第25話 映画の話
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おのれに課した義務を果たすために、幹也は引き金に指をかけた。だが、その指に力をこめる前に千尋がさっと射線に入り、両手を広げた。動きに迷いがない。予め、打ち合わせをしていたに違いない連携だった。
「くそっ」
幹也は駆けだし、千尋の横を通り過ぎてから、遠ざかる背中を的にして撃った。抵抗感は、なかった。ただ残念ながら、彼には射撃の腕もなかった。使うはめになるとは考えていなかったから、試射すらしていない。走りながらさらに一発撃ったけれど、香穂の身体は傾かなかった。
苛立って、彼は白い歯を剥きだしにした。
トカレフの装弾数は八発。予備は持っていないから、これだけで香穂を仕留めなければならない。自分の腕を考えると、無駄撃ちは避けるべきだった。できれば追い詰めて、確実に当てたい。
しかし、脚の速さは香穂の方が優っている。もはや疲れきっているはずなのに、あちこち負傷しているのに、まだ彼女は余力を残していた。
にわかに焦りが生じた。このまま逃げ切られたら、捜しだすのに時間がかかりそうだ。どこかに隠れて、明日が来るのをひたすら待つ作戦だろうか。それは、まずい。もしかしたら、望海を殺さないと約束したから、あいつは安心しているのかもしれない。
馬鹿め。俺はよくても、粕谷は何をするかわからないぞ。
余程、そう叫んでやろうかと思った。実の親には似合わないひどい台詞だが、廃墟の島で妻を追っていること自体があまりにも非現実的なため、彼は何も感じなかった。
と、香穂は走りながら振り向いた。ほんの一瞬、視線がぶつかる。
すぐに顔を戻した香穂は、少しだけ速度を落とした。
「……」
幹也は目を疑った。香穂は、互いの距離を調整しているらしい。きっと、遠い間合いから銃を使わせたいのだ。
あいつ、弾を撃ち尽くさせる気か。銃に勝つつもりなのか。
唖然としてから、感動といっていい感情の波が押し寄せた。なんという女だ。ちゃんと銃に対抗する手段も練っていたとは。確かに、それぐらいしか方法はない。幹也は拳銃の扱いに慣れていないから、割と成功率は高いかもしれなかった。
こんな時なのに、笑みが頬に沸き上がった。
これほど頭のいい女だとは知らなかった。幹也の知る妻は、料理が下手で家事もろくにできないくせに、趣味にばかり金を使う自分勝手な女だった。結婚して一年も経たないうちに彼は香穂にうんざりしていたが、何度か口論になり、妻の猛々しさに閉口して以来、心を閉ざした。ホラー映画ばかり観ていたのは、妻を遠ざけるためだ。彼にとって、香穂は同居している他人だった。
それがどうだ。実は妻は、、こんなに能力を秘めた、こんなに面白い女だったのだ。そうと知っていたら、もっと毎日の生活も変わっていただろうに。
よし、いいだろう。
あえて、お前の作戦に乗ってやる。一発残しておけば、それで充分だ。そこからお前がどう戦うか、見届けてやろう。
方針を変えた幹也は、立て続けに引き金を引いた。正確に五発。それから、追う速度を上げる。それに合わせて、香穂もスピードを上げた。
狭い軍艦島の中で、夫婦の追いかけっこがつづく。
幹也は普段、配達車で走りまわっていただけで、基本的には運動不足だ。持久力がないから、すぐに息が上がってきた。おいおい、と眉を下げる。
まさか、振り切られるのか。参ったな。いいようにやられてるじゃないか。
再び、弱気が顔を覗かせそうになった。元々、幹也は犯罪に向いているタイプではない。本当なら、不満を持ちながらも真面目に働き、平凡な人生をまっとうするはずの男だった。ただ、違う人生への分岐路に立って心を動かし、つい行動してしまっただけだ。負け癖がついている彼は、少し劣勢になっただけですぐに悲観論者へと変貌する。
馬鹿な、こっちには銃があるんだ。負けてたまるものか。
心の迷いを、幹也は振り払った。そして、気力を奮い立たせて走る。すると、香穂の脚が徐々に遅くなっていった。彼はその事実によって、当座の勇気を得た。
やっぱり疲れてるんだな。そりゃそうだ。小坂に散々痛めつけられただろうし。
ちょっとだけ、香穂に同情した。けれど、嬉しさの方が数倍優っていた。もうすぐ、けりがつく。別れたいと心底願っていたあの女を殺せば、俺の人生は変わる。
香穂は66号棟の裏側へと入っていった。幹也は、その後を追った。
つづいて角を曲がり、──そして、彼は戸惑うことになった。香穂が動きを止めている。肩で息をしながら彼女は、風で吹き飛ばされそうな小さな身体を両の脚で支えていた。
妻の死を願う男は、短い距離を置いてその相手と向かい合った。
「……ふ」
幹也は、微かに笑った。ついに、限界が来たのか。だったら、建物に入り、得意のボルダリングとやらを使えばいいのに。なんだか、呆気ない勝利だった。
ゆっくりと銃を構えた。さすがにこれだけ近ければ、弾を外す気遣いはない。
雨が冷たく皮膚を流れる。激しい風の音が絶えず耳を襲う。瓦礫が散らばり、波によって寄せられたのか、建物の壁に沿って木片がうず高く積まれていた。
なんておあつらえ向きの場所なんだ、と思った。ラストシーンに似つかわしい、荒涼とした光景だ。だが映画とは違い、正義が勝つのではない。現実で笑うのは、悪い奴の方だ。
そういえば、香穂と付き合いはじめたのは、映画の話題がきっかけだったっけ。……いや、駄目だ。今は、そんな感傷に浸っている場合ではない。過去を振り返るのは、妻がきっちりと死んでからだ。
「ギブアップか? 何だよ。俺の稼いだ金を使って、鍛えまくってたんじゃないのか?」
皮肉をいい、幹也が一歩踏みだすと、香穂は下がった。香穂が一歩後退すると、幹也が前に出る。往生際が悪いな、と彼は舌打ちした。もう撃ってもいいのだが、あと一発しかないから、より確実に仕留めたかった。
山から零れたような木ぎれを踏んだ時、香穂が口を開いた。
「ねえ、一つ聞きたいんだけど」
「うん? 何だよ」
銃を持った腕を伸ばしたまま、幹也は脚を止めた。
「小坂に、私の料理が下手だっていったのは、あなた?」
まったく緊迫感のないどうでもいい質問に、苦笑が浮かんだ。
「ああ。そんなこと、いったかもしれないな。それがどうした?」
「私、てっきり望海が喋ったと誤解してたから。危うく、あの子を叱るところだったわ」
「そうか、でもお前は死ぬからな。そんなの、もう関係ないだろ」
「違うわよ」
香穂の表情が、いきなりがらりと変わった。彼女は、強烈な視線で幹也を射た。
「死ぬのは、あなた」
刹那、灼熱の感覚がわき腹を貫いた。
すぐに刀が引き抜かれ、血が溢れだす。激痛に耐えながら、彼は驚愕の目を横に向けた。
木片が動き、流れて落ちる。からからという音が風に混じる。
ショートカットの黒髪に囲まれた、凛々しい顔だちが視界に入った。
木ぎれの山からあらわれたのは、右手に小刀を持った弥生だ。
身を潜めてずっと機会を待っていたらしい弥生は、しかし勝利を喜ぶふうもなく、感情のかけらもない目で幹也を見つめている。
「あ……」
幹也は現実を認めることができず、喘いだ。弥生の怪我については聞かされて知っていたから、彼女の姿が見えないことには、何も疑問を抱いていなかったのだが……。
──まさか、待ち伏せに弥生を使うなんて。俺は引っかけられたのか。これを狙っていたというのか。そんな。
じゃあ、俺は死ぬのか。
銃に安心していた幹也は、自分が死ぬ瞬間など想像もしていなかった。負けるかもしれないと怯えることはあっても、本気で信じてはいなかった。なのに死を突きつけられ、彼は焦った。理不尽だ、と怒りすら覚えた。
左手で傷口を押さえてもどうにもならず、身体から急速に力が抜けていく。意識が薄れていく。終わりだった。幹也はぼんやりと、本当に悪が負けるんだな、と思った。
左脚が崩れ、幹也の身体は横から倒れる。仰向けになった彼の目に、雲が映った。
最期に聞く香穂の声が、耳に達する。
「馬鹿ね。これ、あなたが考えた方法じゃないの。ゾンビ映画の話、忘れた?」
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