第21話 一撃

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 廃墟の中で赤々と燃える円形の炎は美しく、幻想的な趣すら伴っていた。その中心で、香穂が縄を外そうと懸命にもがいている。その姿は面白く、見ていて飽きなかったが、ガソリンを含んだ口が気持ち悪かったので、小坂は廊下に出た。

 他の準備したものが置いてある隣の教室に入る。そこで、水を用意するのを忘れていたことに気づいた。ここまで持ってくる予定だったのに、ペットボトルはまだ、最初に潜んでいた三階の教室の中だ。どうするべきか迷ったけれど、急げば問題はないと結論を出し、小坂は階段を駆け下りた。こんなことになるのなら、火なんか噴くんじゃなかったな、と後悔した。

 教室に入ると、小坂はデイパックからペットボトルを取りだした。それから、すぐに五階に戻る。腕時計を確認すると、まだ一分経っていなかった。大丈夫、いくら手首を緩めに縛ったといっても、さすがに三分ぐらいはかかるだろう。

 廊下でがらがらとうがいしながら、小坂は考えた。身体能力の高い女だし、あいつはそのうち教室から飛びだしてくるはずだ。焼け死にたいのであれば、話は別だが。しかし、もう少し香穂で遊びたいので、できればこれぐらいは自力で切り抜けてほしかった。

 この次の授業は、体育の予定だった。体育館に連れていき、首に縄をかけて引きずりまわすつもりだ。そして香穂が力尽きた時、じわじわと絞め殺すのだ。きっとあの女は死の恐怖に慄き、いい表情をしてくれるだろう。想像するだけで、小坂は勃起した。香穂をいたぶっている間中、彼はずっと性的興奮を覚えていた。そのクライマックスである絞殺の瞬間は、きっと最大限の喜びが得られるに違いない。楽しみで仕方なかった。

 さらにその後は、待ちに待った香穂の死体を犯す時がやってくる。すでに今日何度射精したかわからないぐらいだが、新たな死体が相手であれば、まだまだ可能だ。人生で最高の一日だった。この喜びを与えてくれた粕谷には、いくら感謝しても足りない。

 それにしても──

 いくらうがいしても、ねちゃっとした絡みつく感覚がなくならなかった。小坂はとうとうペットボトルをほとんど空にした。そして、ようやく気づいた。油は水をはじくから、いくら口を漱いだって、ガソリンを取り除けるわけがないのだ。調子に乗って初めて火を噴いてみたのだが、なるほど、勉強になった。

 時間はいつの間にか、二分を過ぎていた。

 口内の不快感を我慢して、腕時計の秒針を見つめる。針は一周まわって、レゴ人形の頭上をさした。ついに、三分経過だ。

 小坂は、ちょっとした落胆を覚えた。

 なんだ、まだ逃げられないのか。ちゃんと抜けだせるように手心を加えたのに、この程度で死んだら、興醒めもいいところだった。まぁ、かなり痛めつけたから、もう体力が残っていなかったのかもしれない。

 失望に肩をすくめる。だが、小坂はすっかり忘れていたとても大事なことを思い出した。

──いや、待てよ。あいつは壁を降りられるんだった。まさか、すでに脱出したんじゃ。

 オーバーアクションが癖になっている小坂は、その場で飛びはねた。

 しまった。目を離すべきじゃなかった。

 香穂を捕まえてから初めて、小坂は狼狽した。クライマックスがまだなのに、大事な獲物を逃がしたら大変だ。軍艦島に来た意味の、半分以上は失われてしまう。

 小坂はペットボトルを放りだし、教室に駆けこんだ。

 そして、ほっと胸を撫で下ろした。

 香穂はまだ炎の中心に倒れていた。縄は手も脚もすでに解いているのに、まったく動かない。見たところ、意識を失っているようだ。

 おかしいな。煙は、ほとんど出ていないのに。

 何にしろ、つまらない奴だ。小坂はいっぺんに、香穂に対する興味を失った。女にしては強気で、常に歯向かってくるから面白かったのに、こんな簡単なお遊びで気絶するとは情けない。もういっそこのまま放っておいて、焼き殺してやろうか。

 だが、死体が炭になって犯せなくなったら困る。ここまで彼女は頑張ってきたのだし、この程度は許してやるべきだ。そう、彼は思い直した。

 しょうがねえな、と呟き、小坂は赤い輪に向かって歩み寄った。

「……」

 突然、香穂がはね上がった。

 反射的に、小坂は立ち止まる。香穂はまだ燃えていない机の脚を掴み、炎をこちらに向けて突進してきた。意表を突かれたため、彼は避けられなかった。

「があっ!」

 強烈な熱を感じ、小坂は腕を暴れさせた。机は弾かれて、燃えている机と衝突する。

 見ると、服に火が移っていた。慌てて手で叩き、それでも消えないので、廊下に飛びだして転がった。それで、やっと消火できた。

 火傷を負った箇所が、鈍く痛みを訴えている。ひりひりする顎を摩りながら、小坂は首を左右に動かした。香穂の姿は、すでにどこにもなかった。

 くそっ、やられた。

 尻をついたまま、小坂は拳で廊下に堕ちている石を叩いた。あいつ、意識がないふりをして、俺が近づいてくるのを待ってやがったんだ。ずる賢い女だ。

 臍を噛んだ小坂は、焦る胸を宥めた。弄んでいる間に、逃げられることも想定の内だ。一億円はいらないので、最終的にはゲームのルールなど無視するつもりだった。千尋は捕まえてあるから、あの女を殺すと呼びかければ、隠れていてもどうせすぐに出てくる。急ぐ必要はどこにもなかった。

 それよりも、消火だ。火の手を広げることは許されなかった。学校全体が燃え上がり、それを発見されたら大騒ぎになる。台風が接近している今、島に近づく馬鹿はいないだろうが、自分たちも現状下では動きが取れないのだ。脱出の際に問題が生じたら大変だ。

 急いで追いかけたい気持ちを押し殺し、小坂は隣の教室に用意していた消火器で炎を手早く消した。それから、階段を駆け下る。

 しかし、あんなにいたぶってやったのに、まだ逃げだす気力を残していたとは。小坂は感心した。なんて遊び甲斐のある奴なのか。素晴らしい女だ。では、もう一度捕まえたら、もっと徹底的に、あいつの心が完全に折れるまで痛めつけてやろう。

 また、別の「授業」を考案しないと。小坂は、新たな意欲で燃え上がった。問題ない。俺の頭には、アイディアはいくらでも湧きでてくる。たとえば「課外授業」と称して、キャンプファイヤーをやるのはどうだろう。そこで、死体の内臓を焼いて、無理やり食わせてやればいい。 

 子供が、ほしくて堪らなかった玩具を与えられたようなものだった。小坂は、人生の絶頂に立っている気分だ。暗い欲望に塗れていても、彼はあくまで陽気だった。あれこれと楽しく思考を巡らせながら、一階まで下りた。

 と──小坂は大きく目を剥いた。

 廊下の奥に、頬を痣で黒くした香穂がいるのだ。

 彼女は仁王立ちになり、凄まじい目で小坂を睨んでいる。白かったTシャツや短パンは黒ずみ、刺された傷から流れた赤が色を添えていた。なかなか、ひどい姿だ。

 小坂は理解ができず、混乱した。

 なぜだ。なぜ、逃げないんだ?

 香穂は身を翻し、教室に駆けこむ。慌てて、小坂は女を追った。

 走りながら、悩んだ。記憶に間違いがなければ、あそこの教室の窓には金網がすべて残っていたはずだ。自ら退路を断つなんて、あの女は馬鹿なのか。小坂は首をひねった。先刻は、素晴らしい演技で俺を欺いたのに。奇妙な女だ。

 教室に足を踏み入れると、壊れて木枠だけが残っている窓を背にして、香穂は立っていた。相変わらず瞳に怒りを湛え、小坂に強烈な視線を浴びせてくる。

「……」

 床板を軋ませ、小坂は右足を踏みだした。理に合わない行動をする女の真意を計ろうとしても無意味だ。それよりも、早く香穂を捕まえなくては。

「あんたは」

 歩み寄ろうとした小坂は、香穂が喋りはじめたので、脚を止めた。

「本当に、本当に人間の屑だわ。どうしようもないわね」

 ひたと小坂に目を据えながら、香穂は怨嗟を吐きだす。「ネクロフィリアっていうんでしょう? あんたは死体を犯したいだけなのよね? とんだ変態だわ。反吐が出るわよ」

「……」

 小坂は唇を引きしめた。いい返したかったけれど、演出のために直接の会話は封印したので、それもできない。代わりに、ポケットに入れてあるメスをそっと握りしめた。

「ああ、それと弱い女を殴ると楽しいのよね? それで、あんたのやっすい自尊心が満たされるの? ちっちゃい男ね。ここまで情けない奴、初めて見たわ。ねえ、生きてて恥ずかしくないの?」

 淀みなく女は喚く。放っておけば、際限なく罵詈雑言をまき散らしそうな勢いだった。

 瞬間、小坂は殺害を決意した。まだ遊びたい気持ちはあるものの、やむを得ない。これ以上の侮辱には耐えられなかった。もうひと言だって、この女に喋らせるわけにはいかない。その上で、おのれの行為をしっかりと後悔させてやらなければ。メスで腹を抉った後は、舌を切り取ってやろうと彼は決めた。

「私があんただったら、とっくに自殺──」

「やかましいっ」

 禁を破って叫んだ小坂は右手にメスを持ち、香穂に向かって駆けた。たぶん、いいたい放題いって、鬱憤を晴らしたかったのだろうが、挑発した結果に思いが及ばないなんて、やっぱりこいつは頭が悪いのだろう。まだ俺が殺さないと信じているのだ。馬鹿女め。身体にメスを突き立てられてから、思いっきり悔やむといい。

 あと、数歩駆け寄れば手が届く距離だった。身体から飛び散る鮮血の映像が、すでに小坂の網膜には映っていた。それは、心躍る光景だ。また興奮しそうだった。

 香穂は、表情を変えない。

 違和感を覚えた時、香穂はさっと右手を上げて水平にした。

 何のつもりか、と訝る時間もなかった。腹に、重い衝撃が来た。何が起きたのか、咄嗟には、小坂は理解できなかった。

 見下ろすと、日本刀が小坂の下腹に刺さっている。すでに血が滲み、水玉よりも大きな赤い円を形づくっていた。

「う……あ……」

 切れ切れに、小坂は呻く。これは、弥生が持っていた日本刀だ。利用されないように、ちゃんと端島病院に置いていたのに、なぜ……。

 信じられない思いで、女に目を戻す。香穂は小坂の顔に刺すような視線を張りつけたまま、身体を横にずらした。

 小坂は、驚愕した。

 そこにいたのは、身体を丸くして小さくなっている千尋だった。刀の柄を、両手で握りしめている。桜色の唇が震えていた。そんな千尋と、視線が絡み合った。

 小坂は現実を認識せざるを得なかった。千尋が香穂の脇から、金網の隙間を通して刀を突きだしたのだ。右手を上げたのは、合図だったのだ。

 こいつ、邪魔になるだけだから、66号棟に残したのに。自力で逃げだしたのか。

 刀が抜け、小坂は仰向けに倒れた。頭を強く打ったが、そちらの痛みより腹の痛みの方が強い。血が、どんどん溢れだしていた。それとともに、死が確定的なものになっていく。

 目に映る汚れた天井が、タイの安宿を想起させた。唐突に、小坂は我に返った。

 どうして俺は、こんなところにいるんだろう。

 大道芸人として、一流になるのが夢だった。観客を喜ばせ、拍手を受け、それを糧に生きる人生を目指したはずだった。少しぐらい貧乏でも、好きなことをして飯が食えれば、それでいいと思っていた。それがどうして。なぜこんなことに。

 痛みが激しかった。死を覚悟した小坂は、せめて早く楽になりたい、と願った。

 その時、手にしていたメスが香穂によって奪われるのを感じた。

 小坂の横に膝をつき、香穂は憎悪をこめた鋭い視線を下ろしている。

 けれどその瞳に、一片の慈悲があるように彼は感じた。

 ありがとう。

 小坂は胸の内で礼をいい、初めて、香穂に済まないことをしたと感じた。

 逆手に持たれたメスが落ちてきた時、小坂は目を閉じ、おのれの死を受け入れた。

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