第26話 恐怖を越えろ

26


 拳銃に対する恐怖は、今までの比ではなかった。遠距離から一瞬で命を断たれる場面を想像するだけで、身の毛がよだつ。だから、絶対に失敗しないよう香穂は神経を張りつめ、できるだけ慎重にことを運んだ。

 それが奏功し、幹也は今、地面に倒れている。その姿を、弥生が黙って見つめていた。

 予め隠れておき、意表を突いて敵を斃すという幹也のアイディアを拝借したのは、別に皮肉のためではない。弥生が怪我で歩けないので、待ち伏せするしかなかっただけだ。協力を約束してくれた彼女に頼らずに幹也を殺す方法は、香穂には思いつかなかった。だから弥生をここまで運び、木片で埋めたのだ。建物と堤防の間を選んだのは、仕掛けた罠の傍まで誘導するためには、なるべく狭い場所でなければならないからだった。

 ようやく緊張が緩むと、いい知れぬ悲哀が湧き上がった。今日は何度も命を狙われたが、襲ってきたのはすべて他人だった。ところが、今回は夫だ。家族を殺さなければならないのだ。まったく、次元の違う話だった。けれど、他にとるべき道はない。そんな極限まで自分を追いこんだ夫を、香穂は恨んだ。

 なぜ幹也が、妻と子を裏切ってまで金に執着したのか、香穂にはわからなかった。夫婦生活は、特に問題なかったではないか。それとも、不満があったのだろうか。だったら、そういえばいいのに。なぜ、何もいってくれなかったのだろうか。

 妻を殺そうとするぐらいだから、たぶん幹也はよほど鬱憤を溜めこんでいたのだろう。それが今回の件をきっかけにして、爆発したわけだ。なんて愚かな人なのか。命を失うぐらいなら小出しにして、ぶつけてくれれば良かったのに。喧嘩は増えたかもしれないが、今の状況より何千倍もその方がましではないか。

 それとも、何も喋りたくないほど、彼の心は妻から離れていたのだろうか。

「遠藤さん、これからどうするんですか?」

 弥生がこちらを向いて尋ねてくる。詮無い思考から覚めた香穂は、そうね、と呟いた。

 とにかく今は、望海の救出に全力を注がなければならない。幹也の死体は、あと少しだけこのまま放置するしかなかった。

「じゃあ、弥生さんは──」

 香穂の言葉は途中で遮られた。心臓を凍らせる音が空気を切り裂く。銃声。人形みたいに弥生が後方に倒れ、壁にもたれてずるずると下へ滑った。

「ああっ、弥生さんっ!」

 自分のものとは思えない絶叫が、喉から迸った。すべての音が一瞬、遠ざかって消える。あまりのことに脚をもつれさせながら、香穂は駆け寄った。

 傍に寄ると、すでに弥生の目からはほとんど力が失われていた。紺のセーラー服が黒く濡れ、壁には赤い色が散っている。胸の染みは、じわじわと広がっていった。

 一目で香穂は、もう取り返しがつかないことを察した。半ば塞がった弥生の瞳を、なす術なく見つめる。

 少女の視線が、香穂のそれと数秒、絡み合った。

「遠藤さん。私、死……」

 何かいいかけた弥生は、最後まで終えることができなかった。

 静止した薄赤い唇は、もう開かれない。瞼を閉じている弥生は眠っているみたいだ。香穂はどうしたらいいのかわからず、積まれた木片を崩して我が子のように弥生を抱きしめた。雨に濡れた彼女の身体は、すでにどうしようもなく冷たかった。

 空白になった頭は、遺されようとしたつづきの言葉を探していた。弥生は「私、死にたくない」と訴えたかったのだろうか。それとも、単に「私、死ぬの?」と尋ねたのか。自殺を願っていた彼女は、「死ねて良かった」と呟いたのだろうか。

 わからない。わからないし、悩んでも意味はなかった。二度と、弥生の命は戻らない。ちゃんと幹也が死んだかどうか確認すべきだったのにと悔やんだが、後の祭りだった。

 次の行動に移る気力が湧かなかった。けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。虚無感に全身を蝕まれながら、そっと、弥生から身体を離した。

 振り返って見ると、トカレフを胸に置いた幹也の両目は虚ろだった。今度こそ彼は、完璧に死んでいた。

 また香穂は、意味のない思考に捉われた。彼は死の直前に、弥生を道連れにしたのだろうか。それとも意識が混濁して、指が勝手に引き金を引いたのだろうか。どちらだろう。

 この疑問に対しては、後者だと無理やり結論を出した。でなければ、幹也が屑すぎる。いくらなんでも、そこまでかつての夫を貶めたくなかった。

 香穂は立ち上がり、幹也の死体を見下ろした。

「なんでよ」激しい怒りが、口をついて出た。「あなた、コロッケの食べ歩きがしたいとか、くだらない夢しか持ってなかったじゃないの。人を殺す必要なんかなかったでしょう? 馬鹿。大馬鹿っ!」

 大声で叫んでから、痛いほど下唇に歯を立てる。それから、自分を鼓舞して幹也のポケットを探り、予備の弾丸か携帯を持っていないか調べた。千尋がミステリーから得た知識によると、トカレフの装弾数は八発だそうだから、拳銃は見る必要がない。というより、残弾の確認方法を知らないので、チェックのしようがなかった。

 何も手に入れられなかった香穂は、弥生の手から小刀を取り、その場を去った。

 思い描いていた結果が得られず、香穂はうつむいた。重さを加えた心は、果てしなく沈んで浮上しなかった。

 前方から、千尋が近づいてくる。香穂はそのまま歩き、彼女の前で脚を止めた。

 何か話そうとしても、何も出て来ない。言葉というものは、これほどまでに硬かったのか。そんな疑問を持つほど、喉に引っ掛かって辛く感じた。

「先生」

 ようやく出て来た。

「弥生さんも、幹也も死んじゃいました……」

 そう口にした途端、その怖ろしい現実が再度胸を覆った。堪えきれず、目尻から涙が溢れる。衝撃を受けた表情の千尋は、息を呑んだまま立っていた。

 止められなかった。香穂は千尋の前で、声を上げて泣いた。


 台風が体内にも侵入したみたいだった。香穂の胸は、滅茶苦茶にかき乱されていた。

 一番大きなものは、悔恨だった。幹也の死を確かめなかったのは、これ以上ない明白なミスだ。弥生は動けず、止めを刺せないのだから、香穂が代わりにやるべきだったのだ。銃は危険だと充分に認識していたのに、なぜ詰めを誤ったのか。動かなかったから? いや、それはいい訳だ。もしかしたら無意識のうちに、直接手を下すことを避けていたのかもしれない。だったらそのせいで、死なせなくてもいい命を死なせたことになる。

 まだ中学三年生だったのに。香穂はレイプされ、精神を病み、挙げ句死んでいった弥生が不憫でならなかった。味わった苦痛の分だけ、彼女は幸せになるべきだった。でなければ、不公平ではないか。心の傷ならきっと千尋が治してくれたはずだ。それなのに……。

 加えて、夫が殺意を持って追ってきた衝撃、彼が死んだ悲しみの残滓がまだ居すわっている。それに、父親が戻らない事実を、望海にどう話せばいいのか。思うと、息が苦しくなった。自分ですら受け止めきれないのに、娘に伝えられる自信は香穂にはなかった。

「遠藤さん」

 千尋が、心持ち強い声で呼びかけてくる。

「先生、私のせいで弥生さんが」

「……」

「それに私、望海に幹也が死んだことを、どういえばいいのか」

「遠藤さん。望海ちゃんは、まだ助けだしていませんよ?」

 最も重要な事実を指摘され、香穂は背中をどやされたような感覚を覚えた。はっとして、涙を止める。

「まだ終わってないんです。本当は、遠藤さんを休ませてあげたいですけど、でも、粕谷さんが何を考えているかわかりませんから」

「はい……すみませんでした」

 そうだった。望海に伝えるも何もない。まだ、粕谷から娘を奪い返していないのだ。

 千尋のいう通り、あの男が何を考えているかは不明だ。心中を望んでいながら、それには不必要なゲームを行ったりして、首尾一貫していないようにも思える。ただ、幹也は望海を育てるといっていたから、娘の安全は保証しているのかもしれなかった。となると、あっさり望海を返してくれる可能性もある。

 だから先の展開は読めないが、粕谷と対決する覚悟だけはしておかなければならない。そのために小刀も持って来たし、取り返したメスも、前田の折り畳み式のナイフもポケットに入れてある。香穂は様々な思いから強引に意識を引き剥がし、弥生がしていたように、長刀の鞘を結んでいる紐をたすき掛けにして背負った。

 左の掌を使って、顔を濡らす涙と雨を拭う。

「いけますか?」

 厳しい表情で、千尋が尋ねてくる。弥生が死んで、千尋だって辛いはずなのに、彼女は完璧に感情を殺していた。

「大丈夫です。いけます」

 しっかりとうなずいた。過去を嘆くことは、自分には許されない。主婦だから、女だからなどといういい訳も使えない。娘は今、狂人の手の中にあり、それを救えるのは香穂しかいないのだから。

「でも、武器が心もとないですね」

 千尋は、香穂が手にしている抜身の脇差に目を落とした。弥生から聞いた話によれば、トカレフは二丁あるらしい。であれば、残りの一丁を粕谷が持っていることは自明だった。

「銃が手に入れば良かったんですけど、あの人が全部撃っちゃったから。なんで、あんなに乱射したんだろ?」

「さあ……」

「もっと、近いところで待ち伏せれば良かったですね」

 弥生を隠す作業を見られてはいけないので、30号棟からできるだけ離れた場所として66号棟を選んだのだが、それが裏目に出てしまったのだった。

「仕方ないですよ。それは、諦めましょう」

「ですね。これで戦うしかないか」

 呟いて、右手の小刀を見つめた。粕谷が銃を持っていても、幹也のようにはいかない。奴は香穂を追って来ないし、弥生はもういない。だからトカレフは、粕谷と戦うはめになった時のためにどうしても必要だったのだが、目算は外れた。作戦は、思い浮かばない。

「でもどうしようかな。銃と刀じゃ勝負になりませんよね」

「とりあえず、30号棟に向かいませんか? 歩きながら考えましょう」

「そうですね……」

 反対する理由がないので、香穂は同意した。だが、気が重かった。今までも何とかしてきたのだ。次だって勝てるはずだ。そう自分を励ましてみても、不安は消えない。それには弥生を死なせたミスも、大きく影響していた。ここまで生き延びたからといって、次もうまくいく保証なんて、まったくない。

 弱気になるな。しっかりしろ。

 香穂は気持ちを切り替えるよう、努めた。千尋が背中を向けたので、その後を追う。

 脳内で、銃との戦闘をイメージした。たとえば、まだ残っている鉄製の扉を外して、盾にして突っこむというのはどうだろう。そして、接近戦に持ちこむというのは。

 いや、駄目だ。あんなものを持って速くは動けないから、回りこまれて弾を撃ちこまれるだけ。却下だ。

 これが最後だというのに、つまらないアイディアしか出てこなかった。しかも、この期に及んでもまだ追って来る幹也の表情や、弥生の死に顔が、ともすれば頭に浮かんでくる。今日一日で、あまりにも多くのことが起きすぎた。整理されない感情が胸で渦を巻き、消化できない。こんな調子では、おそらく勝ち目などないだろう。

 早く、早く閃いて。お願い……。

 頭を悩ませているうちに、先程来た地点、31号棟に辿り着いた。そびえ立つ防潮棟の横を通り過ぎると、30号棟が姿をあらわす。

 崩壊しつつある、見るも無残な立方体。曲がりなりにもまだ残っていることが奇跡だと思えるような建築物。百年もの歴史を強烈に感じさせる荒れ果てた外観。

 そこに、香穂は「異常」を発見した。

 あれは……。

 飛び上がりそうになった。心臓が、胸郭の内側を蹴り上げた。

 矢も楯もたまらず、香穂は駆けだした。遅れて、千尋もついて来る。

「そんな。なんてことを──」

 自然と、喉の奥から呻きが洩れた。

 粕谷は、ただ二人の到来を待っているだけではなかった。他の連中とは違うやり方で、彼もまた、香穂を絶望の淵へ叩き落とそうとしていた。

「異常」は七階にあった。四角く空いた空洞の上あたりから、七本のロープが垂れている。そのうちの六本の先には、膨れ上がった土嚢袋が吊るされていた。

 そして、残る一本のロープに縛られているのは──望海だ。

 30号棟の真下まで来ると、望海の泣き声が微かに聞こえた。耐えられなくて、香穂は走りつづけた。もう、思考は不可能だった。娘の傍に行くことしか、頭になかった。

 中央の吹き抜けに沿った階段をできるだけ早く駆け上がり、七階の部屋に達する。

 香穂は、立ちすくんで茫然とした。

 目の前では床のコンクリートが穿たれ、細めの金属製の杭が打ちこまれている。すべてのロープは、その杭に結ばれていた。七本は中途まで太い一本としてつづき、ロープで束ねられているその先は、放射状になって伸びていた。かつて壁があった四角い穴の上辺に、カーテンレールのように見える長い金属が取りつけられていて、ロープはそこを通されている。望海は、右から三番目のロープで脇の下を縛られ、脚をバタつかせていた。

「ママぁ」

 泣き疲れたのか、望海の声は小さかった。想像を絶する光景だ。あまりにひどい状況に、香穂は言葉がなかった。

「お帰りなさい。いやあ、お疲れさまでした」

 相変わらずきっちりとスーツを着ている粕谷は、満面の笑みだった。その手には、刃の半分に凹凸があるナイフが握られている。女性二人を殺す際に使ったものだ。

「あなたがいらっしゃったんですから、ご主人は亡くなったんでしょうね?」

「……」

 粕谷の軽い声音に、香穂は頬を歪めた。怒りが、全身から噴きだしそうだ。誰のせいで、幹也が死んだと思っているのか。お前が仲間に引きこんだからではないのか。

「いかがでした? ゲームは楽しんでいただけましたか?」

「なにが、ゲームよ」

 香穂は低く声を発した。「結局、あなた、ルールを守らなかったじゃない」

「小坂さんと弥生さんはどうなりました?」

「死んだわよ」

「あ、じゃあゲームは遠藤さんの勝利です。おめでとう」

 粕谷はおざなりな口調でいい、手を叩いた。どこまでも、ふざけた奴だ。

 人の命を極限まで軽く扱う男。夫と弥生を巻きこみ、死へと追いやった外道。こいつだけは、何があっても許せない。激情を抑えながら、香穂は脚を一歩前に踏みだした。

「だったら、望海を返しなさいよ」

 当然の要求に、これまた当然のように粕谷は首を振った。

「それは駄目です。これから、また新しいゲームがはじまりますから」

「何ですって? 新しいゲーム?」

 厭わしい言葉の響きに、香穂は唇の端を引きつらせた。

 娘を吊るしているのは、そのためということか。九分九厘、またろくでもない話になるのだろう。聞きたくない。できれば、視線の先で得意げな笑みを浮かべている男の口を縫い合わせたかった。

 喋るのが嬉しくて堪らないのか、粕谷は口角を上げて、滑らかに舌を動かす。

「ええ、選択肢の中から一つを決めて進むアドベンチャーゲームですね。エンディングでは、私と先生が永遠の愛を得るのです」

 香穂は右手で持った小刀で、粕谷を指した。

「要するに、あんたはどうしても先生を道連れにしたいのね」

「そういうことです」

 粕谷は、短い両手を精いっぱい広げた。「さあ、先生。一緒に死んでください」

 憤然として、香穂は小刀を振った。

「ふざけないで。死にたいのなら、一人で死になさいよ」

「おや、そうですか」

 粕谷は、片眉を上げた。「本当に、それでいいのか?」と、問いたげな表情だ。嫌な予感が、瞬く間に膨れ上がった。

 彼は悠然と、すべてを束ねてるロープに近づいていく。香穂は、身体中の毛が逆立ったように感じた。

 迷う様子もなく、粕谷はまとめられているロープの一本にナイフを当てる。

「ちょっと、何をする気よ」

 濡れた身体を、悪寒が襲った。

「止めて!」

 叫んでも、粕谷は動じなかった。ナイフの波打っている箇所が往復してロープが切れ、望海の左側で吊られていた土嚢袋が落ちていった。香穂は悲鳴を上げる。遅れて、地面に衝突する鈍い音が聞こえた。

「先生が死なない場合は、娘さんが亡くなりますよ? 二つに一つです。さあ、選択肢を選んでください。どちらにするんですか? 先生ですか? 娘さんですか?」

 衝撃で、頭の中が白くなる。よろめきそうになり、香穂は慌てて床を踏みしめた。

 選ぶ?

 私に、選べというの? 私が、どちらかを殺すの?

 望海を人質にとられる可能性は頭にあったけれど、これは最悪の展開だった。香穂の喉は、急速に乾いていった。

 今のが、脅しだということぐらいは承知している。粕谷はどこに繋がっているかすべて把握していて、あのロープを切ったのだろう。けれど、香穂の返答次第では、躊躇わずに望海を結ぶロープを断ち切ることもまた、充分理解していた。

 望海のためにお前に死んでもらう。死ぬ前に夫が残した言葉が思い出された。あれは、このことを指していたのだ。すでに香穂が死んでいれば、千尋と粕谷が心中してすべては終わっていた。しかし、生きているから、望海は脅迫の材料にされることになった──

 銃さえあれば、と切実に思った。あの拳銃が使えていれば、まだ戦いようはあったはずだ。けれど今この手には、二本の刀と、メスとナイフしかない。それらで攻撃しようと近づけば、その前にロープを切られてしまう。香穂には、二人を救う手段がなかった。

 では、本当に選ばなければならないのか。

 千尋は、今日を一緒に戦い抜いた大切な人だ。彼女には、何度も窮地を助けられた。もしもアシストがなかったら、香穂の命はとうに断たれていただろう。千尋は恩人だった。

 それに、もちろん娘もだが、香穂は千尋を救いたくて、耐えて戦ってきたのだ。それなのに、ここで彼女の命を諦めるのか。まさか。

「どうしたんですか? 私はあまり、気が長い方ではないんですよ」

 言葉とは裏腹なのんびりした口調でいい、粕谷はかがんで一メートルぐらいの棒を取った。それをカーテンレール状の金属に差し入れ、ぐいっと下に引く。外れた長い金属は落ちて激しい音を立て、土嚢袋と望海が視界から消えた。目の前の杭が引っ張られてきしむ。

 望海の甲高い声が響いた。

 香穂は左の拳を唇に当てて、悲鳴を呑みこんだ。

「遠藤さん、選んでください」

 いいながら、粕谷はすべてを束ねているロープを切った。たちまち、残った六本が広がる。彼は右から三番目、望海を繋いでいるロープにナイフを当てた。

 顔を上げた粕谷の狂気を孕んだ眼が、香穂の目を直視した。

 奴は本気だ。返事をしなければ、娘を殺すだろう。

 すでに時間は、いくらも残されていなかった。

 選ぶとするなら──

 香穂は横に佇む千尋の顔を見た。千尋もまた、追い詰められた目で香穂を見返した。

 どうしようもなく、身体に力が入らない。気分はほとんど最悪で、嘔吐の感覚が喉元までせり上がった。限界まで戻したから、胃の中にはもう何も残っていないのに。

 ついに、香穂は決断を下した。

 仕方ない。

 これは、仕方がないことなんだ。

 娘を取り戻すためなら、私は悪魔にでもなると決めたはずだ。

 胸の内をいい訳で満たし、香穂は木ぎれを左右にどけて両膝をついた。

 小刀を脇に置き、身体を伏せて背中を丸め、両手を床に揃える。

「……すみません、先生」

 普通に喋ったつもりなのに、香穂の唇からは微かな声しか洩れでなかった。

「いくら謝っても足りません。本当にすみません。先生、でも……死んでください」

 語尾がかすれて、自分の耳にも、ほとんど聞こえてこなかった。

 とうとう、いってしまった。濡れた身体が寒くて堪らない。震えが止まらなかった。

 千尋の沈黙が怖ろしい。私は、他人になんということを頼んでいるのか。けれど、他に選択の余地はなかった。私は望海の母親だ。娘の命は、母親の私しか救えない。

 香穂は、剥きだしになったコンクリートの一点を凝視していた。千尋は、どんな顔をしているだろう。呆れているだろうか。もしかしたら、声が小さくて聞き取れなかったかもしれない。もう一度、お願いした方がいいだろうか。

 モカシンシューズが、伏していた目に映った。肩に、温かな感覚が下りてくる。

「土下座は止めてください」

 右手が肩に置かれている。怖くて上げられない顔を無理に向けると、千尋は微かな笑みを浮かべていた。

 繋がった手から、千尋の決意が伝わる。

 理不尽な死を受け入れ、なお笑えるこの人は、どれだけ心が強いのだろう。

「望海ちゃんの心のケアを、ちゃんとしてあげてくださいね」

 最後にその言葉を残し、千尋は背負っていたデイパックを下ろした。そして、彼女の命を奪おうとしている死神を、静かに見つめた。

 千尋は、自然な足どりで粕谷の方へと歩いていく。粕谷は嬉しそうに笑み崩れていた。

 傍観者の立場に置かれた香穂は、よろよろと立ち上がった。

 駄目だ。先生が、いってしまう……。

 幾度も死ぬ思いをして、必死になって頑張ったのにこんな結果になるなんて。ひしゃげたように胸が痛い。いつの間にか、両目が濡れていた。視界が歪み、涙が零れて落ちた。

 何の涙よ?

 もう一人の冷静な自分が、容赦なく香穂を糾弾する。

 先生を殺すのは、あんたじゃない。あの人が絶対に断らないことを、あんたは知っていたくせに。なのに、なぜ泣くの? 先生を切らざるを得なかった自分は可哀想だってわけ?

 ひと言も反論できない。泣く資格は微塵もないんだと悟り、香穂は掌で顔を拭った。

 粕谷は人生のクライマックスを迎えている表情だった。嬉々としてナイフ左手に持ち替え、右手で千尋の手を握る。二人は、一歩進めばすべてが終わる縁に脚を置いた。

 このまま放っておけば、飛び降りて二人は死ぬ。それで、望海は助かる。

 千尋の運命を想い、激しい苦痛を覚えた香穂は、思考を放棄しようとした。あとほんの少しだけ、我慢をつづければいい。なんなら、目を閉じていたってよかった。とても簡単なことだ。これ以上ないくらいに。

 確かに、私は身勝手かもしれない。ひどい人間かもしれない。でもこの場合、やむを得ないではないか。二人同時には、助けられないのだから。

 どうして、諦めるの?

 また別の自分が、問いを投げかけてきた。

 今までも諦めかけたけれど、思い直して頑張ってきたじゃないの。それで勝ってきたんでしょう? それを、どうして止めちゃうの。まだ、手はあるんじゃないの?

 先生を救えるっていうの? この状況で?

 そんなことが、果たして可能なのだろうか。疑問が強烈に、身体を揺すぶった。

 重く塞がれた胸に、さっと光が差す。一瞬にして、深い闇が払われる。

 棒立ちだった香穂は、にわかに前傾姿勢をとった。

 そう、まだだ。まだ手段はある。弥生を喪って、この上さらに千尋の命まで奪われるわけにはいかない。そんなことになったら、私は私を許せない。

 このまま先生を見殺しにしたら、私は二度と望海に親として向かえない。

 最後の一秒が終わるまで、希望は捨てるな。

 乱れていた心が一つになって収束する。断固として殺そうとする意志を、ことごとくはね返してきた「私」が戻って来た。脳が、忙しく活動を開始する。

 粕谷は千尋に何か、小さく話しかけている。その間に、香穂は限られているできることから、とるべき行動を考えた。

 答えは、すぐに弾きだされる。

 指先まで力が漲った。ゆっくりと床に置いていた小刀を取り、やがて訪れるであろう機会を狙う。もし今、香穂がアクションを起こせば、奴は千尋を引きずって身を投げるだろう。動くのであれば、油断するはずの飛び降りる瞬間。粕谷が咄嗟には反応できない時。

 ほんの少しでも近づいておきたくて、じりじりと香穂は前に進んでいく。

 大丈夫、先生ならきっとやってくれる。

 香穂は、千尋が反応してくれることを信じた。

 不要になったナイフを、粕谷は地上へ投げ捨てる。

 二人の踵が浮く。身体が、前にのめっていく。

 今だ。

「手を離して、先生!」

 叫びながら、香穂は残っている力をすべて振り絞って駆けた。

 一瞬、千尋の身体が硬直したようだった。

 二人が落下して見えなくなる。心臓が止まりそうなほどの衝撃を堪え、香穂は走った。

 縁まで達したところで、脚を止める。

 千尋は──

 いた。生きていた。右端の土嚢袋に脚を置き、ロープにしがみついている。

 良かった、と香穂は心の底から安堵した。ちゃんと千尋は土嚢袋を足場にしてくれたのだ。だが、これで危機を逃れたわけではない。粕谷もまた、落ちてはいなかった。

 彼は千尋の前の土嚢袋に立っている。まだ余裕を失っていない、薄ら笑いを浮かべた顔で香穂を見上げていた。その足元で、土嚢袋に挟まれた望海が涙に濡れた目で母親に助けを求めている。

「なるほどね、こうなりましたか……あなたは、面白い人ですね」

 粕谷はスーツの内側に手を入れる。あらわれたのは予想通り、トカレフだった。

 銃口を認めた瞬間、慌てて身を引いた。乾いた音が響き、全身が凍りつく。心中を邪魔する女を、粕谷は絶対に排除する気だ。こんな至近距離では、外す方が難しそうだった。

 粕谷のロープを切りたかったが、その程度のことは奴も予測しているだろう。千尋との死を願う粕谷は今、彼女をロープから引き剥がして飛び降りるか、あるいは手っ取り早く弾丸を撃ちこむか、どちらかを選ぼうとしているはずだ。時間は、三秒もない。とにかく、千尋を撃つ前に銃弾を使わせないと。

 怖ろしさで脚がすくむ。

 香穂は、自分を叱咤した。

──越えろ。

 恐怖を、乗り越えろ。

 香穂は今一度身を乗りだし、小刀を粕谷に投げつけた。慌てて頭を低くする奴を横目に見ながら、左端のロープに飛びつく。銃声が耳を打ったが、香穂には当たらなかった。

 ボルダリングに打ちこんだ日々の修練が、非常時でも四肢を動かしてくれた。ロープを両手の中で滑らせ、下まで落ちる。身体を土嚢袋で隠しながら、頭だけ出した。銃口が見えたので、急いで引っこむ。三発目の銃声が聞こえた。

 残りは五発。だが、このままでは腕を撃たれてしまう。

 一か八かだ。香穂は逆手に持ったメスを土嚢袋の端の上に深く突き刺し、左手だけでぶら下がった。必死の目でメスを見つめたけれど、抜けることはなかった。

 粕谷が望海の横から土嚢袋の下を覗きこんできた。反射的に香穂はメスを持った左手で身体を持ち上げ、右手でロープを握った。背中を折り曲げて、土嚢袋に靴裏を当てる。響いた破裂音は二回だ。

 これで、残りは三発。

 その調子だ。私を狙え。私だけを撃て。さすがに銃を持っていて、しかもこの距離に的がいるのに娘を人質に取る気にはならないだろう。もし当たったら、その時は死んでやる。

 意識が異様に研ぎ澄まされていた。ロープを左手に持ち替え、ずっとポケットに入れていた石を右手で取りだす。身体を戻した粕谷に、すかさず香穂は投げつけた。額に当たった石のため、粕谷は狙いを外した。銃弾は、どこかを目指して飛んでいく。

 あと、二発。香穂は左手を離して、もう一度土嚢袋に隠れた。メスを持つ拳を狙って放たれたらしい銃弾は、外れて袋を破った。

 残りは、一発。

 粕谷がまた下から銃を撃とうとする。香穂はロープを掴んで身体を引き上げ、土嚢袋の上にしゃがんだ。今度は、ナイフを投げるためにポケットに手を入れる。

 しかし、さすがに奴も同じ手はくわなかった。土嚢袋の下を覗いたのは、フェイントだ。粕谷は、あっという間に体勢を立て直した。

 銃口が、凝固した香穂にぴたりと向けられた。

 失敗か、と恐慌が全身を貫く。やはり、銃弾を全部避け切ろうなんて、あまりにも無謀だったか。

 奴の眼が、勝利の予感に輝いた。引き金にかかる指が動く。

 最後の銃声が響き渡った。

 弾丸は──下方へと消えていった。

 千尋が、タイミングよく後ろから抱きついたためだった。

「……」

 ひと言も発しなかったので、その時、粕谷が何を思ったかは知らない。彼は首をねじって千尋と視線を合わせ、それから、一本ずつ指を広げた。トカレフは落下していく。

 それを見て、千尋は両腕を下ろし、粕谷から離れた。

 ふっと雨音が耳に戻ってきた。急に緊張感を失ったせいでふらつかないように、香穂は慎重に立ち上がる。体力の、最後の一滴まで出し切った気分だった。

 乱れた呼吸を整えながら、香穂は粕谷を睨みつける。

──本当に、勝った。

 自分でも信じられないけれど、勝ってしまった。

 粕谷には、もう武器が残っていないだろう。勝利を手に入れたのは、香穂だった。けれど、喜びはない。抑えられていた怒りが、急速に燃え上がっていた。

 ただ、これからの行動は、義務的なものだ。

 この男は、生きているべきではない。すでに女性を二人殺しているし、直接手を下すまでもなく、責任能力さえ認められれば、粕谷は死刑判決を受けるだろう。だが、この島に警察が到着するまでに、こいつは何をしでかすかわからない。憎悪のためではなく、安全を図るために、香穂はやらなければならなかった。

 粕谷は笑顔で手を叩き、徐々にそれを加速した。

「おめでとう、遠藤さん。あなたの勝ちですよ」

 香穂は応えず、土嚢袋の上を渡って粕谷と向かい合った。右腕を曲げてロープにひっかけ、背負った鞘を左手で持って、刀を抜く。鞘は投げ捨てた。ロープを左手に持ち替える。

「望海、目を閉じなさい」

 粕谷から目を逸らさずに、香穂は娘に命じた。

「──返事は?」

「はいっ」

 声と同時に、香穂は日本刀を粕谷の腹に突き立てた。

 粕谷の顔から笑みが消え、前屈みになる。香穂は右手を離した。刀を腹に生やしたまま、最後の『敵』はあっけなく落ちていった。

 仰向けの姿勢で、まだ未練があるのか千尋の方に目を向けている粕谷は、もう動かなかった。香穂は黙したまま、地上に寝そべって雨を受けている男を見下ろした。

 この屑のせいで、どれだけの命が失われたのか。それを思うと、無抵抗の人間を殺した罪悪感など、毛ほども湧かなかった。小坂の時と同じ、虫を始末したぐらいの感覚しかない。当然の報いだった。

 ひたすら周囲に害悪を撒き散らして死んでいった粕谷。少しだけ、彼について香穂は考えを巡らせた。

 彼の一番の望みである心中は、とうとう実現しなかった。けれど、願いの半分は叶ったのだ。粕谷にとって、まあまあ満足のいく結果なのではないか。地獄に行けば、他の仲間も待っているだろう。寂しくはないはずだ。

 望海に視線を移すと、娘はいいつけ通りに、きつく瞼を閉じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る