第28話 戦う意志

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「──いやね、もちろんこの犯人は悪い奴ですわ。もう極悪非道。許せません。でもね、その動機がね、愛ゆえにっちゅうところにやね、僕は、もの悲しいっちゅうかね、切ないものを感じるんですわ。粕谷っちゅう男は店を潰して、ほんで嫁はんと子供にも逃げられて、絶望して、そんな時に最愛の人にめぐり会うてしもたんでしょ? ほんで夢中になって、頭がおかしうなってしもたんでしょうなぁ。悲しい話ですなぁ」

 カーオーディオからは、酒焼けしたような声が先程からずっと流れていた。ラジオパーソナリティーを務めるフリーの女性アナウンサーは、話の合間に「はい」「ええ」などと、やや早口な相槌を打っている。出勤の際、いつもなんとなく聞いているラジオ番組が、今日はゲストを迎えているのだった。

 千尋は普段、テレビを観ないので、喋りつづけているこのタレントの名前を知らない。たぶん、関西出身の有名なお笑い芸人なのだろう。声だけは、どこかで聞いた覚えがある。

 はっきりいって、彼が披露したような意見は異端だ。すべてのマスコミは、いつ死んでもおかしくない状況を生き抜いた千尋を褒め称え、望海に同情を寄せている一方で、表現の限りを尽くして粕谷を罵倒している。ただ香穂に関しては今のところ絶賛しているが、過剰防衛の嫌疑で現在も事情聴取を受けているので、その成り行き次第ではいつ掌を返すか知れなかった。

 面白い人だけど。ステアリングを握りながら、千尋は首を傾げた。判で押したようなコメントは聞き飽きたので新鮮には感じたが、香穂が聞いたら怒るだろうなとは思った。何であれ、粕谷の側に立つ意見は、彼女は絶対に認められないだろう。

 あれから、もう三日経ったのか。

 声に出さずにひとりごち、千尋は時間の過ぎる速さに今さらながら驚いた。ただ、色々あった割には、全部覚えている。夜の七時頃まで、警察署で延々と喋った内容もきちんと把握していた。その後、ようやく解放された千尋はホテルで一泊し、翌朝、飛行機で東京に戻ったのだ。

 マンションに帰り着くと、まずは叔父と連絡を取った。すると、彼から「三日は休んでくれ」という有り難い言葉を得たので、千尋は好意に甘えることにした。休んでいる間は新聞を読み、ほとんど電源を入れないテレビを点けっぱなしにして、ニュースやワイドショーばかりを観た。どのテレビ局も、歴史に残る空前絶後の重大犯罪として「軍艦島事件」を大々的に報道していた。軍艦島のCGを使って、ゲームがどのようにして行われたのか、詳しく伝えている局もあった。香穂の奮闘ぶりも、誇張や憶測も交えて熱く語られていた。

 あの人は今、どうしているだろう。

 香穂の記憶は、すぐに千尋を軍艦島へと連れ去る。すべてが終わった後は、疲れ切っていたので眠りが深かった。スピーカーの声で目を覚ましたのは、夜中の四時過ぎだ。所有船に乗った長崎県警の捜査員たちが島に到着し、呼びかけていたのだった。ぼんやりした意識のまま51号棟から出ていくと、投光器の光の中に大量の警察関係者がいて、その数に千尋は驚かされた。

 彼らは彼らで、あちこちに散らばる死体を見て仰天したようだ。物々しい雰囲気の中、二人はその場で事情を訊かれた。香穂と離され、千尋は穏やかな風貌の刑事から質問を受けた。彼は、被害者である千尋に気を遣っている様子だった。千尋は問いかける刑事に対し、一つひとつ淡々と答えた。多くの嘘を織り交ぜながら。

 先生は、小坂を刺さなかったことにしましょう。香穂がそう提案したのは、51号棟の一室で過ごしたあの晩だった。弥生もまた、誰も殺さなかった。殺人は、全部私がやったことにします、と彼女はいった。ランタンの灯りを浴びたその顔は真剣だった。

 代わりに、夫の幹也は粕谷に刺されたことにしてくださいと、香穂は頭を下げた。望海の父親を犯罪者にはしたくないのだと彼女は説明した。その気持ちは、よくわかった。

 二人は相談し、「軍艦島事件」のストーリーを一部、つくり変えた。幹也は香穂と一緒に事件に巻きこまれただけ。隙を見て銃を奪い、反撃したものの、粕谷に殺された。騙されて粕谷に手を貸した弥生は、説得に応じて千尋たちの味方をしたため、粕谷に撃たれた。香穂は高橋、小坂、前田、西村、粕谷の五人を殺したが、すべて正当防衛である──

 香穂は娘にも、粕谷が死んだ時は怖くて目を閉じていたので、何も知らないと証言するようにいい聞かせていた。夜のうちに、指紋をつけるために粕谷に小刀を握らせるなどの偽装工作も行った。まるで私たちが犯罪者みたい、と香穂は自嘲気味に呟いていた。

 今のところ、問題はなかった。望海は母親の指示通りに喋ったようだし、口裏合わせは完璧だったので、千尋と香穂の証言も食い違っていない。桁外れに大きな事件だし、実際には殺していない西村と前田の分まで引き受けたので、香穂の取り調べはまだ終わらないが、たぶん不起訴になるのではないかと千尋は見ている。

 ただ、捜査が進み、幹也が粕谷たちの仲間であった証拠が発見されたら、香穂の望みは潰える。その点に関しては、何も出てこないよう神に祈るしかなかった。おそらく、香穂は今も不安に苛まれていることだろう。

 不安、といえばもう一つ、千尋たちとの証言とは合致しない不思議な事実がある。それを知った時、二人は愕然としたものだ。あり得なかった。到底、信じられないことだ。

 まさか死体が一つ、消えているなんて──

 幹線道路沿いに建つ、田所クリニックが入っている雑居ビルが近づいてきた。最後の信号を越えたところで、千尋は思考を止めた。

 契約している月極駐車場にプリウスをとめ、ラジオのスイッチをオフにする。車外に出た千尋は、リモート操作でドアをロックし、右脚を踏みだしかけて、止まった。

 陽を浴びている雑居ビルの白く輝く外壁を、千尋は眺める。

 粕谷に拉致され、殺されかけたことで、私は患者に対して恐怖を覚えているだろうか。粕谷の幻影に、怯えたりしていないだろうか。

 千尋は自らに問い、否、の答えを得た。

 私は正常だ。さらわれる前と、何も変わっていない。

 結論を出すと、歩きはじめた。ヒールをこつこつと響かせながら、ビルの自動ドアをくぐる。いつも通りだ。もたらされた日常の感覚に、千尋は安堵した。

 一階にある扉を開けて、千尋はクリニックに足を踏み入れる。診察室に入っていくと、そこには事務員の中条美樹と看護婦の宮本莉奈、そして叔父の田所誠がいた。三人の視線が、一斉に集まった。

「やあ、千尋さん。大変だったねえ」

 今年古希を迎える叔父は白い眉を上げ、喜びを顔中であらわした。事件後、直接顔を合わせるのはこれが初めてだ。

 叔父は千尋の手を引いて医師用の椅子に座らせ、自らは患者用の椅子に腰を下ろした。遠慮した二人が診察室を出ると、彼は生還を喜ぶ言葉を色々と並べたてた。

 それから叔父は、質問を開始した。どうやら彼もまた、「軍艦島事件」について大きな興味を持っているらしい。千尋は警察に喋った通りの、虚実を入り交じらせた答えを重ねた。明敏な叔父も、矛盾は見つけられないようだった。

 最後に、叔父は心配そうな顔つきになり、「問題はないかい?」と尋ねてきた。千尋が「もちろんです」と答えると、彼はほっとした表情に変わった。娘同然に思っている姪が、深刻なトラウマを抱えていないかということが、彼の一番の懸念だったのだろう。

 ようやく解放されたのは、診療開始時間の五分前だった。叔父は帰っていき、千尋は急いでロッカーから白衣を出してはおった。すると、今度は宮本莉奈が近づいてきた。

「先生、お帰りなさい」

 莉奈は丸みを帯びた頬に、再会できた嬉しさを滲ませていた。

「ただいま」

「でも、まだ早いですよ。もっとお休みになればいいのに」

「それは、さすがに無理よ」

 千尋は椅子に腰を下ろし、苦笑してみせる。

「田所先生が代診してくれますから、大丈夫ですよ。ほんと、これほど悲惨な目に遭った人は、いないんですから。無人島で殺人ゲームって、そんなの前代未聞でしょう?」

「それだけ聞くと、なんだか楽しそうだけどね」

 笑みをつくると、莉奈は、呆れたように眉根を寄せた。

「なに気楽なことをいってるんですか。ニュースを観て、私、背筋が寒くなりましたよ。こんな事件が起きるのかって」

 莉奈は目に怯えを走らせた。「もう先生がお可哀想で……怖かったでしょう?」

「ええ、それは」

「患者さんが犯人だなんて。意外なところに、危険って潜んでるんですね」

「そうね。でも、こんな事件はまず二度と起こらないでしょうけど」

「はい。だったら、この先は安全なのかもしれませんね」

 表情を変え、莉奈は目元を緩めた。

「でも子供を誘拐して、母親にあんなことをさせて……許せないですね、犯人」

 莉奈は義憤をあらわにした。彼女は二十五歳だけれど、すでに二人の子持ちだ。齢は四歳と二歳で、勤務中は二人とも公立の保育所に預けている。

「さらわれたお子さんは今、どうしているんでしょう」

「遠藤さんの実家で、お母さんが面倒みているわよ」

「そうですか。……あのう、でも、あの報道は本当なんですか?」

「何が?」

「その、母親が五人も殺したって」

「ええ、正当防衛だけどね」

 香穂は素知らぬ顔でうなずく。

「もちろん、そうでしょうけど。だけどちょっと信じられないっていうか」

「あら。じゃあ、実は私が殺したとか?」

「まさか。先生にそんなことができるわけありませんよ!」

 莉奈は慌てた様子で手を振る。千尋は、高橋を石で殴ったり、小坂を刀で刺したりしたことを告白したら、この看護婦はどんな反応をするかな、と思った。

 千尋は腕時計に視線を落とした。

「さあ、そろそろ診療を開始しないと」

「はい」

 元気よく返事をして、莉奈は去ろうとする。が、中途で脚を止め、振り返った。

「先生」

「なに?」

「髪、お切りになったんですね」

「そう、変かしら?」

 顎のラインに沿った毛先に、千尋は指で触れた。

 実は昨日、香穂のアドバイスを思い出し、美容院に行ってみたのだ。彼女の言葉を真に受けたわけではないが、気分転換にはなるかと思って。ここまで短くした経験はないので、正直、違和感が大きかった。でも、さっぱりしたのは事実だ。

「いえ、とってもお似合いです」

 微笑を浮かべていい、莉奈は今度こそ本当に行ってしまった。

 一人になると、美樹が患者のカルテを持ってくる。最初は初診の男だ。千尋は待合室に繋がる扉に向かって、患者の名前を心もち大きな声でいった。

「安本洋平さん、どうぞ」

 呼び出しを行ってから、背もたれに背中を預けて、待った。さほど時をおかずに扉が開かれ、男が診察室に入ってくる。彼は黒いポロシャツを着、チェック柄のカーゴパンツを穿いていた。顔はナイキのキャップと大きなマスクで、ほとんどが隠されている。

 いきなり薄紙を破く手軽さで、日常が壊れた。

 彼は扉の前で両手に持っていたスポーツバッグを置き、マスクを外した。死人みたいな顔色の男は、薄そうな皮膚に皺を寄せて笑っている。

 その顔を見て驚愕した千尋は、一瞬、震えた。幽霊と遭遇でもしたように、指一本動かせなくなった。

──いや、比喩など使う必要はない。この男は、幽霊そのものであるはずだ。

「おはようございます」

 挨拶されても、千尋は言葉を返せなかった。この三日間をなかったことにされた気分だ。目の前の笑顔が、ひたすら気持ち悪かった。

 男は笑みを絶やさずに、患者用の椅子にどっかりと座った。スポーツバッグは一つを床に置き、一つを膝に乗せる。そして、ポケットから取りだした携帯電話を机に置いて、「これ、お返しします」といった。千尋の携帯だった。

「わりと早く復帰されましたね、先生。いやあ、毎日、確認の電話をしましたよ。いつ上野先生は出勤されますかって。どうしても一番に来たかったものですから。今日は、二時間前からクリニックの前に並びました」

 ぺらぺらと喋りながら、彼はジッパーを全開にする。そこには、帯封のついた札束が大量に詰めこまれていた。千尋は、まだ何もいえなかった。

「一億って、十キロもあるんですよね。それに嵩張るし、大変でした。でもちゃんと持ってきましたんで、遠藤さんに渡してあげてくれませんか。百万は前金で差し上げてますから、正確にいうと、九千九百万ですが」

「……どういうこと?」

 ようやく舌が動いた。男はジッパーを閉め、スポーツバッグを脇に置く。

「だって要求に応えれば、一億あげるって約束ですから。ただ、僕は遠藤さんに会えませんからね。たぶんのこのこ顔を出したら、殺されるんじゃないかな」

「そうじゃなくて。どうして、あなたがここにいるの?」

 目の前にいるのは──かつて、千尋の患者だった小坂だった。

 軍艦島にピエロ姿で登場し、香穂を徹底的にいたぶった挙句、殺された男。致命傷を与えたのは千尋だ。日本刀で刺した感触は、今でもこの手に残っている。

 千尋の脳はやっと息を吹き返した。死者は決して蘇らない。この男がここにいるということは、つまり死んでいなかったのだ。刑事に小坂の死体が学校にないと聞かされ、香穂と確認に行った時の驚きは鮮明に覚えている。確かに、あの教室には血の跡しかなかった。警察は、小坂が逃亡した可能性もあるとして捜査を行っている。

 では、血糊か何かを使って、小坂は死んだふりをしていたのか?

「ああ、先生は勘違いしてるんですよね。違うんですよ。死んだのは、僕の兄貴です。洋平なんです」

「お兄さん?」

 千尋は慌てて、もう一度カルテを見た。名前は洋平となっている。

「なぜ? どうしてあなた、姓も名前も違うの。あなたは小坂敏明さんでしょ?」

「そりゃ、不思議でしょうね。姓が変わったのは、婿養子に入ったからです。名前は、だって小坂敏明は極悪非道の犯人一味ってことで、警察に追われる身ですからね。だから、兄貴の名前を貰ったんですよ」

 千尋はたてつづけに衝撃を受け、茫然とした。

「どうして、そんなことに」

「先生が間違えたんでしょう? 僕と兄貴は顔も背格好も似ているし、その上兄貴がピエロの扮装をしていましたから、無理もないですけど。他の二人が自分の患者だったから、兄貴を僕だと思いこんじゃったんじゃないですか?」

 動揺が思考の邪魔をするので、千尋は額を手で押さえた。

「ちょっと、整理させて。死んだのは兄の洋平さんで、でも私が勘違いしたせいで弟の敏明さんが犯人にされてしまった。それであなたは現在、お兄さんに成りすましている」

「ええ。兄貴の女房だった真紀さんには、口止め料を渡して離婚してもらいました。それで、遙花って女と籍を入れたんです」

「あ、でもお兄さんはまだ死んでないかもよ。死体がなかったんだもの」

「いえ、それはないです。死体が消えたのは僕のせいですから」

「え……?」

 千尋は、驚かされてばかりだった。

「波がおさまったので、僕、真夜中にボートで様子を見にいったんですよ。粕谷から連絡がないから、心中しちゃったのかなって思いながら。でも30号棟へ行ったら粕谷が死んでるのに、先生の死体がないじゃないですか。では、生き残ったんだな、と。これは期待通りかもと喜んだんですけど、いつ警察が来るかわかりませんから、とにかく兄貴だけ探したんです。僕の都合で巻きこんだので、もし死んでたら、死体を警察に渡したくなくて。で、端島小中学校で発見したので、海に返してあげました。母親の通夜の晩に、パタヤビーチの思い出を懐かしそうに話していましたから」

「期待通りってどういう意味?」

 聞き捨てならないので、千尋は尋ねた。

「ああ、今回の事件は全部、僕が仕組んだんですよ」

 これは今日、一番の衝撃だった。怖ろしい事実を平然と告白し、敏明は微笑んでいる。どこか禍々しさを含んだ笑みには、既視感があった。そうだ、粕谷と同じだ。

 視界がぐるぐる回りそうで、千尋はしばし目を閉じた。

「あなたが? なぜ?」

「もちろん先生が神かどうか、確かめるためですよ」

 彼の返答は、もはや理解不能だった。

 以前の小坂敏明は、意味不明な発言をすることはなかった。彼が通院していたのは、洗脳の解除のためだ。敏明は大学時代にキリスト教系宗教団体「リライフ」に勧誘されてマインドコントロールされるまでに至り、一昨年まで熱烈な信者だった。だが、「リライフ」の教団組織で奉仕活動を行っているところを家族によって連れ戻され、彼は千尋の患者となったのだ。治療の経過は良好のはずだった。

「なに? あなたは、まだあのカルトを信じているの?」

「いえ、先生のお陰であいつらが間違っているのは、理解できました。でも神がいるのは、間違いないんです。小学生の時、歩いていたところを車同士の衝突事故に巻きこまれて、それでも奇跡的に軽傷で済みましたから。あれは絶対に神が助けてくれたんです」

「……」

「で、もしかしたら先生が『本物』かもしれないと考えたんです。だって、先生は完璧ですから。『リライフ』の小汚い髭面教祖とは格が違います。そう思っていた矢先ですよ。購入していたサマージャンボ宝くじが当選したんです。一等と前賞、合わせて四億円ですよ。その一等の末尾の番号が0228。これ、何だかわかります?」

 むろん、すぐにわかった。

「私の誕生日ね」

 生まれた年がうるう年だったから、一日ずれていたら、誕生日が四年に一度になるところだったと、千尋は敏明に話した記憶がある。

「そうです。これはもう、先生のお陰と考えるしかないじゃないですか!」

 大きく両手を広げて、敏明はとんでもない主張をする。

 千尋は、眉間を指で揉んだ。いくら奇跡に見えようとも、どんなに確率が低くても、そんなものは偶然でしかない。だが、いくら常識を説いても、この男は聞く耳を持ちそうになかった。

「でも、僕も一度騙されて、疑り深くなってますからね。先生が神である証拠がほしかったんです。だから試したんですよ」

「全然、わからない」

 千尋は、長い話になりそうな予感を抱いた。「試すってどういうこと?」

「先生が神であるならば、昔、僕を守ってくれたみたいに、人の命を守れるはずです。ですから香穂さんを使って、彼女を守り切れるかどうか見たんです。ただ、ガチで殺しにかかったら、いくら先生が神でも無理でしょうから、ゲームという運の要素を入れたんですよ。ある程度、身体能力がある人間を選んで、ね。『天は自ら助くる者を助く』ですから」

 得意げに、敏明はこちらが茫然とせざるを得ない動機を披露した。

「そんな考えで……。ああ、でもまだ、わからないことが多すぎるわね」

 千尋は、あるいは狂気の影が見えるかと、敏明の目を観察した。

「順を追って話しましょうか? 去年の夏、宝くじに当たった僕は計画を立て、その時すでにこのクリニックで知り合っていた粕谷に話してみたんです。彼は自殺を望んでいましたし、大好きな先生と死ねるなら、と積極的に協力してくれたんですよ。もちろん僕は先生を殺したくはなかったんですが、粕谷の目的は計画を利用して先生と心中することだったんで、そこは譲ってくれませんでした」

「……」

「彼、ノリノリでしたね。人生最後の大舞台を全力で楽しんでましたよ。ビデオを撮らせたり、最初に五人を殺してみせたりしたのは、粕谷のアイディアです。茶番ですけど、西村と前田に、香穂さんを殺す動機を持たせるためには、あれは必要でしたから。その程度では、先生は心を折らないと、僕も粕谷も信じていましたしね」

 なるほど、そういうことか。千尋は、粕谷には狂気を感じなかった。そもそも、彼は診断中に異常性をしめしたことはない。やはり彼は、狂人を演じていただけだったのだ。

「軍艦島での段取りも、ほとんど粕谷が決めました。こちらは協力してもらう立場ですから、あまり口を挟めませんしね。ほんとに、彼は熱心でしたよ。よっぽど心中したかったんでしょうねぇ。それでも、僕は先生が生き残ってくれると思っていましたけど」

「……それは、ありがとう」

「どういたしまして。まったく、彼がいなければこの計画は実行できなかったでしょう。粕谷という人物を得たのも、きっと先生のお陰ですね。だから他の協力者も、このクリニックで集めることにしたんです」

「それで、弥生さんを巻きこんだのね」

 ようやく怒りが湧き上がってきて、千尋は敏明を睨みつけた。

「どうして、中学生を」

「僕が一番怖れていたことがわかります? それはね、仲間の裏切りですよ。だって、面倒なゲームをやったところで、一億が手に入らないかもしれないわけでしょう? だったら、僕を殺して金を奪う方が手っ取り早い上に確実じゃないですか。ですから、動くのは粕谷に任せて、僕は他の連中とは一切接触しなかったんです。香穂さんに生き残ってもらうのが目的ですから、僕の存在を知られてはいけないということもありましたがね」

「……」

「で、トラブルが生じないように、なるべく金に興味がなさそうな人物を仲間にしようとしました。遥花に患者のふりをさせて、女性に声をかけさせたのは、そのためです。その中で食いついてきたのが、弥生だったんですよ。──でも弥生は、遙花のことは先生に何も話さなかったみたいですね。二人は仲が良かったそうですから、かばいたかったんでしょうかね」

「そうか」千尋は顎に指を添えた。「弥生さんは男性には心を開かないから、女性の協力者がいるんじゃないかとは思ってたけど」

「はい。で、前後して高橋も仲間に引き入れました。彼は一億円の写真を見せただけで、素直にゲームに参加してくれたから助かりましたよ。まぁ、あんな屑に一億もやりたくはないので、もし高橋が香穂さんを殺したら、粕谷が始末する予定でしたけどね」

「……」

「その頃、看護師に患者ではないことがバレて、遙花がクリニックを追いだされましてね。これ以上はまずいって話になって、残りの一人は兄貴にしたんです。近所の診療所に通っていることは真紀さんから聞いていたので、粕谷を行かせて、声をかけさせて。兄貴の暴力的傾向は知っていたので、その辺の欲望を刺激すれば協力してくれるんじゃないかと思ったんです。身内を巻きこむのは心苦しかったですけどね」

 敏明の口調はしごく落ち着いている。この男の精神に歪みが生じているのかどうか、まだ千尋は判断がつかなかった。

「じゃあ、西村と前田は? あの人たちこそ、お金を奪いそうで危険じゃないの? 宝くじの当選は嘘だって、彼らには信じさせていたけど」

「先生の力があれば、ゲームを開始してすぐに望海ちゃんを発見できると見ていましたから。ですから、むしろゲームが終わってからが本番だと考えてたんです」

「ああ、それで彼らが必要だったのね」

「はい、拳銃はちょっと先生でも厳しいかな、と悩んだんですが、まぁなんとかしてくれるんじゃないかと思いまして。ついでにいえば、歩美と綾が金を持っているという情報を掴んだのは、遙花です。あいつは以前、同じ風俗店に勤めていたので。それで、粕谷を店に送りこんだんです。あ、女たちの金を引きだす役は遥花でしたが、手をつけてませんよ。そんなつまらないことで、足がつくのは嫌ですからね」

「そういうことだったの……あ、そうだ。大切なことを忘れていた。

 脱力感に襲われた千尋は、手摺りに肘をつき、手の甲に顎を乗せた。

「遠藤さんを巻きこんだのはなぜ?」

「先生が軍艦島好きだという話は聞いていましたから、あの島を計画の舞台にすることは決めていたんですが、兄貴が『軍艦島なら、ぜひ学校の壁を登らせてみたい』といってい るって、遙花から聞いたんで。で、ボルダリングジムで適当な人物を物色しようってことになったんですよ。それで、遙花に頼んだんです」

「そこで、目をつけたのが、遠藤さん……」

「そうです。それから幹也さんの場合は、遙花が香穂さんから聞きだした情報を元に、得意先のケーキ屋にバイトとして潜りこんで、接触しました」

「幹也さんを仲間にしたのは、遠藤さんが警察に行くのを阻止するためと、あとは彼女を殺す役目の駒を増やしたかったから?」

「ご明察です。さすが先生」

 敏明は手を叩いた。「よほど奥さんに不満があったんですかねぇ。一度寝ただけで、幹也さんは遥花に夢中になったようですよ。彼女が奥さんさえ死ねば、あなたと一緒になるし、粕谷から一億が貰えると持ちかけたら、簡単に協力してくれました。遥花は風俗嬢だった時はナンバーワンでしたから、単に彼女の魅力に抗えなかっただけかもしれませんけど」

 千尋は二度、三度と首を振った。こんな話、絶対に香穂には聞かせられない。

「遥花さん、大活躍じゃないの。どういう人なの?」

「僕と同様、『リライフ』の元信者です。遥花もまた真の神を求めていましたから、僕の説得に応じて計画に参加してくれたんですよ」

「結婚したってことは、恋人だったの?」

「僕は同志のつもりだったんですが、彼女は僕に気があったみたいですね。求婚されたので、籍を入れました。それで、どうせならと思い、向こうの姓になったんです。だって小坂のままだったら先生が警戒して、診察してくれるはずないですから。まぁ、賞金を受け取った時みたいに、偽名を使っても良かったんですけどね」

 千尋はまた首を振った。理路整然としているし、妄想に支配されているわけでもない。彼は彼なりの手続きを経て、確信に至ろうとしている。キリストを信じる人がいるように、敏明は千尋を信じようとしているだけだ。だが、彼を正常だとはいえない。かつてないユニークな例で、既成の病名を当てはめることは難しかった。

 ただ一ついえるのは、彼の精神には神への「信仰」ががっちりと食い入っていて、それを取り除くことは、もはや不可能なのだろうということだ。

 洗脳は解除できても、信仰、あるいは思想といったものは、精神科医の力の及ぶところではないのかもしれない。そんなふうに、千尋は思った。

「なるほどね、あなたの考えは理解できたわ。で、私は合格したのね?」

「もちろんです。まさか全員を殺して、あの親子だけを助けるとは思いませんでしたよ。あんな状況で普通、生き残れますか? 敵は殲滅し、味方は救済する。あなたは自身が神であると、見事に証明してみせました」

「敏明さん、あなたは間違っているわ」

 重い精神的な疲れを感じながら、千尋は反論した。「助かったのは、遠藤さんの力があったからなの。あなたの論法でいくなら、彼女こそが神よ」

「香穂さんが? いや、それはないな。頭の悪いただの主婦だって遥花から聞いてます」

「あなたたちは、彼女は過小評価しているのよ」

「いえ、違います。神はあなたです」

 敏明は力強く主張する。強固な信仰の前には、千万言を費やしても徒労だ。巨大な虚無感に包まれ、千尋はいったん瞼を下ろした。

「そう。だったら、どうするの?」

「先生には医者を辞めていただきます」

 敏明は笑顔で、きっぱりといった。「そして、私たちの教祖になっていただきます。まだ二億以上の金が残っていますから、それを元にして新しい組織を立ち上げましょう。どうか、我々をお導きください。収入に関しては、今の金額の倍を約束しますから、御心配には及びません」

「もし、拒否したら?」

「はて。こんな好条件を断る? それは、考えてませんでしたねえ」

 敏明は、わざとらしく首をひねった。「そうなると、実力行使ですかね。また、先生を拉致することになりそうです」

「本気……なんでしょうね。じゃあ、話し合いでは解決できなさそうね」

「はい、それは無理ですね」

 あくまで明るく、敏明は応える。代わりとなる新しい神を手に入れたことが、よほど嬉しいのだろう。やたらと笑っていたのも、二時間ドラマの悪役みたいにずっと饒舌だったのも、それが理由のようだ。

「しょうがないわね。だったら、警察を呼ばせてもらうわ」

 刺激するのは危険かもしれないので、おとなしく最後まで耳を傾けたが、敏明の目的が判明した以上、対応は一つしかない。110番通報するために、千尋は携帯を取った。

 だが、敏明は手を挙げて、千尋を制した。

 見ていると、彼はポケットからICレコーダーを取りだした。親指を使って、敏明は小さな機械を操作する。すると、明瞭に聞こえる音声が流れだした。

「──ねえ、約束だからね? 一緒になるためには」

「わかってる、香穂は殺すよ。粕谷が全部、罪を被ってくれるんだろ?」

「ええ、安全なのは確実だから」

「それなら、やるさ。あいつが死んだら、せいせいするし──」

 会話が途切れ、唇を合わせる粘着質な音が響いた。千尋が不快な表情になったからか、敏明は停止ボタンを押した。

 千尋は、まじまじと敏明を見つめた。

「それって……」

「はい、遙花と幹也さんの声です。彼が裏切る可能性は高いと考えていましたので、保険のためにベッドでの会話を録音させました」

「……」

「幹也さんは、巻きこまれただけって報道ですよね? これが世間に知られたら、まずいんじゃないですか?」

 敏明は薄笑いを浮かべながら、問いかけてくる。あからさまな脅迫だった。

 千尋は顔をしかめたまま、しばし、言葉を探していた。

「……ちゃんと、対策講じてるじゃないの」

「はは、たまたまですよ」

「それも、神のお導きなのかしら。だったら私、自分の首を絞めてるってことかな」

 追いつめられているというのに、急に千尋は可笑しくなった。声を抑え、肩を震わせる。

 笑いをおさめ、ふっと息を吐いて、それから考えた。

 こんなものは公表させられない。幹也が犯罪者として社会から指弾を受けたところで、千尋には直接関係はないけれど、香穂との約束は破れなかった。たとえそのために、どんな不利益を被ろうとも。なぜなら、彼女は〝戦友〟だからだ。

 自らの身を捨てて、粕谷から千尋を救おうとした香穂の姿は、まだ瞼に焼きついていた。

「OK、警察は頼れないのね。それなら、遠藤さんがいなくても戦う。受けて立つわよ」

 千尋は瞳に力をこめて、いった。不思議と怖くはなかった。それどころか、闘志が内側で溢れ返っている。香穂が、身体に乗り移って操っているかのようだ。

 千尋の魂は、遥か彼方の軍艦島へと帰っていった。心が、再び緊張を取り戻す。どうせ、一度は捨てた命だ。第二ラウンドだろうが、第三ラウンドだろうが、いくらでもやってやろうと誓った。

 大丈夫。私だって戦える。そのための勇気は軍艦島で、あの人がくれたから。


                                  了

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