第19話 特殊な嗜好

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 小坂洋平は、狂っているつもりなど毛頭なかった。彼は、精神的にはしごくまともであると自己評価を下していた。ただ少しだけ、おのれの欲望に忠実すぎるだけなのだ。

 過去を振り返ってみても、どこに原因があるのかわからなない。小坂は小学生の頃から、真面目で成績もよく、親からはとても可愛がられていた。そんな彼の人生を決定づけたのは六年生の時、家族みんなで行った遊園地で、大道芸のパフォーマンスを見たことだった。

 そこでは、ピエロの格好をした大道芸人が、様々な芸を見せてくれた。ロボットのパントマイムをしたり、ローラーバランスで観客をハラハラさせたり、ファイアトーチでジャグリングをしたり。犬の形をしたバルーンアートをプレゼントされた小坂は、嬉しくて目を輝かせた。その時、自分の進む道はこれだ、と確信したのだった。

 小坂は高校進学の際、わざわざ大道芸クラブが存在するところを調べ、そこに入学した。バイトして貯めたお金で、通信講座も受けた。クラブの誰よりも熱心な彼は、めきめきと上達していった。学園祭でジャグリングを披露した時には、凄まじい喝采を浴びた。

 すべては順調だった。その後、高校を卒業してからは、小坂は路上でパフォーマンスをしながら芸を磨いた。ただ、そこで大きな問題が生じた。大道芸だけでは、たいした儲けにはならないのだ。高校のOBのツテでイベントに呼んでもらったりしても、同時にバイトで収入を得なければ生活できなかった。

 好きな職に就いたはずだったが、それは金銭的には厳しい道だった。鬱憤は、どんどん溜まっていった。それを彼は、SM店で晴らした。風俗嬢に罵詈雑言を浴びせたり、殴ったりすると、結果的に店を出禁になっても、気分はとても良くなった。この頃には、彼はおのれの裡に潜むサディズムを自覚するようになっていた。それで、M気質のある女と知り合うためにネットで出会いを求めたが、小坂が行うのはSMプレイではなくただの暴力なので、深い仲になっても女は早々に音を上げ、去っていった。

 その一方で、仕事面で行き詰まりを感じていた小坂は、思い切って海外へ武者修行の旅に出た。彼はまずイギリスへ渡り、それから、ヨーロッパを転々とした。言葉が通じないということは予想以上に大変で苦労したけれど、路上でパフォーマンスを行い、大きな拍手を受けると、言葉の壁を越えるのは簡単だ、とも思った。

 ヨーロッパに飽きると、小坂はアジアに移った。暑さは元々大して気にならない質だし、ヨーロッパとは違う雑然とした空気は彼の性にあった。特に気に入ったのはタイだった。やたらと甘いコーヒーも、タイ料理独特の香辛料も、最初はぎょっとしたがそのうち癖になった。主にリゾート地として有名なパタヤで、小坂はパフォーマンスを行った。観光客は金払いがよく、稼ぎが良かったからだ。その金で、タイのあちこちを旅してまわった。

 ある日、彼は友人が日本から来るというので、迎えに行くためにバンコクでタクシーに乗っていた。運転手は陽気な男で、タイ訛りのブロークンな英語でやたらと話しかけてきた。それはいいのだが、運転がやたらと荒っぽかった。タイは交通マナーが悪く、事故がとても多い。この運転手は大丈夫かと、彼は心配になった。

 不安は的中した。運転手が小坂の方を向いて喋っていると、前方で自転車に乗っていた二人の女の子の片方がよそ見をしていたためにハンドル操作を誤り、ぶつけられたもう一方がふらっと車道にはみ出したのだ。危ない、という彼の日本語の叫びは、かなりのスピードを出していたために、無意味だった。女の子と自転車は、はじき飛ばされた。

 タクシーは急ブレーキを踏み、小坂は慌てて路上に出た。タイの学生は日本と同じように制服を着る。ブラウスとスカートを身につけた女の子は中学生ぐらいだと思われた。頭部の周りにできた血だまりがその領域を広げている。まったく、動かなかった。友達の方は半狂乱で泣き叫んでいた。

 あとで、即死だったと教えられた。結局、小坂は友人を迎えに行けず、警察で事情を聞かれたりしたが、その間、頭の内側でずっと死んだ少女の姿がエンドレスで再生されていた。目を閉じ、横たわる少女を、彼はきれいだと感じた。他の何ものにも存在しない美があると理由もなく思った。なぜ写真を撮らなかったのかと、そればかりを悔やんだ。弟が昔交通事故に遭ったので、免許更新時に見せられる安全講習のビデオにすら、以前は眉をひそめていたのに。

 帰国しても、小坂はバンコクで出会った少女の死体を時折思い出しては、陶然となった。そんな日々の中、彼にとっては幸運なことに、真紀という暴力を振るっても黙って耐えてくれる女と出会えたので、彼女と籍を入れた。だが、真紀を殴っても彼は満たされなかった。できれば、彼は妻に死んでほしかった。死んだ妻なら、もっともっと愛せる気がした。

 母が癌で亡くなったのは、真紀と暮らすようになって数ヵ月が過ぎた頃だった。大道芸人になることを反対されたため、高校を卒業した後は、家族と絶縁状態だったが、さすがに妻を伴って彼は実家に戻った。父は小坂の姿を見ると喜んでくれ、一つ下の弟である敏明も嬉しそうに喋りかけてきた。二人が彼と話したがるので、小坂は海外での思い出話をいくつも語って聞かせた。

 その通夜の晩、小坂は父に線香の番をしてくれないかと頼まれた。それは亡き母と色々語りたいだろうから、という配慮らしかった。棺を置くために片づけられた和室で、彼は母の亡骸と一人で対することになった。

 小坂は煙を上らせている線香の匂いを嗅ぎながら、しばらくは黙って正座していた。母の思い出に浸ったりもした。そのうち、まだ母の顔を見ていないことに気づいた。彼はおもむろに立ち上がり、棺の小窓から内側を覗いた。

 いったん見つめると、視線が逸らせなくなった。頬がこけた、血の気のない死に顔は、記憶に住まう母とはかなりの隔たりがあった。知らない女のようだった。これは、ただの死体だ。彼は、そう思おうとした。

 駄目だった。いつしか、額に汗の玉が浮いていた。彼の身体の奥にあるのは、欲望だった。こともあろうに小坂は、死んだ母親に対して欲情していたのだった。

 小坂は線香の番を代わってもらい、かつて自室だった二階の部屋のベッドで横になった。懐かしい天井を見上げながら、さすがに、これはまずいのではないかと自分を怖れた。狂っているとは考えなかったが、常識の範疇を少し超えているとは思った。

 それから程なくして、真紀が別れを切りだしてきた。果てなく行われる暴力が辛くて、もう我慢ができないという。一応、彼なりに妻を愛していた小坂は慌てた。彼は説得に努め、精神科に行く約束をして、なんとか妻を思いとどまらせた。

 その結果、通いはじめた診療所の待合室で、素晴らしい出逢いがあった。

 粕谷という男に話しかけられ、彼と親しくなった小坂は、酒の席でつい、通院している理由や、誰にもいえないいささか特殊な性的嗜好などについて語ってしまった。すると粕谷もまた、彼自身の秘密を打ち明けた。驚くべき話だった。

 粕谷幸一は、精神科医の拉致を計画していた。その後のゲームについても、小坂は聞かされた。ある女を殺しさえすれば、一億円をくれるという。彼は、狂喜した。

 一億など、小坂はどうでもよかった。それより、女を殺す行為そのものが、彼にとって特別な意味を持っていた。最終的には、粕谷は精神科医と心中するという。香穂という女を殺しても、その罪を粕谷が被って死んでくれるというのだ。小坂は何の心配もなく、女を殺せるのだった。しかもその上、女の死体が二つ、おまけでついてくるという話だ。

 この時、小坂の腹は決まった。彼は女を殺したかった。そして、犯したかった。それが、望み得る究極の快楽だった。粕谷が囁いた計画は、彼にとってこれ以上ないものだった。

 果たして、実現した夢は、小坂を天上の悦びへと導いてくれた。端島小中学校の一室で、二体の死体をかわるがわる犯しながら、彼はこれこそが俺の求めていたものだと歓喜した。精を放ちながら、嬉しさのあまり涙を流した。

 けれど、少しだけもの足りない。死体は、彼自らが手を下したものではなかった。それが、唯一の不満だった。

 だが、獲物を発見したので、その不満も解消された。弥生が香穂を追っていたが、彼女の身体能力については聞き知っていたから、あの女は子供には勝つだろうと踏んだ。では、あと少しだけ待てばいい。

 放っておくと、小坂の頬はすぐに緩んだ。バイクを駆って猫の死骸を投げた時、初めて目にしたあの女。香穂を徹底的に恐怖させ、いたぶり、殺し、犯す。その時こそ、願いは完璧に成就されるはずだった。それができたら、死んでもいいとさえ彼は思った。

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