第22話 ゲームの終わり

22


 人の身体に直接刃物を突き立てた感触は、百貨店で購入した黒毛和牛の肉に包丁を入れた時のことを思い出させた。人生で一度だけ味わった柔らかい弾力に似ていた。

 抵抗感は、もちろんあった。けれど、香穂は躊躇わなかった。それは、積もりに積もった恨みのせいでもあるし、刀を使わせた千尋に負い目を感じたということもある。人を刺す、なんてことを彼女に強制した以上、自分が逃げるわけにはいかなかった。それに、どうせ助からないのだから、早く楽にしてやるのは、むしろ優しさだろう。それを死ぬ前に、小坂が理解したかどうかは知らないけれど。

「あんたが悪いんだからね、化けて出て来たりしないでよ?」

 小さく死体に語りかけ、香穂はメスをポケットにしまう。一応、小坂が携帯を持っていないか調べ、それから教室を後にした。

 学校の玄関を通って外に出ると、千尋が足元から飛沫を散らして駆け寄ってきた。

「遠藤さん」

 千尋の表情は心配げに歪んでいた。「平気なんですか?」

「え、何がです?」

「だって。そんなに、ぼろぼろになって……」

 いわれて、そんなにひどいかな、と首を傾げた。確かにあちこち痛いし、Tシャツの両袖には血が滲んでいるし、脚には根性焼きの跡がある。でも、元気だ。ようやく小坂を斃し、興奮しているせいかもしれない。まったく、いつ殺されてもおかしくない状況から、よくぞ生き延びたものだ。小坂が香穂を見くびって、チャンスを与えたから助かったのだ。

 それから、奴を殺せたのはすべて千尋のお陰だ。

「この程度の怪我なら、生きていれば治りますから。命がこうしてあるのは、先生が手を貸してくれたからです。ありがとうございました」

 香穂は、深々と頭を下げた。

 千尋と再会したのは偶然だった。小坂から逃れて学校を飛びだした時に、日本刀を抱えてグラウンドを歩いている彼女と出くわしたのだ。千尋さえいれば、何とかなる。大喜びした香穂は、すでに頭にあった計画を急いで説明し、協力してもらったのだった。

「でも、すみません。とうとう先生に人殺しをさせてしまって」

 つづけて、香穂は謝る。この良家のお嬢さんのような人の手を、血で汚してしまったことは本当に申し訳なかった。「人の命を救うために、医者を目指した」という千尋には、精神的にとても辛かったはずだ。

 千尋は、首を左右に振った。

「いいんです。仕方がないですから」

 そう、仕方のないことだった。仮に香穂が日本刀を持って立ち向かっていたら、またゴルフボールで撃退されて終わっていただろう。だから、奴を怒らせ、向かって来させて、罠に嵌める方法を取ったのだ。小坂が近づいてきた時にタイミングを見計らって合図を出し、後ろから千尋に刀で突かせる。それは、彼女の目から小坂を隠すためでもあった。相手を直視すれば、迷いが生じる。腕が委縮して、動かないかもしれない。それを、香穂は怖れたのだった。

「でも、上手くいって良かったですね。小坂さん、武器を持ってたでしょう?」

「これですか?」

 香穂はポケットからメスを取りだした。

「それそれ。じゃあ、一つ間違えば危なかったんですね」

「ええ。でも先生が機敏に反応してくれたから、うまくいきました」

 香穂は笑みをつくってみせた。それから、真顔になる。「それより、先生。どうやって縄を抜けだしたんですか?」

「ああ」

 今度は、千尋が笑ってみせる。「それは、望海ちゃんの話を参考にしたんです」

「え……。ええと、もしかして、あれですか?」

「はい、そうです」

 千尋は微笑んだ顔で、うなずく。香穂は、呆気にとられた。

 娘の話といえば、あれしかない。休憩中に、長々と語って聞かせた望海のエピソードのうちの一つだ。娘が外へ出ていかないように手足を縛っておいたにもかかわらず、逃げだしたという思い出。あの話を、千尋は覚えていて実行したのか。

 種明かしは、家に帰って来た娘から聞いた。なんでも、娘は縛られる時に両手を横にくっつけていたらしい。その後、手首をねじって拳を縦に合わせれば、隙間が生じる。そうやって縄抜けを行ったという。娘は推理アニメを観て、そのやり方を知ったようだ。

 だが、そんな手段ははっきりいって子供だましだ。無知な母親は欺けても、小坂には通用しないだろうと考え、香穂は試みようともしなかった。

「あれ、バレなかったんですか?」

「普通にやったらバレるでしょうから、少しアレンジしました。親指を合わせて手首を合わせていると見せかけて、ちょっとだけ離して斜めにしたんです。そうやって小さな隙間をつくっておいて、後はひたすら手首を動かして縄から抜けました」

 いわれて見ると、千尋の手首には痛々しいすり傷ができていた。

「だから、時間がかかっちゃって。縄を外してからは、たぶん小坂さんが元々潜んでいたDエリアにいるんじゃないかなと推測して、遠藤さんを捜してまわりました。そうしたら運よく、病院に置いてあった刀を見つけたんです」

 感動に、心を揺さぶられた。石で高橋を殴った時もそうだが、千尋はこちらから求めなくても懸命に頭を働かせ、香穂を助けようとしてくれる。必要な時に必ずサポートしてくれる、実に頼もしいパートナーだった。

「もう先生、結婚してください」

 冗談めかしていうと、千尋は朗らかに笑った。

「私も望海ちゃんの母親になるんですか? じゃあ、早く娘を助けなきゃ」

「そうですね」

 香穂は明るい声で返答した。

 もはや憂いはない。小坂という最大の障害を取り除いた以上、怖れるものなどなかった。すでに望海は発見しているし、残る『敵』は弥生だけだ。彼女が襲ってくることは多分ないから、勝利はほぼ確定だった。あとは21号棟に戻って、娘を留置場から出せばいい。

 心なしか、雨が以前よりも弱まってきた感じがする。台風が遠ざかっているのかもしれない。それもまた、香穂は運が向いてきた証拠のように感じた。


 鞘に収めた日本刀を千尋から受け取り、香穂は意気揚々と歩を進めた。人を殺した後なのに、気分がいいというのが少し不思議だった。小坂を、ほとんど人だと認識していないせいかもしれない。

 小坂に関しては、香穂は千尋から話を聞こうとしなかった。あんな気色の悪い奴の事情など知りたくもない。ピエロの扮装をしていたし、ジャグリングが上手かったから、どうせ奴は大道芸人か何かなのだろう。香穂に対する暴力を楽しんでいたから、SMとか、その手の趣味があったのかもしれない。死姦に関しても、パフォーマンスではなく、暴力性の発露だったのではないか。奴は、あんなことを喜んでやっていたに違いない。挑発にかなり怒っていたから、きっと推測は当たっているはずだ。

 つまりは特殊な性的嗜好のために、小坂は粕谷に手を貸し、ゲームに参加したのだ。馬鹿なんじゃないかと香穂は胸の中で吐き捨てた。それで命を落としたのだから、話にならない。もっともくだらない死に方の一つなのではないだろうか。

 うん、やっぱりあいつはどうでもいい。香穂は、小坂を記憶から消去することにした。

「傷、痛みませんか?」

 千尋は香穂の状態が気にかかるのか、しきりに尋ねてくる。見た目がひどいし、医者だから放っておけないのだろう。

「痛いのは痛いですけど、血は止まってるし、問題ないでしょう。腕も動きますし、まだ戦えといわれたら、戦えますよ」

 あまりに千尋が心配するので、香穂は強がって胸を張った。そんな縁起でもない、と彼女は顔をしかめる。もちろん本音では、もう戦いたくはなかった。疲労は激しいし、さすがにこれ以上、血が流れるのを見たくはない。

 そんなことよりも、望海だ。一度は母親と再会できたのに、また一人残されて、不安に苛まれているだろう。早く救いださなくては。

「あの子を、あんなところに閉じこめて……」

 思い出すだけで動悸が激しくなり、気が急いてくる。

「こんな目に遭って、PTSDにならないでしょうか、先生」

 不安が嵩じて、香穂は尋ねた。誘拐なんて、普通の子供は体験しない。しかも、さらった連中は揃いもそろってろくでなしばかりだ。当然の心配だった。

 千尋の表情が、真面目なものに変わる。

「可能性はありますね。ですので日常に戻ったら、よく望海ちゃんを見ていてあげてほしいです。不眠などの異常がつづくようであれば、病院でカウンセリングを受けてください」

「もし、あの子が病んでしまったら、先生が診てくださいますか?」

「ええ、それはもちろん」

 しっかりと千尋はうなずき、請け合ってくれた。

 怒りが、またぶり返してきた。犯罪とはそもそも不条理なものであるのだろうが、それにしたってひど過ぎる。なぜ、平和に暮らしていたのに、よりによって自分たち家族が巻きこまれなければならなかったのか。夫は死に、もう取り返しがつかない。たとえ慰謝料として一億円貰っても、到底納まりがつかなかった。

「まったく、何が一億円よ」

 腹に据えかねて、香穂は呟いた。

「高橋とか、どうしてあんな嘘を簡単に信じられるんでしょう。馬鹿なんですかね」

「さあ、どうでしょう……」

「しかも、一億のために人を殺そうとまでして」

「お金は犯罪における、最もポピュラーな動機でしょうけどね」

「それはそうですけど」

 控えめに指摘され、香穂は黙りこんだ。でも、お金なんて所詮紙切れではないか。そんなもののために、道を踏み外すのは絶対に間違っている。一億に心を捉われた夫も高橋も、結局死んでしまったし。なんだか教訓めいた話だな、と思った。

「あ、そうだ」

「どうかしました?」

「あの子ったら、小坂に私の料理が下手っていったんですよ。あんまりでしょう? それについては叱っておかなきゃ」

「あのう、それは後回しにしてあげてください」

 苦笑して、千尋はいった。


 すでに香穂は、娘を救いだした後のことに思いを巡らせていた。

 まずは一番に、弥生の様子を見にいこうと心に決めた。ゲームが終われば、彼女を怖れる必要はない。あれだけ香穂を憎んでいたのだから、ルールを無視して攻撃してくるかもしれないが、武器がないのだから、どうしようもないだろう。すでに意識を回復して、移動しているかもしれないけれど、一応弥生を残してきた57号棟を覗いておきたかった。

 それから、粕谷から二人の男の子も受け取り、全員の安全を確保してから、あいつを警察に突きだしたい。粕谷には、おのれが犯した罪をしっかりと償わせたかった。

 しかし、香穂たちを解放したら、あいつはどうするつもりなのだろう。千尋によると元から自殺願望があったみたいだし、もしかしたら一人でも死ぬ気かもしれない。その場合、どうすればいいのだろう。自由にさせてやるべきだろうか。それとも、思いとどまらせ、司直の手に委ねるべきだろうか。

 そんな選択肢で頭を悩ませていると、21号棟に辿り着いた。香穂は千尋と一緒に階段を上り、派出所跡に入っていった。

 望海、と大きな声で呼びかけながら、香穂は進んでいく。

「……」

 香穂は、忙しく瞬きすることになった。まったく想像していなかった事態だった。

 留置所の南京錠は外された状態で、掛け金にぶら下がっていた。望海はいない。けれど、あれが幻覚ではなかった証拠に、おまるやデイパックは残されていた。ただ、娘の姿だけが消えていた。

 希望を一瞬で破壊されてしまった香穂は、激しく狼狽した。

「え、なんで?」

 香穂は唖然として、千尋と狭く薄暗い留置所を交互に見た。「どういうことです?」

 千尋も、困惑の表情だった。

「ええと、南京錠が開いてますから、鍵を持っている人間、つまり粕谷さんが移動させたんでしょうね」

「えっ、そんなルールありましたっけ? 発見されたら、ゲームマスターは自由に望海の場所を変えられるとか?」

「そういう話はなかったですけどね」

 千尋は首をひねっている。

 香穂は眉をひそめた。記憶を探ってみても、千尋のいう通り、そんなルールはなかったという結論しか出ない。では、まだゲームを終わらせたくなくて、粕谷は新しいルールを設定したのだろうか。

 けれど、たとえ隠し場所を変えたとしても、もう『敵』は弥生しか残っていない。そうなると、主たる敵はタイムリミットということになるのか。

 あるいは──粕谷が、新たな『敵』になるとか?

 それは、大いにありそうだった。となると、また戦わなければならないわけか。

「どうしましょうか?」

 不安げに千尋が訊いてくる。香穂はきっぱりと答えた。

「とにかく、状況がわかりません。追加のルールがあるならあるで、説明してもらわなきゃ。30号棟に戻って、粕谷に話を聞きましょう」

「そうですね」

 千尋は吐息を洩らし、うなずいた。

 胸の内側に、暗い気分がどんどん降り積もっていく。まだ何もわからないが、確実にいえるのは、悪夢はまだ終わっていないということだった。


 甘かった、としかいいようがなかった。

 望海を移動させたルール破りの行動は、千尋の命に対する執着をしめしている。仲間を集め、周到な準備をして、千尋を拉致した粕谷なのだ。やはり、そう簡単に諦めるはずがなかった。ということは最終的には、あの狂人と対決しなければならないのではないか。

 香穂は、手にしている日本刀を強く握り直した。だとしても、問題ない。あちらにナイフがあるのと同様に、こちらにも武器がある。最初に捕まっていた時の自分とは、すでに大きく違った。今の香穂は、粕谷と戦っても負けない自信を持っている。

 ただ、胸に居座る不安は、どうしても拭えなかった。

 21号棟の南側は、他と変わらない陰鬱な外観の建物だった。ふと気になって千尋に尋ねると、22号棟だという。公務員用の住宅で、中には老人クラブなどがあったそうだ。

 千尋はAエリアの建物について、まだ充分に話していなかったことに気づいたらしい。また説明をはじめた。曰く、波を防ぐ役割も担う31号棟は鉱員住宅で、ここには元々商店街があったが台風によって破壊され、その跡地に建てられた。それから25号棟には、島で唯一のスナック「白水苑」があった。13号棟は壁が一定間隔で凹んでいる珍しいデザインになっている。8号棟と12号棟は鉄筋と木造が組み合わさった建物だ……。

 いったん火が点くと、千尋のお喋りは止まらない。もはや聞いてもあまり意味はないと思ったけれど、何が役に立つかわからないので、香穂は我慢して耳を傾けた。

「──きゃああっ!」

 ふいに解説が途絶え、悲鳴が響きわたった。同時に香穂は、首に巻きついたビニールの感触を覚えた。日本刀を持った右手はすでに押さえられている。

 愕然として、千尋に目をやった。彼女は透明なレインコートの下にグレーのストライプシャツを着た男に背後から抱きつかれ、動きを封じられている。その手には銀色に輝くナイフが握られていた。目が細く据わっていて、こんな事には慣れている印象だった。

「奥さん、俺たちは殺らないでくれよ」

 耳元で囁かれ、はっとして首を背後に回した。香穂の後ろにいるのは、これも透明レインコートで身を包んだ、青いTシャツの男だった。太めの身体と、その上にある膨らんだ頬には見覚えがない。ただ、記憶がちりちりと刺激される感覚があった。

「なによ、あんたたち! こんなのルール違反でしょう?」

 息がかかる距離にある男の顔に向かって、香穂は叫んだ。

「ああ、ゲームね。小坂は殺したのか?」

「……ええ」

「そうか。だったら、ゲームは終わりだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、身体から一度に力が抜けていった。

 ああ、やっぱり。香穂は息を洩らした。粕谷は、ルールを守る気はまったくなかったのだ。では、ゲームは千尋と心中する前の、単なる余興に過ぎなかったのか。一緒に死んでもらうのが申し訳ないから、せめてその前に楽しませたかったということか。

 日本刀を取られ、奪われたメスの刃先が背中に当てられた。容易く武装解除された香穂は、暗い虚無感に捉われた。あんなに意気軒昂だったのに、しっぺ返しのように、所詮自分は暴力に疎いただの女であることを思い知らされる。思えば、今までは一対一、実質二対一でこちらが数では有利だったからまだ戦えたのだ。一度に男二人となっては、いくらなんでも無理だった。

 男たちは女の細腕に玩具の手錠を嵌めた。玩具といっても見たところ頑丈で、簡単には壊れそうにない。千尋が見事にやってみせた脱出劇は、この場合期待できそうになかった。つまり小坂に捕まった時よりも、状況はすこぶる悪い。

 命じられて進みながら、これからどうなるのか、香穂は予測しようと試みた。千尋は、心中を求める粕谷のために捕えられたと見るしかない。では、自分は? 初め、粕谷は香穂を殺すつもりはなかったようだが、この二人も同じ意見かどうかは不明だ。

 ゲームが終わったのなら、私を殺す意味はなさそうだけれど……。

 追い立てられて、ひたすら歩かされる。香穂たちが連れていかれたのは、島中央の頂きにある3号棟だった。

 背中をつかれ、階段を上って、四階にある一室に入っていく。

 と、香穂はぎょっとして息をつめた。

 所々剥がれかけた板間の上に、セーラー服を着た弥生が横になっている。男たちが片づけたのか、木ぎれなどは見当たらなかった。

 弥生は入ってきた四人を見ると、半身を起こした。壁に背をもたせかけ、あの熊のぬいぐるみを抱き寄せる。その瞳はどこか虚ろで、焦点が合っていなかった。

 なぜ弥生まで、と驚いたが、考えてみれば不思議でも何でもない。彼らはみんな、粕谷の「一味」なのだから。

 弥生の右の足首の辺りが、赤く腫れ上がっていた。地獄段から落ちた直後よりも、腫れは範囲を広げている。骨が折れているのだろうか。そんな心配をしていると、背中を突きとばされ、転んだ。千尋も同じ目に遭い、二人は部屋の隅で身体を寄せ合った。

 部屋の中は服やコンビニ弁当の容器などで散らかっている。旅行鞄も、二つ置かれていた。その様子は、彼らがこの場所を根城にしていることを窺わせる。けれど、3号棟を捜索した時には誰もいなかったはずだ。すると、何か理由があってここに移動してきたのか。

 レインコートを脱いだ男たちは、余裕を漂わせた目で二人を見下ろしている。やっぱり慣れている、と感じた。今まで戦った『敵』たちは三者三様だったけれど、犯罪に関しては(あくまで推測だが)素人だという点で、共通している。それに対して、この男たちは明らかに異質だ。きっとこいつらは元々犯罪者に違いないと、香穂は確認した。

「あんたたち、粕谷の仲間なのね?」

 香穂は、相手をあまり刺激するのは得策ではないと計算し、穏やかに訊いた。とにかく、こいつらの意図がどの辺りにあるのか、探らなければならない。

「仲間、ねえ」

「そういうんじゃねえよな?」

 二人は互いの顔を見て、苦笑を交わし合っている。

「何よ、診療所で粕谷と知り合ったんじゃないの?」

 そう訊くと、二人は爆笑した。細い目の男は腹を抱え、太った方は背を反らせている。

「おいおい、あんなイカれた連中と一緒にするんじゃねえよ」

「そうだよ、失礼だぜ」

「この人たちは、患者ではないですよ」

 横から千尋が言葉を挟むので、香穂は彼女に視線を移した。

「忘れましたか? 30号棟で、あなたのご主人と一緒に殺された人たちです」

 頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。

 遅ればせながら、やっと思い出した。いわれてみれば、目の前の男たちは粕谷に惨殺されたはずの二人だった。あの時は部屋がうす暗かったし、なによりまさか生きているとは思わなかったから、香穂は千尋に指摘されるまで気づかなかったのだ。

 それでは、なぜ殺された男たちが、ここにいるのか。

「どう……して?」

「粕谷さんは、ナイフを二本持っていましたから。片方が本物で、もう一方が押せばひっこむマジックナイフだったんでしょうね」

 淡々と千尋はいう。ああ、なるほど、と得心した。そういえば、女性の方は何度も突き刺したりしていたけれど、男を刺す時は一度だけだった気がする。こうして、二人がぴんぴんしているのだから、千尋の推理が正しいのだろう。単純なトリックだ。

「なんで、そんな芝居をしたのよ!」

「その先生にショックを与えて、一緒に死んでもらうためだとよ」

「血糊まで仕込んで、阿呆らしかったけどさ。でも、頼まれたからしょうがねえだろ?」

 男たちは口々に答える。香穂は、茫然とした。

「じゃあ、あの女の人は奥さんじゃないの?」

 尋ねると、また二人は笑いだす。

「んなわけねえだろ。あいつらは風俗嬢だよ。ソープの女だ」

「だったら、子供は?」

「はいはい、シンジとショウね。そんなガキは存在しないよ」

 目の細い男が嘲笑した。もはや言葉がない。前提が大量にひっくり返されて、香穂は大げさにいえば世界が崩壊するような感覚を味わった。

 そんな。全部、嘘だったのか。けれど、よくよく考えてみれば、子供三人をいっぺんに誘拐するなんて、ほとんど不可能だ。まずは、そこで疑うべきだったのか。

「どうする? 説明してやるか」

「いいんじゃないか。どうせ時間はあるんだし」

 二人は相談を交わし、太った男の方が改めて口を開いた。

 彼らの名前は、目の細い男が前田、太った男の方が西村というらしい。二人はソープランド店に勤務していて、そこへ新しく従業員として入ってきたのが、粕谷だったそうだ。

「で、あの女、歩美と綾っていうんだけどな。あいつら、すっげえ金貯めてやがんだよ。合わせたら、三千万ぐらい。それを何とかできねえかな、とこいつと冗談半分に話していたら、粕谷が口を挟んできたんだ。『俺が二人を殺して、自殺してやる。お前らは金を奪うだけでいい』ってな。こんなおいしい話はないだろ? だから協力してやったのさ」

「……」

 西村の説明を聞いても、香穂はまだ、何もいえなかった。代わりに「では、私に見せたビデオも芝居だったんですね?」と、千尋は尋ねた。

「その通り。映画を撮るって、あいつらを騙してな。だから、下手だったろ?」

「そうですね、今から思えば。あの人たちは、長崎へはどうやって?」

「映画の撮影旅行だといって、連れてきたさ」

「そのことを口外しているかもしれませんよ?」

「大丈夫だ。売り上げに響くから、店の女を連れだすなんて、当然やっちゃいけないことなんだ。だから口止めしたら、あいつら簡単にうなずいてたよ」

「お金は首尾よく奪えたのですか?」

「まあな。前田がピッキングできるから、長崎に二人を連れて来た後、こいつだけが東京に残って、あいつらのマンションから通帳や判子、キャッシュカードなど、すべて盗みだしたよ。暗証番号は、ちょっと殴ったらすぐに吐いたしな」

「ゲーム中は、あなた方はどうしていたのですか?」

「粕谷に頼まれて、21号棟にいたんだよ。ガキを閉じこめてた派出所があるところな。お前らがガキを救いだしてゲームが終了したら、知らせてくれって話だったんでね」

「では、小坂さんに私たちが捕まったところも見ていたんですね?」

「ああ。その後、弥生が脚を引きずって歩いているのを見つけてな。この、3号棟だっけか。ここに運んで、ついでに俺たちも移ってきたのさ」

「なぜ3号棟に?」

「万が一、お前らが小坂を殺した場合、その奥さんを俺たちが始末しなきゃいけないんでね。ただ、刀の存在がネックだったんでな。だから少々用心して、背後から襲うために、高いところから見張っていたのさ」

「望海ちゃんを留置場から移動させたのは、粕谷さん?」

「そうだ。発見されたことを教えてやったからな」

「では、ゲームの報酬として提示されていた一億は?」

 西村は、勢いよく鼻を鳴らす。

「ふん、馬鹿馬鹿しい。宝くじが当たっただって? そんなの、あるわけねえだろ」

「遠藤さんは、百万円を受け取ったそうですが」

「知らねえな。粕谷の金じゃねえのか? 多少は貯蓄があったみたいだし、それで他の連中に渡す金やら、色々賄ったみたいだから」

「そうですか、大体わかりました」

 千尋は、納得した様子で黙りこんだ。

 一方、香穂は全然納得できなかった。粕谷は人手が必要だから、この二人を引きこんだのだろう。けれど、そのために、何の関係もない女性を二人も殺すなんて……千尋ならここまでしなくても、たとえば望海を殺すと脅しただけで、簡単に心中に同意したはずだ。どう考えても、余計な犠牲だった。

「で、だな。ここまで話せばわかってくれるだろうが、どうしてもあんたたち二人には死んでもらう必要があるんだ。俺たちの顔を知られたんだから。できればゲームで死んでほしかったがな。いやあ、小坂に捕まったあんたらが戻ってきた時はびっくりしたよ」

 西村がそんなことをいうので、思わず香穂は反論する。

「顔を見せたのは、あんたたちじゃないの」

「いや、30号棟で一度見てるだろ? あんたは忘れてたみたいだが。でもあんたの証言と死体の数が合わなければ、警察は興味を持つに決まっているし、いずれにせよ、あんたには死んでもらわなきゃならないんだよ。どうせ罪は全部粕谷が被って死んでくれるしな」

「……嫌よ」

 彼らの目的を知り、香穂は首を縮めた。すぐには手を出さなかったので、少しだけ希望を持っていたのだが、やはりこいつらは最初から殺すつもりだったのだ。

「そらそうだわな。同情はするさ。でも、諦めてくれよ。ただ、どうしても弥生があんたを殺したいっていうから、手を下すのはあいつに任せるけど」

 前田は、親指で壁際の弥生を指ししめす。それで、香穂はわざわざ3号棟へ連れられてきた理由を理解した。

「弥生さん、まだそんなに私を殺したいの?」

 気色ばんで問いかけたが、弥生は答えない。ぼうっとした瞳を香穂に向けているだけだ。

「そうなんだとよ。なんか知らんが、恨まれたもんだな」

 前田は、細い目を糸のようにして笑った。香穂の心拍数が速くなる。彼らの動機は卑俗で、だからこそ生々しく胸に迫った。自分が死ぬしかないことを、丁寧な説明によって思い知らされてしまった。すぐ傍まで近づいた死は、手で触れそうなほどの現実感を伴っている。怖い。怖くて堪らない。

「ということなんだが。なあ、弥生。もう少しだけ待ってくれよ。いいだろ?」

 唐突に背後を振り向き、前田がいった。弥生は黙ってぬいぐるみを抱いている。

「いいってさ」

「いってねえじゃねえか」

 二人は下卑た笑みを浮かべている。不穏な空気を感じ取り、香穂は身体を小さくした。

「何なのよ」

「台風が去ってくれなきゃ、島から出られないからな。それまで暇なんだよ。死ぬ前に、少し相手をしてくれないか」

「どういうこと?」

 うっすらと意味を理解しつつ、香穂は尋ねた。

「わかんだろ?」

 前田は香穂の腕を掴み、強引に壁から引き剥がした。肩を両手で握られ、背中から倒される。生温かい息が顔にかかった。そういうことか、と香穂は唸った。

 こいつら、私をレイプする気なんだ。

 無駄と承知していても、本能が香穂に抵抗を促した。声は出さずに、手錠を嵌められた両手を突きだす。当然、男を押し返すことはできなかった。軽くあしらわれ、右手だけで手錠の鎖を上方に押さえられる。細い目が近づいてきて、口が唇を覆った。

 香穂は呻き、歯を必死に噛み合わせて舌が侵入するのを防いだ。唇の上を、ねっとりとした感覚が這いまわる。千尋の悲鳴が響いて、耳に届いた。

「おいおい、先生はまずいんじゃないか?」

 顔を上げた前田が西村に声をかけた。

「いいだろ、どうせ死ぬんだし。せめてその前に、先生にも楽しんでもらった方がさ」

「粕谷が怒るぜ」

「怒らせとけよ。あんなイカレ野郎」

「まぁ、そうだな」

 くく、と前田は押し殺した笑いを洩らした。

 千尋の痛切な叫びが、胸に突き刺さる。だが、現状ではどうしようもなかった。香穂はあえて彼女のことは意識から閉めだし、急いで思考をまとめた。

 もう、このままレイプされるのは確定事項だろう。諦めるしかなさそうだった。もちろんこんな奴らに身体を開くのは嫌だけれど、殺されるよりはましだ。

 それよりも、確認しておかなければならない重要なことがある。

「ねえ」

 香穂は正面の前田に話しかけた。

「なんだよ?」

「私は殺してもいいから、娘の命だけは助けて。それだけは約束して」

 切実な声音で、香穂は哀願する。

「ああ、俺たちはガキには会ってないからな。殺す予定はないよ」

「……そう」

 安堵して、香穂は身体の力を抜いた。

 おとなしくなった唇に、改めて前田が吸いついてきた。今度は逆らわず、うねうねと動く舌を受け入れる。男が段々と、興奮を強めていくのが感じ取れた。

 前田が濡れたTシャツをたくし上げ、背後に回った。彼は器用に、ブラジャーのホックを片手だけで外した。

 胸をまさぐられながら、香穂は考えた。望海の安全は確認できたのだから、あとは自分たちが助かる方法を探すだけだ。犯したいのであれば、自由にさせておき、その間に頭を使う方がこの場合正しいだろう。下手に抵抗して怒らせ、殺されたら元も子もない。

 この状況はむしろ、かなりましだと解釈できた。時間を稼げるのは、とても有り難い。香穂はまだ、諦める気などなかった。せっかく生き延びたのに、ここで殺されるのは嫌だ。千尋だって助けなければならない。自分なら、必ずそれができると思った。

 手段があるとすれば──、それは日本刀だ。刀は今、入り口の近くに置かれている。あれをどうにかして取り戻すことができれば、手錠のハンデを覆して、二人を斃せるかもしれない。けれど、一体どうすれば……。

「前田さん、西村さん」

 乳首に舌を使われている時に、二人に呼びかける声が聞こえた。抑揚のない、小さな声。弥生のものだった。

「なんだ?」

 盛り上がってきたところを邪魔され、前田が面倒くさそうな口調でいった。

「色々と聞きたいんだけど。でも、一つだけでいいから教えて。その人と先生をレイプするの?」

「あん?」

「犯すの?」

 動きを止めた二人は顔を見合わせた。今さらの質問が、可笑しかったようだ。前田が笑みを頬に刻んだ。

「そうか、ガキには刺激が強すぎるよな」

「隣の部屋に連れていってやるか」

 やれやれ、といいたげな調子で西村が応じた。弥生に対しては、彼らは優しさを持っているらしい。こんなゴミみたいな連中でも、仲間意識があるのだろうか。

 弥生は、大きくかぶりを振った。

「そんなんじゃないよ」

「じゃあ、なんだよ」

「レイプするなら、私が相手してあげるよ」

「はあ?」

 西村が、素っ頓狂な声を上げる。びっくりしたのは、香穂も同じだった。

 千尋によれば、弥生は強姦されて、心を病んでいるという話だ。彼女は人一倍レイプを憎んでいるはずだった。なのに、どうして二人を誘うのか。弥生の中で今何が起きているのか、香穂には読めなかった。

 もしかして、千尋のために身代りになりたいのだろうか。

「何を生意気な、ガキのくせに」

 まだ笑いながら、前田がいう。

「ガキでもちゃんとできるよ?」

 弥生は左脚を動かして、股を広げた。それから、膝を立てる。横たわった香穂の位置から、スカートの奥が覗けた。下着は千尋が脱がしたから、彼女は何も穿いていない。香穂は目を逸らした。

「いや、でもお前、脚が痛いんだろ? 動けないんじゃなかったのか?」

「激しくしなければ、大丈夫だよ」

「ううん」

 困惑している様子の西村は、頭をかく。

「俺は、ぬいぐるみ抱いているようなガキとヤる趣味はないんだがな」

「いいんじゃない。してよ。口でするのも上手だし、二人いっぺんに相手できるよ」

 なかなか乗ってこない男たちを弥生は執拗に誘う。その瞳に、香穂を追いまわしていた時の光が戻っていた。獲物に牙を立てようとする目だった。

「でもなあ」

「そんなに私、魅力ない?」

 弥生は声に落胆を滲ませる。ここまでいわれたら、と二人はその気になったようだ。

「……わかったよ」

 諦めたようにいって、西村はポケットからもう一つ手錠を取りだし、千尋の脚にかけた。それから、弥生の方へと歩いていく。

「前田さんも来て」

「ああ、いいよ」

 前田は簡単に応じた。彼は西村よりは、中学生とのセックスに抵抗はなさそうだ。前田もまた、香穂の脚を手錠で拘束した。

 膝をついた西村は弥生の顎に手を当て、唇に顔を寄せる。擦れ合う舌が覗いた。いったんはじめたら、彼は積極的だった。そこへ、前田が歩いていく。弥生はぬいぐるみを抱きしめたままだ。見たくない痛々しい光景だったが、なぜか香穂の目は引きつけられていた。

 前田の手が弥生の太腿に置かれた。その時。

 何が起きたのか、香穂にはまるでわからなかった。ぬいぐるみの裏で動いていた弥生の左手が、いつの間にか刀の鞘を握っていた。

 弥生は素早く鞘から刀を抜く。彼女は、香穂に負けた時と同じ失敗は犯さなかった。間断なく右手が動いて、二人の腹を刺す。これでは防ぎようがなく、勝敗は二秒で決した。

 男たちの苦悶の声が噴き上がった。溢れだす血を逃すまいとするように、西村と前田は傷口を押さえ、仰向けに倒れた。

 人を刺しても、弥生には動揺する気配もない。

 見えたのは、短い刀。弥生が手にしているのは、脇差だった。

 ようやく、香穂は理解に至った。

──あの子、刀をもう一本、ぬいぐるみの中に隠していたんだ。

 香穂は弥生の意図を誤解していた。彼女は身代わりになる気などなかった。脚を怪我して動けないから、男たちをおびき寄せて、殺したかったのだ。考えてみれば、粕谷が千尋と死にたがっている事実を彼らは平然と口にしていたから、さすがに弥生も騙されていたことに気づいただろう。その上、香穂と千尋が犯されることになった。レイプ犯を心から憎んでいた弥生は、その瞬間、二人の殺害を心に決めたに違いない。

 まだ二人は呻いていた。弥生は両膝と左手で身体を支え、右手だけで前田と西村の身体を交互に刺した。血が飛び散り、すぐに二人は動かなくなる。それでも、彼女は止めなかった。前田の身体に馬乗りになり、無表情のまま何度も、刀を抜いては突き下ろした。

「もう止めて!」

 耐えかねた声音で千尋が叫ぶと、やっと小刀を振るう腕が止まった。

 弥生は、ふうっと大きく息を吐く。

 返り血を浴びたその顔は、恍惚として輝いているように香穂の目には映った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る