第20話 端島小中学校

20


 死んだ女性の膣内で果てたピエロは身繕いすると、何事もなかったような態度でどこかに行ってしまった。

 死体を見たくないので、香穂は項垂れていた。この世のものとも思えない異常な光景を目の当たりにして、頭はまだ混乱していた。娘との再会が喜びの絶頂なら、今はどうしようもない最悪の気分だった。

 ここまで状況が急激に悪化する体験は覚えがない。娘の姿を一度は目にしたのに、これで助かると安堵したのに、今は数分先の命があるのかどうかすらも判然としなかった。あのピエロを殺せばもう立ち塞がる『敵』はいないが、それができるとはとても思えなかった。たとえこの縄を解けたとしても、ゴルフボールのせいで、あいつには近づくことさえ叶わない。その上、異様なものを見せつけられて、戦意をすっかり喪失していた。粕谷よりも、あのピエロは数倍も気持ちが悪い。あんな奴に、勝てる気がしなかった。

 とんとん、と指で肩を叩かれた。顔を上げると、ピエロがいる。彼は相変わらず口をきかないまま、香穂の脚の縄を解いた。再び、場所を移動するらしい。

 立たされ、また背中を押されて、香穂は歩いた。今度こそ、殺されるのかもしれない。恐怖が、急激に胃の辺りから立ち昇った。屠殺されるために運ばれる家畜の心境だった。

 香穂が連れていかれたのは、端島小中学校の前だった。

 ここで、腕と腰の縄も外された。ピエロは、じっと香穂を見つめる。その態度は何か、意味ありげだった。

「……何なのよ」

 苛立った声で尋ねる。しかし、まだ殺すつもりではないと悟り、内心ほっとしていた。  

 ピエロは、雨に濡れて皺になったスケッチブックを開いた。

〝今度は君の芸を見せて〟 

 その文章を読んで、香穂は眉根を寄せた。ピエロは、さらにつづいて紙をめくる。

〝この学校の壁を登ってみせて〟

 そんなふうに書いてあった。ピエロは、香穂がボルダリングを趣味としていることを知っているのだ。

 意図は理解したけれど、香穂は沈黙したままだった。

 いいたいことは、沢山あった。まず「今度は」って何だ。あのグロいショウが芸だとでもいうのか。死姦が芸か。それにボルダリングは、別に芸なんかじゃない。

 黙っていると、またピエロが紙をめくった。すると〝七階の上にはシンジ君とショウ君がいるよ。無事に君が登れたら二人は殺さないよ〟と、書いてある。

 驚きに、香穂は唇を開いた。

 予想外の提案だ。二人の子供については、正直いって、頭から外れていた。ゲームには直接関係ないから、どこにいるのかという疑問に関しても深くは悩まなかった。漠然と、粕谷と一緒に30号棟にいるのではないかぐらいに考えていただけだ。

 心がぐっと傾いた。助けられるというのなら、むろん助けたい。けれど、これは重大なルール変更だ。いいのだろうか。彼らにとって、二人の子供はどうでもいいということか。

「本当? ここを登りきれば、二人は助かるのね?」

 勢いこんで訊くと、ピエロは新たな紙を見せる。そこには〝シンジマショウ!〟と書かれていて、「シンジ」と「ショウ」の横に点が打たれていた。

 こんな時に、ダジャレか。

 不快感を覚えて、香穂は舌打ちした。

 やむなく端島小中学校を見上げ、壁面をチェックする。増築された最上階も含めた七階建ての多くの窓は割れ、空洞のようになっているところも多々あった。おそらくボールで割られないために張られたのであろう金網も、所々剥げかけている。とても危険な状態で、こんなところを好んで登る馬鹿はまずいないだろう。しかも、雨も風も強い。何もかも、最悪だった。

 窓は見たところ、木製サッシでガラスが壊れていなければ、香穂の体重を支えてくれそうだ。しかし、潮で腐食するから、鉄製の部分は信用できない。登るのであれば、排水パイプも、金網も、できるだけ利用したくなかった。が──排水パイプはともかく、金網はかなり残っているから、使わずに済ますのは不可能だった。

「──いいわ、登ってやるわよ」

 香穂はピエロに向かって挑むようにいった。ここを登りきるだけで、二人の命が救われるのであれば、やるしかない。

 香穂の言葉に、ピエロは大きな笑みをつくってうなずいた。

 千尋がいないから、デイパックに入っているクライミングシューズが使えないが、仕方ない。香穂はポケットに入れていたチューブからチョークを出して、掌に擦りつけた。

 まずは一階の窓に張られている金網を引っぱって強度を確かめ、両手の指をかける。そして右脚を上げて、スニーカーの裏を金網に押しつけた。網目に爪先が入らないのでほとんど腕力を頼りにして、香穂は登っていった。

 入り口の庇の上には、簡単に立てた。ふっと息を吐きだし、すぐにまた壁に向かう。

 滑らかな動きで、香穂は二階の金網を登った。窓の上の張りだした部分に両手をかけたところで、さらに右脚を乗せる。ランニングシューズで試したことはないけれど、ヒールフックを使った。爪先を外側に向け、体重を乗せて一気に右手で窓下の出っ張りを掴んだ。

 次いで、左脚を出っ張りに乗せる。ここまでは順調だったが、左手で掴んだ金網が少し剥がれてひやりとした。思った通り、腐食は相当激しいようだ。

 両足で出っ張りに立ったところで、香穂は小休止をした。

 それにしても、この調子では、結構腕の力を使いそうだ。これでは早々に両腕がパンプするのではないかと不安になった。大体、ホールドのないこんな壁なんて登った経験がないのだ。勝手があまりにも違いすぎた。

 三階も金網がかなり残っているので、香穂は二階の時とほぼ同じ手順で登った。そして、四階に達したところで、周囲を見まわした。

 すぐに金網がついていない、ほとんど壊れていない窓が目に入った。香穂は壁に身体を這わせながら横移動し、その窓の木製サッシに両手をかけた。次に、右脚を窓枠に乗せようとする。

 右脚に徐々に体重をかける。すると、下の窓が簡単に内側に外れ、教室の床でがしゃんと音を立てた。窓枠は折れ、上のガラスも落ちて割れる。

「うっ!」

 びくりとした。乗ってからでなくて良かったと、ほっとする。香穂は、やっぱり窓も当てにはならないんだなと、いったんは考えた。

 破片が落下しなかったかと思い、あんな奴を心配する義理はないのだが、一応、香穂は視線を下方に向けた。

「……ん?」

 地上のピエロは、こちらを指さしている。奴は、腹を抱えて笑っていた。小さいので、気味の悪い自動人形のように見えた。

 そこで、香穂は気づいた。

 そうか。触ったら窓が壊れるように、予め細工していたのね。

 ただ単純に登らせているだけではなかったのだ。香穂が慌てふためく様が、奴にとっては面白い見世物なのだろう。なんという陰湿な男なのか。

 心臓が、怒りと恐怖で活動を速くした。目を閉じ、落ち着こうと努める。こんな時こそ、冷静に判断しなければならない。でなければ、すぐに落下してしまう。

 まだ残っている上階を見上げながら、香穂は思考した。ただでさえ危ない状態なのに、さらに人の手が加わっているとなると、まったく安心できない。しかし、たとえ窓が危険だとしても、ここまで来るとすでに金網はほとんど剥がれ、まともなものがなくなってきていた。となると、窓枠を使わない、という選択肢はない。サッシだろうが金網だろうが、とにかく慎重に確認してから登るしかなかった。

 この程度の妨害で、負けてたまるか。

 香穂は規則的な呼吸で気持ちを整え、もう一ヵ所、窓がほとんど残っている場所に移動して、何度もしっかりしているか確かめつつ登った。

 つづいて、五階の窓枠にも手をかける。

 時間をかけて、細工があるかどうか調べた。だが──脚をサッシに乗せた時だった。軽く壁を叩く乾いた音を耳にした。

「え?」

 風のせいで何かがぶつかっただけならいいけれど……さあっと、嫌な予感が潮のように満ちていく。

 残念ながら、希望的観測はぺちゃんこに叩き潰された。ガラスの砕け散る鋭い音が響く。踏んでいたサッシがあっさりと崩れ、両脚が落ちた。

 パニック寸前にまで追いこまれた香穂は、状況を理解した。

──あいつ、ゴルフボールをぶつけて、ガラスを割ったんだ!

 足場を失った香穂は、カチ持ちをしている両手だけで窓枠にぶら下がった。氷塊を呑みこんだように胸が冷え、頭は反対に熱を放つ。このサッシが折れたら、香穂は終わりだった。ピエロがついに、本気で殺しにかかったとしか思えなかった。

 ぎりっと、激しく歯を食いしばる。

 焦るな。まだ、全部割られていない。こんなの、大したことない。

 香穂は素早く右脚を上げて、無事な上の窓枠に乗せた。攻撃を受けないうちにと、急いで登り、出っ張りを掴む。香穂は唸りながら、息を吐いた。どうせまた笑っているだろうから、下は見なかった。

 どこまで汚い奴なのよ。

 いくら抑えても、怒りが溢れだしてくる。が、理不尽な手段を使われ、かえって、腹の底で闘志が湧いた。いくらでもやりなさいよ。声に出してそう嘯いた。

 私が、これぐらいで落下するわけがない。

 動揺は、すでに去っていた。窓枠をチェックしつつ、なるべく早く六階もクリアする。またゴルフボールが来るかと身構えていたが、それはなかった。芸がないから、同じ手は使いたくないのかもしれない。

 増築された一回り小さい七階も問題なく登り、香穂はその上に立った。


 左右に目を動かして捜す必要はなかった。雨に打たれている背中合わせの二つの影。それは、最上階の上の中央にあった。どちらも、微動だにせず、座っている。

 香穂も同じく、彫像みたいにしばらく動かなかった。全身を濡らす雨と絶えず吹きつける風に、体温をごっそり奪われていくように感じた。

 やがて、香穂はゆっくりと歩いていった。

 ぐっと両の拳を固める。香穂は右脚を浮かせ、思いきり蹴った。

 ズボンを穿いた脚を投げだしていたのは、一メートルぐらいの二体の人形だった。頬を赤く塗られた、燕尾服姿の布製の人形。腹話術用だろうか。

 人形は二つとも軽々と転がって、それぞれ別の方向を目指して遠ざかっていった。

 よくも、騙したな……。

 切れそうなほど、下唇を噛んだ。途轍もない危険を冒し、壁を登った結果が、これだ。ふざけるな、と呟いた。あいつは徹頭徹尾、舐めている。あのピエロの言葉は、かけらも信用できないのだと、香穂は胸に刻みつけた。

 いったん怒気に支配された香穂は、しばし目を閉じた。落ち着かなければ。でないと、あのピエロの思う壺だ。冷静に、冷静に。

 香穂は、事態を肯定的に捉えようとした。おちょくられはしたけれど、こうして『敵』から離れられたのは幸いだ。このまま、また65号棟に渡って逃げればいい。そして派出所跡へ走り、望海を救いだせばゲームは終了だ。

 そうよ、全然OK。私は、助かったんだ。

 七階の屋根は、体育館側が一部、崩落している。こんな危険な場所に長居は無用だった。香穂は、踵を返して六階に降りようとした。

 しかし──その前に、驚愕させられることになった。

 魔法のように、いつの間にかピエロが出現していた。彼は微かにうつむきながら立ち、ホラー映画ばりの恐怖に満ちた非現実感を醸しだしている。香穂は戦慄を覚え、硬直した。

 きっと、こちらの思考などお見通しだったのだろう。逃げられる前に、逃走路を塞ぎに来たのだ。壁登りの終盤で邪魔が入らなかったことには、理由があったのだった。

 先回りされたことが、失意となって胸に蟠った。どう抗っても、こいつに弄ばれるだけなんじゃないか。そんな絶望的な気持ちに陥る。位負けしたように、香穂は動けなかった。

 ピエロは軽やかなスキップで、飛びはねながら近づいてくる。

 香穂は大きな不安を感じた。これから、こいつはどうするのだろう。今度こそ、殺されるのだろうか。それとも、また何かやらされるのか。

 どちらでもなかった。ピエロは傍までやって来ると、ポケットから一枚のポラロイド写真を取りだし、香穂に向かって差しだした。

 何?

 ピエロがにたにた笑っているので、不快な感覚が過ぎった。病院の時みたいに、またろくでもないものを見せられるのではないだろうか。けれど、だからといって無視もできない。それに、身体の奥底で見ろ、と誰かが命じていた。ざわざわと胸を刺激してくる予感は、これは避けては通れないのだということをしめしていた。

 腕が勝手に写真を受け取り、香穂はそれに目を落とした。

 衝撃が、頭のてっぺんから足先まで走り抜ける。呻き声が、自然に洩れた。

 そこは、おそらく望海が監禁されていたのであろう部屋だった。緑色のカーテンが窓を覆っている。右端には、白いベッドの一部が見えた。茶色い絨毯の上には、望海が一人立っている。それ以外は、何も写っていなかった。しかし、そんなことはどうでも良い。

 望海は裸だった。全裸にされ、天井を仰いで泣いていた。

 突然、氷点下の環境に放りだされ、全身が凍てついたようだった。この怒りを、どう表現すればいいのだろう。香穂にはわからなかった。喉にぴったりと蓋をされたみたいに、言葉が出て来ない。

 非常に苦労して、香穂は言葉を発した。

「……これ、あんたが撮ったの?」

 尋ねると、ピエロは嬉しそうに何度もうなずいた。

 瞬間、我を忘れた。

 拳を振り上げたが、殴りつける前にピエロは六階の屋上に飛び降りていた。香穂はその後を追った。憤怒のあまり、目が眩みそうだった。

 殺してやる。

 殺してやる。

 殺してやる。

 何も考えられず、頭の中では、同じ言葉だけがリピートされていた。黄緑色の背中を捕まえようと階段を駆け下る。奴は五階にある教室に入ると、香穂もそれにつづいた。

 ピエロは脚を止め、手招きしている。

「あんた、どういうつもりよ!」

「……」

「何がしたいの! こんなことして楽しいの!?」

 いくら叫んでも、ピエロは答えない。笑いながら身体を左右に揺らしたり、体操みたいに片腕ずつ天井に向かって突き上げたりしている。

 会話が成り立たないなら、行動あるのみだ。香穂は足元に落ちていた木片を拾い、猛然と走り寄って突きだした。それを、ピエロはおどけた動作で避けた。

 さらに振りまわしたけれど、後方に飛ばれて木片は空を切る。

 いくら攻撃を仕掛けても、ピエロには当たらなかった。壁を必死に登って、すでに香穂は疲労のピークに達しつつある。段々と動きが鈍くなり、腕を重く感じた。

 ピエロの反撃がはじまった。彼は軽いステップで香穂の脇に回りこむと、横っ面にゴルフボールを叩きつけた。倒れそうになるが、踏みとどまり、木片を振り上げる。

 今度は、鼻を狙われた。顔面が痺れ、ふらついた香穂は尻餅をついた。

 顔に手をやると、鼻血が流れていた。ピエロは両脚を交互に上げて、飛びはねている。彼は再び手招きした。一方、戦意を失くした香穂は反応できなかった。

 香穂が動かないので、ピエロは首を傾げた。

 赤い滴が、短パンの上に落ちる。それを見ていると、ピエロが頭を掻きながら近づいてきた。目の前に立った彼は、腰に手を当てた。

「……」

 香穂は言葉もなく、ピエロを見上げる。

 突然、黄緑色の脚がはね上がった。

 左の頬に、充分に体重の乗った蹴りを受けた。視界が黒く染まり、意識が切れかかる。香穂は倒れ、荒れ果てた教室を転がった。

 横たわった香穂には、もう立ち上がる力は残されていなかった。

 

 まったく動かない手脚を、ピエロはたやすく縛り上げた。彼は生徒用の机と、背もたれの低い小さな椅子を持ってきて、香穂を座らせた。香穂は、されるがままだった。

 かつて島に住み、学校に通っていた子供が使っていた椅子は壊れかけていて、香穂が身じろぎする度に軋んだ。ピエロは教室を出ていったきり、戻って来ない。

 香穂は力なく首を傾け、黒板が剥がれた跡を虚ろな目で眺めていた。顔がじんじんと痺れて、痛い。蹴られた頬にできた青痣が、容易に想像できた。だが、怒りは湧かない。何も成し遂げていないのに、燃え尽きたような気分が胸を覆っていた。

 頭の内側では様々な思考がもつれ合い、収拾がつかない状態だ。そこを支配するのは、高橋に首を絞められた時に生じた心の動きと同じものだった。諦めだ。香穂はこのまま、あいつに殺されるのだろうと考え、それを半ば既定の未来として受け入れようとしていた。

 もし逃げるのであれば、さっきは絶好のチャンスだった、ピエロを追いかけると見せかけ、逆方向に走れば良かったのだ。ところが、それができなかった。どうしようもない怒りに追い立てられ、ただ闇雲にあいつに襲いかかってしまった。愚かしいとしかいいようがない。けれど……それは母親として、仕方のないことではないのか? あんな写真を見せられて、冷静でいられる親がいるだろうか。

 幸運の女神には前髪しかない、と聞いた覚えがある。それを掴み損ねた自分は、もう死ぬしかないのだろう。結局、夫を奪われた上に娘も殺される。千尋も、他の子供も救えなかった。あまりの理不尽さに泣きたくなるが、涙は出て来ない。ただ、香穂は疲れていた。いっそ楽になりたい、という逃避の願望すら湧いていた。

 足音が聞こえ、のろのろと顔を向ける。しばらく消えていたピエロが帰ってきた。彼は右手に黒のマジック、左手にスケッチブックを持っていた。

 ピエロはスケッチブックを広げた。そこには、〝それではHRをはじめます〟と書かれている。「HR」って何だ、と疑問に感じた香穂はすぐに、ああ、ホームルームの略ね、と気づいた。ここが学校だから、それにひっかけてふざけているのだ。

「あんたさ、小坂って名前なの?」

 痛む唇を動かし、香穂は訊いた。

 ピエロは少しの間、戸惑いを顔にあらわして動きを止めた。それから、彼はスケッチブックを何枚かまとめてめくってから、何か書きはじめた。

〝段取りがあるんだから、余計な質問はしないでくれる?〟

「そんなの、喋れば済む話でしょうが」

 香穂は鼻から息を吐く。「どうなの?」

〝そうだよ〟

 小坂がマジックで書いて答える。あくまでも喋る気はないようだ。まどろっこしいが、今の香穂は気にならなかった。どうせ死ぬのであれば、時間を気にしてもしょうがない。

「で、あんたは変態なの?」

 尋ねると、小坂は「憤慨した」といわんばかりに地団太を踏んでみせた。

〝何てことを。違うよ〟

「でも、娘にイタズラしたんでしょ?」

〝してないよ〟

「じゃあ、望海を撮影しただけ? 私に見せるために?」

〝そうだよ〟

 へえ、と呟く。まったく信用できない男の言葉でも、とりあえず少しだけ安心できた。要するに、香穂を挑発するためだけに、こいつはあんな写真を撮ったのだ。よくそんないやらしいまねができるな、と感心した。

 それにしても、あの写真はどこで失くしたのだろうか。あまりに興奮しすぎて、追いかける途中で落としたことに気づかなかったらしい。回収は、おそらくもう無理だろう。

「あんたさ、一億円がほしいの?」

 さらに、香穂は尋ねてみた。段取りがどうのと書いていた割には、小坂は質問には律儀に応じるつもりらしく、またマジックを走らせた。

〝違うよ〟

 香穂は軽く目を細める。この答えは予想外だった。金が目当てではないなら、何のために殺そうとするのか。全然、わからない。

「なんでよ。だったら、何が目的なの?」

〝俺、ネタバレって嫌いなんだ〟

「は?」

 意味不明の返答に、思わず低い声が出た。小坂に対する不快感がようやく戻ってくる。何がいいたいんだ、こいつは。

〝昔、映画のDVDを観ている時に、友達がラストシーンをバラすからさ。俺、そいつをぶん殴ってやったよ〟

「……」

〝そういうこと。君だって、この先の楽しみを失くしたくないだろ?〟

 ふざけんな。

 香穂は、顔をしかめて舌打ちした。だが、「君だって」という言葉から、小坂がこの状況を楽しんでいることはわかった。つまりこうしていたぶることで、快感を得ているのか。

「なんとなく、見えてきた。あんたは、私をなぶりものにしたいのね? その上で、殺したい、と。だったら、殺人自体が目的なの?」

〝ノーコメント〟

 小坂は質問をかわそうとする。けれど、もう香穂は自分の推測を疑わなかった。さらに過酷な扱いを受けることがこれで決まったわけだが、麻痺しているためか恐怖感はなく、納得する気持ちだけが強かった。

「じゃあ、私を殺したら、先生にも同じことをするの?」

 一億が目的でないのなら、千尋を生かしておく理由はないはずだった。

〝あの先生には手を出さないよ。約束だからね〟

 その回答に、ふっと唇が緩んだ。こんな奴でも約束を守るのか、と可笑しくなったのだ。粕谷に気を遣うのは、狂人同士、馬が合うためだろうか。

 とにかく、訊きたいことはこれで全部だ。

「わかった。もういいよ、質問は終了」

〝それでは、HRをはじめます〟

 小坂は「やっと始められる」といいたげに盛大に息を吐いてから、最初に開いた紙をもう一度しめした。

〝先生はとても残念なのですが、このクラスには煙草を吸っている人がいます〟

 次にあらわれた紙にそんな文章が綴られていて、香穂は失笑した。どうやらまた、コントが演じられるらしい。病院の次は、学校が舞台というわけだ。こんなくだらないことに注ぐ情熱が、どこから湧いてくるのか知りたいものだと思った。

〝煙草を吸っているのは、遠藤君。あなたですね?〟

「何? 今度のコントは私も参加するの?」

〝あなたですね?〟という部分を、小坂はしつこく指で叩いてみせた。

「否定すればいいの? 私は煙草を辞めたわよ?」

〝では、これは何ですか?〟

 小坂は短パンのポケットに手をつっこんでくる。この男が触れてくるだけでも、激しく気分が悪くなった。けれど、セクハラじゃないの、なんて香穂はいわない。こいつにそんな抗議をしても、逆に喜ばせるだけだろうから。

 手を入れる時には何も持っていなかったのに、引きだされた掌には、マイルドセブンの箱が収まっていた。小坂は、煙草の箱を香穂の顔に突きつけた。

「ああ、手品ね。すごいすごい。縛られているから、拍手はできないけど」

 香穂は皮肉っぽく感心してみせた。

〝あなたは嘘をつきました。先生、悲しいです。罰を与えます〟

 これが、次の文章だった。それを見せてから小坂は百円ライターを取りだし、煙草に火を点けた。美味そうに吸って、鼻と口から煙を噴きだす。

 腕の皮膚が、怖ろしい予感に粟立った。

「あんた、まさか……」

 小坂は真っ赤な唇を、弓の形に曲げる。それから煙草を持った手を下ろし、火のついた先端を、香穂の右の太腿に容赦なく押し当てた。

 すさまじい痛みと熱さに耐えられず、香穂は絶叫を迸らせる。


 椅子から転げ落ちた香穂に跨り、ご丁寧に、左の太腿にも煙草を押しつけてから、小坂は去っていった。両の太腿には、丸く赤い跡がしっかりと膨れ上がった。

 元の姿勢に戻された香穂は小坂が消えた後も、まだ呻いていた。痛みは消えず、火傷のひりひりする感覚を絶え間なく訴えてくる。香穂は目を強く閉じて、顔を歪めていた。

 とまれ、これであの男の目的は完璧に理解できた。奴はこんな虐待を何度も繰り返すのだろう。それが、あいつにとっても「楽しみ」なのだ。小坂は香穂をひたすら弄び、それから殺す気だ。

 それでも人間か。香穂は、激しく歯を噛み合わせた。何の恨みもない相手に、どうしてこんな残酷なまねができるのだろう。粕谷も高橋も小坂も、方向性は違うが揃って屑ではないか。よくもまぁ、こんなろくでもない男ばかりが集まったものだ。

 腹の底が煮え滾っているようだった。怒りは、エネルギーを与えてくれた。小坂は、殺すまでにたっぷりと時間をかけるだろう。であれば、逃げるチャンスもあるのではないか。香穂は新たな希望によって精神を賦活させた。なにより、自分には守るべきものがあるのだ。たとえ結果的に殺されるのだとしても、途中で諦めるわけにはいかない。

 私は、負けない。

 その言葉を胸の内で繰り返す。二度小坂に向かっていき、その度に香穂は撃退された。でも次は、三度目の正直だ。奴の手の内は把握したから、今度こそ斃してやる。

 おのれを鼓舞し、気持ちを懸命に盛り上げていると、小坂があらわれた。今回手に持っているのは、丸みを帯びた弁当箱と箸箱だ。

 彼は置いていたスケッチブックを広げた。そこには〝次は給食です〟と書かれていた。

「どうして、ホームルームの次が給食なのよ。それにそれ、お弁当だし」

 香穂のつっこみには耳を貸さず、小坂は弁当箱を机に置き、蓋を開いた。妙に凝っていて、ごはんの部分は海苔とソーセージを使って、豚の顔が形づくられている。

〝食べて〟

 そのひと言を見せてから、小坂は香穂の腕を縛っていた縄を解いた。

「……」

 自由を得たところで、箸箱を手に取る気はしなかった。どうせ、何かあるに決まっている。この変態が、ただ食事をさせるだけで終わらせるわけがなかった。

〝変なものは入っていないよ〟

 香穂の反応を見越していたのか、次の紙にはこんな一文がすでに書かれていた。信用できるもんですか、と香穂は小さく吐き捨てた。

〝早く、早く〟

 小坂はマジックで新しく書いてみせる。どうしても、この弁当を食べさせたいようだ。益々、怪しかった。まだ殺す段階ではないはずだから、毒入りではないのだろうが、何か罠が仕掛けられているのは間違いない。

〝食べてよー〟

 あまりのしつこさに、唸りながら息を吐いた。食べずに済ますのは、絶対に無理らしい。ついに箸箱から、箸を取りだした。

 まずは卵焼きを口に入れてみる。が、噛んでみたらそれは間違いで、スパニッシュムオレツだった。味は申し分ない。二品目は、、エビチリを選んだ。これも悪くなかった。野菜の味噌炒めも、餅のベーコン巻きも、ちょっと味が濃いけれども美味しい。口の内側が切れていなければ、もっとちゃんと味わえたかもしれない。

 一向に制止しないので、結局全部食べてしまった。すると小坂が〝美味しい?〟と訊くので、「まあね」と答えた。

〝これ、俺がつくったんだよ〟

「ああ、そうなの」

〝君、料理が下手なんだってね。もしかして、俺の方が上手いんじゃない?〟

「なっ……」

 香穂は言葉に詰まる。明後日の方向からの攻撃だった。母親の料理に苦情ばかりいっていた娘の顔が、脳裏に浮かんだ。

 望海ったら、そんな話をしたんだ。じゃあ、こいつは嫌味を聞かせるために、お弁当を食べさせたの?

「仕方ないでしょ。母親が料理下手で、全然教えてもらえなかったんだから」

 娘をうらめしく思い、羞恥で頬を熱くしながら声を放った。それでも、自分なりに頑張ってきたのだ。赤の他人に皮肉をいわれる筋合いはない。

〝だったら、料理教室に通えば? ボルダリングジムに行ってる暇があるなら〟

「大きなお世話よっ!」

 むかついて、香穂は声を張り上げた。小坂は「処置なしだ」といわんばかりに肩をすくめて両手を上げ、首を振ってみせた。

「さあ、給食は終わったわよ。まだ何かやる気なのっ!」

 そう叫ぶようにいって、箸を机に叩きつける。小坂はにんまりと笑った。

〝次は理科の授業になります。理科室へ移動します〟

 香穂は再び両手首を縛られ、代わりに脚の縄を解かれた。

 また背中を突かれ、歩かされる。香穂は、今逃亡を試みたらどうなるかな、と考えた。……いや、どうにもならないだろう。すぐに後頭部にゴルフボールをくらって、捕まるだけだ。小坂も逃がさない自信があるから、後ろ手に縛らないのだろうし。どうすれば、裏をかけるだろうか……。

 七階にある理科室は天井が崩落して、手の施しようがない惨状だった。埃をかぶった大きな作業机の上には、赤や青の薬瓶が一ヵ所にまとめて置かれている。こんなところで何をするのか、と香穂は訝しんだ。

 予め、作業机の横に用意されていたパイプ椅子に香穂は座らされた。両脚を改めて縛ってから、小坂は飛びはねながら出ていく。

 後には、不安に満ちた時間が残された。煙草の火傷がまだ癒えていない香穂は、悪い予想しかできない。たぶん今度は理科にひっかけた特殊な手段を用いて、虐待を加えるのだろう。どうするつもりなんだろうか。

 じっと待っていると、色々な想像が頭を駆け巡った。「理科の授業」だということだから……たとえば、爆発する物質をぶつけられるとか。すると、また熱い思いをしなければならないのか。香穂は何もはじまらないうちから、気分を重くした。

「……!」

 再び白衣を着た小坂が戻ってきた。途轍もなく怖ろしいものを肩に担いで。それは、香穂の予想を遥かに凌駕していた。目にした瞬間、顔から血の気がひいたように感じた。

 悲鳴が、喉から勢いよく溢れだす。

 小坂が運んできたのは、女の死体だった。

 これは、粕谷に殺されたもう一人の女性だ。彼女は、服をすべて剥がされていた。栗色に染めた長い髪が垂れ下がっている。小坂が歩くと、だらんとした腕が左右に動いた。

「いやああっ!」

 極限まで目を剥いて、叫ぶ。まさか、もう一度死体を見せられるとは思わなかった。だが、これからコントがはじまるわけではあるまい。この男は、同じ手は使わないだろう。

 乱暴に死体を作業机に放りだした小坂は、額の汗を拭う仕草をした。それから、置いてあったスケッチブックを開いた。

〝では、理科の授業を行います〟

 ただの言葉が、これほど凶悪に映ったことはなかった。香穂の呼吸は自然と荒くなった。

 止めてよ……止めてよ……。

 口を開いたまま、いつまでも首を振りつづける。そんな香穂を無視して、小坂は白衣のポケットからメスを取りだし、崩れた天井に向かって高々と突き上げた。

 その時、小坂がこれから何をするのか、はっきりと理解できた。

 駄目だ。それは、死者への冒涜だ。そんなことは、決してやらせるべきではない。

 けれど、香穂には止める術がなかった。

 気負う様子もなかった。簡単に、メスは死体の鎖骨の辺りに刺しこまれた。

「きゃあああっ!」

 斜め下へ向けて、小坂はさっと皮膚にメスを走らせた。さらに反対側から同じように斜め下へ。そして、垂直に腹の下まで。死体の上に、歪なYの字が書かれた。

 メスの切れ味が鋭いのか、小坂は簡単に皮膚を剥いでいく。剥がされた乳房が横にずれてきた。とてもではないが直視できず、香穂は顔を背けて目を閉じた。

 声に出さずに、うろ覚えの般若心経を必死になって唱える。無力な自分を嘆く余裕もなく、ただ離れたくて、香穂は背中で椅子を後ろへ押してずらそうとした。

 なんて奴なの。ここまで死体を玩具にできるなんて、もはや人間じゃない。どうしてこんな男が地上に生まれたんだろう。元々の素質? こいつはサイコパスなの?

 バキッ、バキッと硬い音が響く。これは……ペンチが何かで肋骨を断っているのか。そう考えると身の気がよだち、香穂は首を縮めた。神経に容赦なく突き刺さってくる、あまりにもおぞましい音だった。

 やがて静かになり、手加減なく頬を張られた。見ろ、ということだ。逆らいようがなく、瞼を開く。小坂は、背後から香穂の両脇に手を入れて持ち上げた。

「あああ……」

 もはや、大きな声は出なかった。香穂は、か細い悲哀の音を喉から絞りだした。

 異形の光景が眼前になった。死体の前面の肉が大きく開かれ、内臓が露出している。腸が丸く膨らんでこぼれそうだ。少しでも死体を傾けたら、きっと落ちていくだろう。

 すでに活動を止め、ただの物体と化した臓器の数々。それらが天井を向く女性の首の下に配置されている。すでに固まっているからか、血は出ていなかった。

 人体〝模型〟ではない、本物の人体の内部。これを観察することが、理科の授業だとでもいうのか。まさしく、悪魔の発想だ。

 香穂はもちろん、人間の内臓を直接見たことはない。耐えきれず、身体を折り曲げて床に吐いた。この「理科の授業」があるから、先に食事をさせたのだろう。やり方が、徹底して汚い。汚すぎる。

 散々吐いてから力尽きて座ろうとしたところ、髪の毛を掴まれ、また香穂は立たされた。

〝これは、何ですか?〟

 小坂は長く伸ばした指示棒で、スケッチブックを叩いた。それから、胸の右下辺りを指ししめす。ごちゃごちゃしていて判断しにくいが、位置から推して、たぶん肝臓だ。

 口内に残る胃液の気持ち悪さを我慢しながら、問いを無視して目を閉じた。すると、また頬を叩かれる。香穂は泣きながら、「肝臓」と答えた。

〝これは、何ですか?〟

 次は盛り上がったぷよぷよした腸が指される。香穂は涙で濡れた目を細めた。そうすると視界が曖昧になって、目の前の壮絶な眺めをはっきりと見なくて済んだ。

「腸……小腸?」

 小坂は笑み崩れながらうなずく。とても満足げだ。凄惨な授業は、まだ終わらないらしい。香穂は、後から後から涙を流しながら思った。

 この地獄は、一体いつまでつづくのだろうか。


 それは、時間にすればおそらく十分程度だっただろう。しかし香穂には、永劫の苦行のように感じられた。ようやく解放され、元の教室に帰されると、香穂は額を机に押しつけて押し潰されそうな気持ち悪さと戦った。すでに食べたものは全部戻したはずなのに、吐き気はまだ胃の付近に漂っていた。

 死体を解剖するピエロには、たまに夫と観たホラー映画のすべてを軽く吹き飛ばす恐怖と不快感があった。あれが実際の体験だということが、今でも信じられない。数時間前の自分に話しても、おそらくそんな馬鹿なと一笑に付すのではないだろうか。

 どうしてあんなことができるのかと、どうしても考えてしまうが、あいつの場合は無駄でしかないのだろう。そういう人間だからだ、としかいいようがない。金のためではなく、怨恨でもなく、ただお遊びのために死体を切り刻み、それを見せつけるピエロ。こんな奴、もはや虫以下だと香穂は思った。あいつに対してはどんな遠慮も必要はない。今もし、自由とナイフが手に入ったら、一秒の逡巡もなく小坂を殺せる自信があった。

──自由、か。

 そう、それが問題だ。どうすれば、あの男から逃げられるのか。その方法を考案するべきなのに──頭がちっともうまく働かなかった。今現在は、小坂は香穂を弄んでいるけれど、それはいつまでもつづかない。必ず終わりが来て、奴は遊び飽きた人形を壊しにかかるはずだ。タイムリミットは刻々と近づいている。なのに、逆転する手段がどうしても浮かんでこなかった。千尋さえいれば、いくらでも戦いようはあるのだけれど……。

 焦燥に身を焼かれながら、香穂は思考に苦しむ。そのうち、スケッチブックを抱えた最悪の屑が、いつものスキップをしながらあらわれた。

 香穂の身体は、緊張で固まった。

 小坂は紙をめくって、〝次は算数です〟という一文を見せる。とりあえず、まだ死なずに済むと察して、香穂は安堵した。同時に、まだふざける気なのか、と不快にもなる。この辺りは、アンヴィバレンスといってよかった。

「あの死体はどうしたの?」

 考える時間を稼ぎたくて、香穂は尋ねた。とにかく、会話を引き伸ばしたい。それは、また「授業」を受けるのが嫌で、ほんの少しでも先送りにしたいからでもあった。何をするのかは知らないけれど、どうせろくでもないことに決まっているのだから。

〝君には関係ないでしょ?〟

 さらさらとマジックを走らせ、小坂はそんな文章を書いた。

「関係なくはないでしょう。いずれは私もああなるんだから。そうでしょ?」

〝さあ、どうかな〟

 小坂がとぼけるので、香穂は小さく笑いを洩らした。

「今さら、ごまかさないでよ」

「……」

 小坂は手を動かさない。核心に触れる質問は、無視すると決めているらしい。

「それで、算数ですって? まだまだ先は長いのかしら?」

 カマをかけてみても、小坂はもう答えなかった。紙を戻して〝次は算数です〟の文字をまたしめした。

「はいはい、いいわよ。どうぞ」

 これ以上の遅延行為は無駄のようだ。腹を決めて、香穂はいった。

 小坂は紙をめくった。そこには〝3×2=?〟という数式が書かれてあり、その下に〝制限時間十秒〟と添えられていた。時間内にこれを解け、ということなのだろう。

 大きな戸惑いを覚えた。馬鹿にしているのだろうか。ボルダリングのことを知っていたのだから、香穂の最終学歴だって調査済みなのかもしれない。でも、それにしたって甘く見過ぎだ。香穂は深読みして、引っかけ問題の可能性を疑った。

「6」

 答えると、小坂は胸の前で手を叩く。引っかけでも何でもなかった。小手調べ? それとも、こちらの頭の出来を探っているのだろうか。

 次は〝4×8=?〟という問題だった。すぐに、香穂は32と答える。

 三問目は、〝56×73=?〟だった。制限時間は三十秒だ。

「え? ちょっと。いきなり二桁?」

 香穂は驚いて、目を見張った。

 こんなの、筆算しなければできない。そろばんは習ったことがないから、珠算式暗算なんて知らないし。

 焦って、紙とペンを要求しても、小坂は首を振るだけだった。

 やむなく、香穂は懸命に頭の中で計算した。小坂は、今回初めて見せるレゴ人形が描かれた腕時計に視線を落としている。

 やがて、小坂は掌を合わせた。制限時間が過ぎた合図の音だった。

〝はい、駄目。罰を与えます〟

 小坂は紙をめくってその文を指でしめした。その顔は、嬉しそうに笑っている。対する香穂の表情は、歪んだまま強張っていた。

 大体、想像していた通りの展開だ。今度は、どんな手を使うのだろう。何が来るのかわからない恐怖は、相当なものだった。まさか、いきなり殺すことはないだろうけど……。

 ごそごそとポケットを探っていた小坂は、すぐに銀色に光るものを取りだした。

 それは、コンパスだった。

 その鋭い先端に、息を呑む。小坂が、これを本来の用途で使うはずがなかった。

 小坂は、香穂の反応を楽しんでいる様子だ。わざと見せつけ、高く笑い声を上げた。それからコンパスを広げ、振りかぶってから針を二の腕に突き刺した。

「うぅっ!」

 悲鳴が喉から洩れる。針が引き抜かれると、Tシャツの袖に血が滲んでいった。痛みのために、香穂は鼻に皺を寄せ、頬を引きつらせた。

「く、あんた……」

 罵声を浴びせる暇もなかった。次は〝38×93=?〟だった。制限時間は同じ三十秒。

 まずい。もし、コンパスで脚を穴だらけにされたら、走って逃げることもできなくなる。こうなったら、何がなんでも問題を解くしかなかった。

 香穂は脳裏に計算式を書き、忙しく数字を埋めていった。

 38×3は114だ。「いいよ」と覚えておいて、38×9は……342だから……。

「3534!」

 勢いよく叫んだ。すかさず、ピエロが拍手する。正解だったか、と香穂は息を吐いた。

 さらなる問題が出される。〝47×57=? 制限時間三十秒〟これ以上怪我をさせられないように、香穂は必死だった。式をイメージし、数字をごろ合わせで覚えながら、計算を重ねる。痛みで集中力を削がれるのが辛かったけれど、強く歯を食いしばった。。

「2679!」

 今度も正解だった。香穂は、確かな手応えを感じた。

 いいぞ。二桁ならどうにかなりそうだ。このままの調子で、最後まで乗り切れれば……。

〝342×217=? 制限時間四十五秒〟

 乗り切れなかった。次の紙に書かれた問題を見て、香穂は顎を落とした。

「……勘弁してよ……三桁なんて」

 早々にギブアップして、弱々しく呟く。さすがにこうなると、暗算では無理だった。

 むろん抗議は受けつけられない。一応計算はしてみたが、結果は無駄に終わった。

「ぐっ!」

 反対側の二の腕にも針を刺され、香穂は激痛に呻く。絶望が胸を覆った。このまま、三桁の掛け算ばかり出題されても、一問だって答えられない。身体にどれだけの穴が開くか、想像するだけで怖ろしかった。

 ところが、次は問題ががらりと変わった。

〝円周率を小数点以下十五桁まで答えよ。 制限時間三十秒〟

「……」

 なんという難問。思わず香穂は、小坂の白塗りの顔をまじまじと見つめた。ピエロは涼しい顔をしたままだ。口笛まで吹いている。

 こいつ、絶対に答えられないと思って、問題を出してるな。

 もう正解させる気はないのね、と香穂は理解した。この先は、問題の数だけコンパスで刺されるのか。それでは、ただの拷問だ。

 あまりの理不尽さに、怒りが漲る。香穂は、深く息を吸った。

「3・141592653589793」

 答えると、悠然と構えていた小坂はにわかに慌てだし、人さし指を立てた。もう一度いえ、ということなのだろう。香穂は、ゆっくりと正確に繰り返した。すると、スケッチブックを見つめていた小坂は、驚いた表情で激しく拍手した。

 ざまあみろ。昔、算数の参考書にごろ合わせを用いた円周率の覚え方が載っていて、戯れに記憶したのだ。二十桁までなら、香穂は暗唱することができた。

 次はどんな問題がくるかと、香穂は身構える。小坂は、スケッチブックをめくった。そこには〝算数は終わりです〟と書かれていた。

 香穂は目を疑い、それから、溜まっていた息をすべて一度に吐いた。

──助かった。

 心が、深い安堵で包まれる。脚を傷つけられずに済んだのは、本当に幸いだった。二回も刺されたけれど、辛うじてまだ運は残っているみたいだ。

 よし、なんとかかわすことができた。あとは、どうにかして次の「授業」の前に、脱出の方法を見つけだすだけだ。頑張らなきゃ。

 香穂は、縛られたまま拳を握りしめる。しかし、まるでその思考を読んでいたように、小坂は新たな紙を見せた。

〝では、避難訓練を始めます〟

 そんな文章を突きつけられ、香穂は驚愕して、背中を椅子に打ちつけた。

 再び、絶望が胸を蝕む。嘘でしょう、と肩を落とした。これだけ痛めつけておいて、休む時間も与えないのか。コンパスで刺された両腕は、まだ激しく疼いているというのに。

 獲物の心境には頓着せず、小坂は脚の縄を解いてから髪の毛を掴んだ。また移動だ。やむなく表向きはおとなしく従いながら、香穂は「避難訓練」の意味を考えた。

 何をさせる気だろう。地震に備えた避難訓練なら、香穂は小学生の時に経験がある。まずは地震を告げる放送を聞いてから教師の指示で机の下に隠れ、それから校庭に移動した覚えがあった。でもその記憶は、これから先の展開を予想するのには、まったく役に立ちそうにない。

 香穂が連れていかれたのは、同じ五階の机や椅子が数多く残る教室だった。そこで再び脚を縛られ、壁際に立たされた。

 見ていると、小坂は教室にあるものをすべて、いったん端に寄せていく。

 それから、机を円形に並べ直した。

 香穂は不審に思い、首を傾げた。机で円をつくって、どうするというのだろう。何か、彼にしか意味の通じない儀式なのだろうか。

 理解に苦しんでいると、小坂に抱きかかえられ、香穂はサークルの中心に運ばれた。

 腕の縄が外され、小坂は少し緩めに縛り直した。そのまま放置し、机のすき間を抜けて教室の端へと歩く。そこには、赤いラベルが貼られた銀色のボトルが置かれていた。

 蓋を開け、小坂は容器の中身を円形に配置した机にふりかけていく。水みたいだけど……と訝しんだ香穂は、漂ってきた鼻をつく臭いに頬を強張らせた。

 違う、水じゃない。これは、ガソリンじゃないの!

 ようやく香穂は、この「避難訓練」がどんなものであるのか、悟った。これから先に起きることを知って、全身を震わせた。

 小坂は飛びはねながら、並べた机に沿って一周する。とても楽しそうだ。元の位置に戻ると、彼はすぐさまボトルを口に当てて傾けた。

 香穂は呆気にとられて、狂人が躍如としている様をただ見ているだけだ。

 予想通り、百円ライターが取りだされた。香穂の呼吸が、忙しなくなる。

 小坂は、勢いよくガソリンを噴いた。

 炎が、宙を飛んだ。

 机に移った炎は素早く走り、香穂を取り囲んだ。慌てて首を動かす。右も左も、机は激しく燃え盛っていた。炎の向こうで、小坂がおどけて身体を揺らしている。

 恐怖のために、香穂は喘いだ。

 何てことするのよ! こんなの冗談じゃないわ。死ぬわよ!

 鼓動が凄まじいドラムとなって、胸を叩く。どこまでやれば、気が済むのか。どこまで根性が腐っているのか。こいつこそ解剖して、脳がどうなっているのか見てやりたかった。

 恐慌を来した香穂は、懸命に自分を落ち着かせようとした。

──まだだ。小坂は、脱出させるために縄を緩めた。まだ、殺す段階じゃない。慌てなくていいんだ。こんなのは、怖がらせるためのただの脅しだ。

 だが、机の火が床に燃え移る可能性だってある。炎がこちらに伸びてくる前に、早く脱出しなければ。

 香穂は必死になって、手首を動かしはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る