第23話 懊悩
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できれば、その時が来てほしくないと、彼はずっと望んでいた。
そして、来るはずがないと信じていた。粕谷とともに30号棟にいた彼は、その報告を受けた時、これで結着がつくと、ほっと胸を撫で下ろした。安堵したのだ、人の「死」に。正確にいうと、死ぬであろう未来に。
高橋の死を知らされ、動揺した。さらに弥生の敗北を聞かされて、驚いた。しかし、小坂が二人を捕えたという。奴はサディストで、色々と用意をしていたから、香穂が徹底的にいたぶられることは承知していた。それでも、自分が直接手を下すよりは、ましだった。どれだけ香穂が悲惨な目に遭おうと、見なければそれで済む。顔を逸らして、なかったことにすればいい。その程度の欺瞞は、彼にとって何でもなかった。
彼は一階と二階を繋ぐ階段に座っていた。そこにいれば、望海の泣き声が耳に入らないし、粕谷を待つこともできた。彼は両腕を脚に乗せてうつむき、この島を出た後の生活に思いを馳せていた。それは、甘く芳しい香りを放っていた。素晴らしいものになる予定だった。それまでの彼は奴隷だった。会社、金、妻、すべてが彼を縛っていた。そんな煩わしい、うんざりするものどもから、ついに解放されるのだ。彼の胸は、喜びに満ちていた。
その前に、少しだけ悲しい報せを聞かなければならないけれど。
髪の薄い頭頂部が近づいてくる。粕谷だった。外に様子を見に行って、戻ってきたのだ。
彼は、心の準備を整えた。粕谷は「香穂は死んだ」と告げるだろう。そのうち、小坂たちも戻ってくるだろう。気味の悪い連中だ。だが、仲間である以上、しょうがなかった。金のためなら、まぁ我慢はできる。それに、明日になればすぐにおさらばできる。二度と会うこともないと思えば、多少愛想よくして付き合うぐらい、どうということはない。
「すごいですよ。生きてます。先生と一緒にこちらに来ますよ」
粕谷の言葉は、期待していたものではなかった。彼は、勢いよく立ち上がった。
「本当か? 小坂は?」
「殺されたんでしょうね」
「西村と前田は?」
「ああ、彼らね。襲ったんでしょうが、返り討ちにあったんですかね。いやはや、能力の高さは知ってましたけど、怖ろしい女性ですよ。楽しませてくれますね、あの人は」
彼は数秒の間、目を閉じた。来てほしくない時が、本当に来てしまった。信じられなかった。いきなり望海を発見してゲームオーバーになっても、西村と前田が張り切っていたから、彼らが片づけてくれるものと思いこんでいた。問題はなかったはずだ。ところが香穂は五人も斥けて、なお生きているという。あいつは、化け物か。
一瞬、弱気の虫に取り憑かれた。もしかしたら、正義は勝つ、という言葉は本当なのかもしれない。自分は、あの女に敗れるのかもしれない。
しかし、すぐに負け犬根性が染みついた考えを振り払った。
決然と、彼は階段を下りていった。
「どこへ行くんです?」
上から、粕谷の尋ねる声が響いた。
「俺が殺る。残念ながら、お前の準備はすべて無駄だ」
「そうですか。私も本当にこういう展開になるとは思っていなかったんで、別にいいですけど。ただ、先生には手を出さないでくださいよ?」
「わかってる」
「いってらっしゃい。31号棟前で待っていれば、会えますよ」
粕谷の不快な声を聞きながら、彼はサマージャケットの胸の部分を手で押さえる。それさえあれば、香穂の命を奪うのは簡単なことだった。
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