第27話 夜
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西村も前田も持っていなかったのに、粕谷の胸ポケットには携帯が入っていた。幸いにも壊れていなかったので、香穂はそれを使って110通報した。
まずは最初に出た女性に事情を説明すると、すぐに男性の声に変わった。なので、香穂は繰り返して同じ内容を話したが、喋るうちに相手の応対は権高になった。どうも悪戯電話だと誤解されたらしい。それでも途中からは信じてくれて、準備が整い、波浪警報が解除されたら、そちらに向かうと請け合ってくれた。停滞していた台風17号はようやく四国方面へと移動しつつあり、遅くとも明日の朝には島に来られるだろうという話だった。
千尋は叔父の家と実家に電話をかけ、自身が無事であることを伝えた。電話の向こうはとても喜んでいるらしく、話は長引いて、ついに電池が切れた。「父は、私が無断欠勤しているだけだと思ってたみたいです」と、彼女は苦笑いを浮かべた。
それから、二人は必要な作業を行った。放置しておきたくはなかったので、幹也と弥生の死体を、これ以上濡れないように端島病院へと運びこんだ。並んだ木製のベッドに死体を横たえ、死ぬ必要などなかった二人を香穂は見つめた。一晩ぐらい傍にいてあげたかったけれど、望海が寂しがっている。感傷を振り切り、香穂は背中を向けた。
30号棟に戻ると、香穂はキャリーバッグから下着や洋服を出し、千尋とともに着替えた。望海が帰って来た時のために服を用意していたので、娘にも着せた。
その後、粕谷たちが持ちこんでいたコンビニ弁当を三人で食べてから、やはり痛みが一番少ないので、弥生がいた51号棟へと移動した。この頃には、すでに陽は沈んでいた。
窓から海を眺めると、波はかなりおとなしくなった印象だった。雨の勢いも弱まっている。おそらく夜明けまでには、台風の影響下から外れるのではないか、と香穂は思った。
粕谷たちの荷物に入っていたLEDランタンの傍に、望海は座っている。たぶん、闇が怖いのだろう。明かりに照らされたその顔には、まだ緊張の残滓が漂っていた。
香穂は望海の隣に腰を下ろした。すかさず、娘が抱きついてくる。かつてない過酷な体験をしたせいか、望海は甘えっぱなしで、幼児の頃に戻ったみたいだった。
こうして何もかも終わって落ち着くと、傷の痛みが意識された。香穂は右手を望海の背に置き、左手で頬の痣をさすった。振り返りたくもない一日は、長かったようでもあり、短かったようでもある。辛い気持ちもあるし、ほっとしている部分もあった。頭が疲弊していて、すべてが曖昧模糊としているが、一つはっきりしているのは、休みたいということだ。できれば一週間ぐらい、ずっと横になっていたい気分だった。
「彼らは、どうやって島から出る計画だったんでしょうね」
暗がりの中で横座りしている千尋が話しかけてきた。
「不思議ですね」
香穂は短く返した。それは今、もっとも大きな疑問だった。
船を着けられる場所としては軍艦島にはドルフィン桟橋と、もう一つ、グラウンド横に使用可能な「すべり」と呼称される船着き場がある。二人は両方をチェックしたのだが、ボートの類いはなかった。脱出用の船は必須であるのに、どうしたのだろうか。荒波のせいで、流された可能性はあるけれど……。
「他に一人ぐらい、仲間がいるのかもしれませんね」
千尋の推測に、香穂はうなずいた。
「運び役ですね。その仲間に連絡するために、粕谷だけ携帯を持ってたんでしょうか。で、私たちに奪われてはいけないから、他の仲間には持たせなかった」
「そうですね。連絡がなければ、たぶん運び役は島へは来ないんじゃないでしょうか」
「では、逃がしてしまいますね」
香穂は小首を傾げた。「しょうがないんじゃないですか、一人ぐらい。運び役なんて、人を殺してもいないし……」
『殺す』という言葉に、望海の腕がびくっと痙攣した。いけない。かなり怯えている。指示に従わせるために、粕谷がそんな脅し文句を使ったのかもしれない。
望海を刺激してはいけない。香穂は娘を怖がらせないように、なるべく楽しい話で、場を和ませようと考えた。
「でも、先生。これからは患者でも、男には注意しないといけませんよ。また、心中を迫られたりするかもしれませんから」
笑顔をつくって、香穂はいった。
「注意といわれてもねえ」
千尋は頬に手を当てる。
「先生は、美人すぎるから駄目なんですよ」
香穂のこの指摘は予想外だったようだ。千尋は、勢いよく背筋を伸ばした。
「そんなことで責められたのは、初めてです。整形した方がいいですか?」
「髪をおもいっきり短く切って男っぽくするとか、スッピンで通すとか」
「なるほどね、検討してみます」
答えてから、千尋は微かな笑い声を洩らした。「そんなに変えたら、みんな驚くかな」
「ただ、それでモテなくなって結婚できなくても、責任は取れませんけど」
「あら、遠藤さんがお嫁に来てくれるんじゃなかったんですか?」
千尋の切り返しに、香穂は戸惑った。それから、ああ、と言葉を零す。そういえば私、結婚してくれとか、冗談で先生にいったっけ。
「いいですけど、私、料理が下手ですよ?」
「構いませんよ。私もですから」
「先生は立派に働いてらっしゃるからいいですよ。私なんか専業主婦なのに──」
喋っている途中で、望海が大声を張り上げた。黙ってはいられないという様子だった。
「ママはお嫁にいっちゃダメっ。ママにはパパがいるんだから!」
小さな爆弾が落ちたみたいだった。千尋は、疲れ果てていてもなお美しい顔を強張らせる。すぐに、望海に「ごめんなさいね」と謝った。
聞けば、誘拐された日は、望海は幹也と遊びに行く予定だったという。「ママにはナイショで」といわれるままに約束をし、待ち合わせ場所の公園に行ったところを連れ去られたらしい。そんな父親を、今なお信じている娘が哀れだった。
「望海ちゃん、まだ怖い?」
千尋は、望海に顔を近づけて話しかけた。
「うん」
「そう、でも大丈夫よ。悪い人はもういないから」
「……」
望海は目を上げて、香穂の視線を求めた。
「ねえ、ママ」
「何?」
「望海、悪い子だから、ユーカイされたの?」
「え……」
不意を突かれて反応できず、香穂は表情を固めた。
「ごめんね、これからは望海、良い子になるから」
望海は、真剣な眼差しを母親に向けていた。
また、心が動揺をはじめた。何も事情を知らず、素直に自分を責めてみせる娘に、香穂はどう返せばいいのかわからない。熱い固まりがこみ上げ、喉が詰まって苦しくなった。
できるだけ優しく娘の髪を撫でる。すでに何度も流しているのに、涙はまだ涸れていなかった。頬を滑っていく感覚があり、滴が娘の口元に落ちた。望海は唇を手で拭った。
望海の父親は、もう帰って来ない。もはや懐かしい三人の生活は、永遠に戻らない。その事実に、娘はどれだけ打ちのめされるだろう。それに近い将来、この子は事件の真相を知るはずだ。幹也が金のために家族を裏切り、妻を殺そうとして、死んだということを。香穂が喋らなくても、きっと周囲が噂し、それは望海の耳に入っていくだろう。
辛かった。こんな話、できれば聞かせたくはない。幼い心が受ける衝撃を思って涙しながら、香穂は望海を抱きしめた。
胸の内側を懸命に立て直しながら、香穂はそっと娘の耳に囁く。
「良い子になんか、ならなくてもいいのよ。ただ……強い子になって」
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