきた。

「えっ?ピザに使うチーズって、シュレッドチーズ?柿ピーの柿くらいのサイズでもっと薄いチーズが袋に沢山入っているやつ。」

「そう。それ。それって常識?普通にわかることなの?」

「常識かはわからないけど、ピザに使うチーズって言われたら、シュレッドチーズのを連想します。」

奈美さんは、座布団に深く座り直し、私から目線を外して軽くため息をついた。

「週末に外出した帰り道にスーパーに寄ったの。それで、母に何か必要なものがあるか連絡をしたの。そしたら、“ピザを作るから、チーズを買ってきて”と頼まれたの。で、筒型の濃い緑のパッケージに黄色い蓋がついているチーズを買って帰ったんですよ。料理の上にパラパラーっとふりかけるやつ。」

「パルメザンチーズ?」

「そうそう、それ。それで母に、チーズもまともに買えないのかって、言われたの。」

「へえー。チーズ買えなくても別にいいじゃないですか。」

奈美さんは、手を拭いたお手拭きをきれいにたたみ直しながら、今にも泣きそうな表情をしている。

「母は姪っ子たちにピザを作っていて、ちょっとチーズが足りないな、と思ったタイミングで私が連絡したみたいで。皆で私が買ってくるチーズを待っていたんですよ。でも、私はチーズを買ってきてとしか聞いてなかったし、直ぐに使うなんて知らなかったから、スーパーで買い物してから、駅からバスに乗らないで歩いて帰ったの。それで、途中で近所の方が犬を散歩していたから、触らせてもらって、おしゃべりして、のんびり帰ったんです。」


 「お待たせしましたー。生中とレモンサワーです。こちらおつまみになります。」

店員さんが海ぶどうの小鉢と飲み物を置いた。

「お食事のご注文は?」

「ああ、えっとジーマミ豆腐とフーちゃんぷると、今日のお刺身でお願いします。」

奈美さんが好む定番メニューを頼んだ。


 無言でグラスを合わせ乾杯して、一口飲んだところで奈美さんが話を再開した。

「で、家に着いたら母が、“遅いよ!”って。」

「そんなのしょうがないですよね、奈美さんはお母さんたちが待っているなんて聞いていないんだから。」合いの手を入れながら奈美さんにお箸を渡した。

「でしょーおおお。でもね、姪っ子たちが待ちきれなくなって、泣き始めちゃってて。だから急いで“チーズ”を買い物袋から出して、母に渡したの。そしたら、“えっ、これ?”って。チーズを握って見つめたまま固まっちゃって。」

「あー、パルメザンチーズだったから。」

「そう。固まったままポソッと、“これはパスタにかけるやつでしょ。あなたは料理しないからしょうがないか。”ってつぶやいたの。」

私は海ぶどうを箸で突きながら、“ひゃー”と表情で合いの手をうっておいた。

彼女の話しがどこに向かっているか、想像がついてきた。

「それって、“結婚してないからしょうがないよね”ってことでしょ?って言い返したの。そしたら、母が“あなたは料理しないからしょうがない、ってことよ”って。でも、それって、結婚してないからあたり前のことすらできないって言われているのと同じよね。結婚してないから。」

奈美さんは、親指と人差指の間で箸を握りしめ、 “決め言葉”を吐き出した。


 奈美さんは結婚していないことをものすごく気にしている。そして、未だに実家にいることをお母さんに責められていると感じている。話しを聞いていて私が思うに、多分お母さんはあまり気にしていなくて、奈美さんが一人で過敏になっているだけ。

でも、この話しになると奈美さんは決して譲らない。結婚しないと人間は一人前になれないし、幸せもないと。

奈美さんと揉めるとものすごく面倒だし、長い間同じ話を引きずるから、反論はしないでひたすら相槌を打って話を聞いてあげる。そうすると、奈美さんは気遣い返しをしてくれる。自分だけ話しちゃってごめんなさい。っと。

そういうところが彼女のいいところだ。


 頼んでいたおつまみがテーブルに全て揃った頃、そろそろ話題を変えようと思い、彼女の話が途切れたところで店員さんを呼んだ。

「奈美さん次も同じ飲み物でいいですか?」

自分の小皿にのった料理を見つめながら小さく頷く奈美さん。

結婚していないことをそんなに気にしなくていいのに。


 店員さんに飲み物のおかわりと追加で料理を2品頼んで、

「それで、このチーズの話が職場では話せないような話しですか?」と聞いた。

奈美さんは無言で、箸を置き、グラスを持って、小さくなった氷と一緒にレモンサワーの残りを飲み干した。

短い沈黙を続け、頼んだものが全てテーブルに揃ってから奈美さんが話し始めた

「実はね、この前のお見合いパーティーでカップルになった彼の家に週末に泊まりに行ったんです。」

お見合いパーティーでカップルになる、ということは“結婚を前提としたお付き合いを始める”ということになるそうで、早々にお泊りする傾向にあるようだ。奈美さんは、今までの彼ともカップルになった後1回目か2日目のデートでお泊りしていた。

「それで、彼からもっと女性っぽい格好をして欲しいって言われて。」

「女性っぽい格好って?」

「……網タイツだって。」

「網タイツ??」

「そう、網タイツにピンヒール履いて欲しいって。」

「じゃあ、ミニスカートとかホットパンツとかってことですか?」

「それはどっちでもいいんだって。大きい網目のタイツに、赤いピンヒールを履いて欲しいって言うの。それも、彼の家に行った時に室内で。」

「え?どういうことですか?室内でピンヒール?」

二人で爆笑した。

「笑えるでしょ!」

「よりによって奈美さんにそんなリクエスト!?変な性癖があったりしない?大丈夫ですか、その人!」

「大丈夫、大丈夫。すごく控えめにリクエストされて、そんなの持ってないし、って。とりあえずスルーしておいたんですけど、笑えるでしょ。」

「爆笑!」

痩せ型というか、胃下垂なんじゃないかと思うような体型の奈美さんの網タイツ姿。

「どう考えても私には似合わないですよね!」

「一番遠いところにいると思います。」

私は久しぶりに大笑いした。


 帰り道、奈美さんとは同じ沿線で彼女の方が2駅先に降りる。

電車はいつものように混んでいた。二人で電車に乗り込み、車両の奥まで入って通路のドア側に奈美さんが滑り込んだ。奈美さんを守るように私がその横に立つ。

電車の窓ガラスに映る奈美さんと目があった。

「ふふ、矢木君と私、カップルみたいに見えるね。」

「見えますね。」私は相槌をうった。

その後は何となく二人共黙ったままだった。


 奈美さんが降りる駅に着いた。

「今日は付き合ってくれてありがとう。また明日ね。」

「お疲れ様でした!」

ホームに降りた奈美さんは、手を振って私を見送ってくれた。


 私はiPhoneをカバンから取り出し、メールを開いた。

待っていたメールが届いていた。

   From:ISパートナーズ株式会社

   件名:ご応募ありがとうございます。

件名をタップしてメール本文を開いた。

   この度は当社正社員職求人にご応募いただき、ありがとうございます。

   二次面接にお進みいただきたいと思います。

「やった」思わず声が出た。


 私は今の職場ではソフトウェア開発の派遣契約で働いている。

契約は2年。後5ヶ月で終わる。

大学を卒業してから、大手に正社員のエンジニアとして就職し5年間働いていたが、あまりの激務に体調を崩し辞めた。再就職を考えた時、仕事量が決まっている方がよいと思い派遣契約で働き始めたのだが、派遣だと契約期間が終わると失業してしまう。もうすぐ30歳。正社員で働こうと転職活動を始めたところだ。


 家に着き、誰もいない部屋に入りながら「ただいま」とつぶやく。

部屋の明かりとテレビを付けて、帰り道に買ってきたお茶を開けて飲む。

「網タイツにピンヒールか。はははは。似合わないな。」

ボーッとしながら、奈美さんの話を思い出して、笑った。


 iPhoneが光った。見ると奈美さんからのメッセージが届いていた。

[今日もありがとうございました。また明日ね!]

[お疲れ様でした。今日も面白いネタありがとうございました😁]

[ネタって!こっちは必死よ!でも、楽しんでもらえたならよかったです。]

[奈美さんが網タイツにピンヒール。もうネタですよ。]

[www 矢木君が笑ってくれて私も笑っちゃったけど、本当ロクな人がいないなー。最近ちょっと疲れてきちゃったよ。]

私は少し考えてから

[奈美さん、お見合いパーティーに来る男が本気で結婚を考えているわけ   ]

途中まで書いたけど、消して書き直して返信した。

[お疲れ様です。もう遅いから寝ますね。また明日!]

[うん、おやすみなさい。いつもありがとう。]


座敷で私を待つ奈美さんの後ろ姿を思い出しながら、お茶を口にふくんだ。

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海ぶどう 夏生もも @naz_momo

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