第24話 会いたくなかった人
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心の整理など、とてもではないが不可能だった。
西村と前田が持っていた鍵で手錠を外してから、じっくりと話し合った結果、誤解をといた弥生は色々と経緯を教えてくれた。それを聞かされた時、香穂が感じたのは怒りと、深い哀しみだった。そうであってほしくないと、強く願っていたことが否定され、背中を丸めて肩を落とした。できれば、子供みたいにひたすら泣きたかった。
必死になって戦った末に待っていたのは、辛すぎる現実だった。なぜだろう。香穂が観てきた映画では、敵との戦いを繰り広げた主人公は必ずといっていいほど恋人や家族と抱き合い、幸せなエンディングを迎えた。それに比べて、この身が置かれた状況は何なのだ。頑張った結果に与えられる報いがこれかと思うと、香穂は神様を恨みたくなった。
けれど、嘆いている暇はなかった。何があろうと、たとえ世界をすべて敵に回しても、望海だけは救いださなければならない。香穂はなるべく意識を空にし、何も感じまいとした。これから前に立ち塞がる者は、すべて敵。殺すのに、逡巡してはならない。そう、自分に強く命じた。
千尋と並んで、香穂は歩いていく。それにつれて、緊張が高まっていった。彼女の予想では、30号棟に着く前に必ず、彼があらわれるはずだった。
防潮棟である、横に長いへの字形の31号棟が近づいてきた。
思った通り、そこに人影があった。見たくなかった、会いたくなかった人だった。彼は香穂たちに気づき、近寄ってくる。
香穂が立ち止まると、千尋も脚を止めた。彼は五メートルほどの距離を開けて、立った。
「なんでお前、生きてんだよ」
彼──幹也は香穂を咎めるように、いった。
「……」
香穂は唇を閉ざしていた。そんな不条理な非難をされても、返事のしようがない。
幹也は昨日の夜と、何も変わっていなかった。雨に濡れた少し面長の顔に、厚い唇。頬がちょっと強張っているだけで、彼は香穂が知っている夫に間違いなかった。けれど、その内面は、もはや想像の及ぶところではない。
「なんだ、驚いていないみたいだな」
つまらなそうに、幹也は口先を突きだした。びっくりしてあげた方が良かったらしい。
「弥生さんに、話を聞いたから」
「そうか」
「前田と西村が生きている時点で、もしかしたら、って疑ったけどね」
「うん」
「弥生さんも、そりゃあ嘘を信じるわよね。当の旦那から、母親が子供を虐待してるって聞かされたら」
「……」
「私、高校の時、男たちを使ってレイプさせたんですって? よくそんな嘘がつけるわ」
突然、押さえが外れて、香穂は饒舌になった。「振り返ってみれば、おかしい点はあったのよ。昨日の晩、あなたは女の子と目が合ったっていってたけど、あの距離で、あの闇の中で、そんなこと起きるはずないものね」
「……」
「でも私、粕谷があなたを刺した時、右手か左手か、覚えていなかったのよ。だから、左手であることを祈った。わかる? 私、粕谷が裏切ってあなたを殺していることを願ったのよ? こんな再会、したくなかったから!」
「俺だって、何も知らずにお前に死んでほしかったさ。この手で殺したくはなかったしな」
幹也は表情を消して、いう。わかってはいても、夫の口から「殺す」なんて言葉を聞くのは、辛かった。私が嫌いなのか、と思う。ずっと連れ添ってきたのに、愛情はなかったのか。死んでほしいほど、憎んでいたのか。
「そう、絶対に殺す気なのね」
「そりゃな」
「目的はお金なの?」
「ああ」
「馬鹿馬鹿しい。あの女の子たちの三千万ぽっちでしょ? その分け前? その程度のお金のためにあなた、仕事も家族も捨てるっていうの?」
「仕事は一ヵ月前に辞めてる」
これには、さすがに驚いた。息を大きく吸いこんで、止まる。
「何? ずっと嘘ついてたの? 会社に行く芝居までして?」
「そう。望海が誘拐された後は、金に目が眩んでいるふりをしたりしてな。慌てふためく演技よりも、そっちの方が楽だから」
「呆れた」
香穂は首を振る。話をすればするほど、夫への情が消えて、憎しみだけが募った。その方が良かった。でなければ、一線を越えるふんぎりがつけられない。
「軍艦島クルーズに参加したのも、偶然じゃなかったの?」
「ああ。粕谷が事前に島を見せといてやれっていうからさ。その流れに持っていくために、店の正面にある、あのホテルを選んだんだよ」
「緑茶には睡眠薬は入ってなかったの? あなた、全部飲んでたけど。私が必ず『どちらでもいい』と答えるような、何か、心理的トリックを使ったとか?」
「いや、それはないよ。だから、俺も眠ったんだ。どうせ島まで運んでくれるし。──と考えてたら、粕谷に無理やり起こされて、朦朧としながら歩いたけどな」
「……そうですか。それはご苦労様」
香穂は、痛んでいる側の頬を歪めた。それから、目を見開く。「そうだ。ホテルで私を抱いたのは、何だったの? もしかして、最後のお別れがしたかったとか?」
尋ねると、幹也は肩をすくめた。
「ああ、あれか。違うよ。眠れとはいったものの、今寝かせたら、睡眠薬の効果が悪くなるんじゃないかと考え直したんでね」
「あ、そういうことだったの」
急に衝動がこみ上げ、香穂はけたけたと笑った。何もかも、あまりにひど過ぎてもはや笑うしかない。これが夫の本音かと思うと、いっそ清々しかった。
笑い声は、いつまでもおさまらなかった。千尋が、同情の視線を送ってくるほどだ。
しばらくしてから、香穂は表情を引きしめた。
「あなた……望海も殺すの?」
返事を聞くのが怖かったけれど、あえて香穂は訊いた。
「いや、まさか。心配するな。お前が死んでも、ちゃんとあいつは俺が育てるから。望海のためにも、お前には死んでもらわなきゃ」
「?」
幹也が何をいっているのか、香穂にはわからなかった。
「でも……ちょっと安心したわ。あなたにも、親の自覚がまだ残っていて」
「じゃあ、死んでくれるか?」
「もし、あなたのことを黙っているっていったら? 警察にいわないって約束したら?」
視線を合わせているのが辛くて、うつむきながら香穂は小さく声を零す。幹也は数秒黙りこみ、それから笑声を爆発させた。
「あははは、未練だな。悪いが、断る。信用できない」
「どうしても、私を殺すのね?」
「そうだ。どうする? その刀を使うのか?」
香穂が右手に持っている日本刀を、幹也は顎でしめした。
「それでも、無駄だけどな」
幹也はジャケットの内側に手を差し入れた。
彼が取りだしたのは、黒い拳銃だった。映画やドラマなどで見るのと同じだ。現実感が希薄だった香穂は、急速に警戒のレベルを上げた。
残念そうに、幹也は眉を下げる。
「やっぱり、驚かないな。これも、弥生から聞いていたか?」
「ええ。西村が暴力団と繋がりがあって、彼のツテを使って、トカレフを手に入れたって。前田は窃盗の前科があって、ピッキングができたし。二人を仲間に入れたのは、そういう利用価値があったからなのね。でもさ、拳銃まで普通、使う?」
「俺だって、大げさだと思ってたよ。でもお前、ここまで生き延びたからな。結果的には正解だったってことだ。ほんと、お前はすごいよ」
香穂は地面を蹴るために、軽く右の踵を浮かせた。
「褒めたって、駄目よ。もう離婚だからね」
「捨てないでくれなんて、すがる気はないさ」
幹也は右手でトカレフを構える。両目に宿った殺気の炎を、香穂は哀しく眺めた。銃口を向けてきたその速さに、ひどく胸を痛めた。
妻の命を奪おうとする幹也は、もはや夫ではない。この男は、『敵』だ。
最後の絆を断ち切った香穂は、彼に背中を向け、走りだした。
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