第18話 再会

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 香穂は大きく息をしながら、階段下の平らな瓦礫の上に倒れている弥生を見つめた。

 目を覚ます気配はない。どうやら決着はついたようだ。香穂は、雨を吸って重くなったぬいぐるみを持ち、地獄段を下りた。途中に鞘が落ちていたので、それも拾った。

 弥生の横で膝をつき、手を口に近づけた。呼吸はしている。手首を触ってみると、脈もちゃんと動いていた。とはいえ、脳に深刻なダメージを負った可能性はある。一歩間違えば弥生は死んでいたかもしれないし、危険性は重々承知していた。けれど、香穂はやるべきだと判断したから、実行したのだ。

 51号棟で弥生の目を見た時、この子はどこまでも執念深く追って来ると悟った。たとえ刀を奪っても、背後から石で襲われないとも限らない。だから、もう戦えないように立てなくなるまで叩きのめそうと決意した。その結果、弥生が死ぬことになっても、娘を救うためにはやむを得ないと考えたのだった。

 香穂の作戦は二段構えだった。まず初めは突き落とすことを試み、それが失敗した場合は、正面切って戦うつもりだった。

 その場合、刺されることだけを香穂は怖れた。他はともかく、突き技は避け方が思いつかない。だから、あえて「突いて欲しい」と弥生に頼んだ。そうすれば、彼女は警戒するだろうし、「裁く」べき女ならいくら騙しても平気なようだから、他の技を使うだろうと踏んだ。けれど、これは危険な賭けだった。成功して正直、香穂はほっとしていた。

 いくら剣道をやっていようと、普段軽い竹刀ばかり振っている女の子が、日本刀をそんなに速く扱えるとは思えなかった。しかも中学生の女子だから、力も強くない。思った通り、香穂の目は刀の軌道を捉えられたし、木片で弾き返すこともできた。予想通りだった。

 その後、ダメージを与えるために弥生を倒した技は、実は望海の直伝だ。相手の背後に回って膝裏に膝を入れ(いわゆる膝カックンだ)、同時に相手の首に腕を巻きつけて顎を上げさせ、そのまま自ら後ろに倒れる。望海は自力で開発したこの技で男子に連戦連勝し、ボスの座についたという。香穂は話に聞いただけで実際に試したのは初めてだったが、うまくいって良かったと思った。ただ倒れる時に自分も頭を打ったので、やるんじゃなかったと後悔したが。

「弥生さん……」

 いつの間にか、傍に来ていた千尋が目を見開いて立っていた。

「死んでるんですか?」

 切迫した口調に、香穂は気圧された。

「いえ、呼吸していますし、脚が少し腫れているだけです」

「そうですか。……とにかく、濡れないところへ運びましょう」

 表情を厳しくした彼女はきびきびと指示を下した。千尋が弥生の両脇から腕を通し、香穂が脚を持って近くの57号棟の一室に運びこむ。二人は弥生の身体を横にして、寝かせた。これは回復体位というそうで、気道を確保するのが目的らしい。

 千尋は外に飛びだしていき、やがて弥生のスポーツバッグを持って戻ってきた。そして、中にあったタオルを取りだす。彼女の表情は真剣だった。

 二人でジャージなどを脱がすと、弥生は生まれたままの姿になった。千尋は手早くぐったりとした身体をタオルで拭き、スポーツバッグに畳んで入れてあったセーラー服を着せようとした。香穂は弥生の上半身を支えたりして、着替えを手伝った。

 弥生のために、千尋は今できることをすべてやろうとしている。そんな彼女を見ていると、この現状をつくりだした香穂はいたたまれない気持ちになった。にわかに、女の子をひどい目に遭わせた自覚が湧いてきて、気持ちが沈んでいく。

 再び弥生を回復体位の姿勢に変え、二人は同時にため息を吐いた。

「……そのセーラー服が入ってるって、もしかして知ってたんですか?」

 何もいう言葉がなくて、そんなことを香穂は訊いた。

「ええ、弥生さんが遠藤さんを追って飛びだした後、スポーツバッグの中を調べたんです。携帯を持っているんじゃないかと思って。私のは、取り上げられてしまいましたから」

 薄汚れた床に正座した千尋は、弥生を見下ろしながら答えた。

 なるほど、そこまでは考えが及ばなかった。軍艦島に詳しい千尋が携帯を探すということは、きっとこの島は通話が可能な圏内なのだ。

 しかし警察に連絡した事実が知れたら、粕谷は子供たちを殺すかもしれない。通報できるとしたら、三人の子供を取り返した時以外にないだろう。たとえ携帯を見つけたとしても、今のところ意味はあまりなさそうだった。

 いわれて思い出したのか、千尋はジャージのポケットを探った。けれど、何も出て来ない。香穂たちに奪われないように、『敵』は携帯を持たされていないらしい。

 少し、静かな時間が流れた。千尋は弥生に哀しげな視線を注いでいる。沈黙を嫌った香穂は、千尋に弥生の事情を訊いた。

 それでようやく、香穂は弥生の身に起きたことを知った。

「そうですか。そんなことが……」

 集団レイプに、PTSD。想像もしなかった話だった。中学生の女の子には、過酷すぎる体験だ。もしかしたら、我が身に降りかかった運命に対する怒りも、私に向けていたのではないかと香穂はふと思った。

「少しずつ快方に向かっていたので、喜んでいたんですが……たぶん、この子は自殺するつもりでもあったんでしょう」

「そうですね、死ぬ気は伝わってきました」

 香穂は上目遣いで、千尋の顔を窺った。

「先生……私に怒っていますか?」

「いえ、刃を向けたのは弥生さんですから。やむを得ないと思います」

 千尋は目を閉じている。「それより、なんとしても望海さんを助けださないと」

「そうですね」

 長い間、追いかけっこをしていたせいで、かなり時間が経っていた。今は、午後一時八分だ。残されている建物はまだ多いし、早く次のエリアを捜索しなければならない。

「行きましょうか」

 小さく声をかけて、千尋は立ち上がる。それに対してちょっと待ってくださいと応じ、香穂は外へ出ていった。

 回収してきたのは刀と、熊のぬいぐるみだった。千尋に聞いても、それについては知らないという。だが、あれだけ頑なに手離そうとしなかったのだから、弥生にとって、きっと大切なものなのだろう。

 ぬいぐるみを弥生の脇に置き、数秒の間、彼女を見つめてから、香穂は千尋と一緒にその部屋を出た。


 CエリアにつづいてBエリアが消え、残ったのはAエリアとDエリアだった。二つのうち、どちらかを選択しなければならない。香穂は疲労で鈍った頭で考えた末、Aを選んだ。Dエリアには建物が少なく、捜す手間があまりかからないので、ここには隠さないのでは、と推測したからだった。

 まずはピンク色の外観を持つ39号棟に入った。「ここは、かつては公民館としての役割を果たしていました」と、千尋はまた解説をはじめたが、さすがにその声は低かった。

 図書館や事務所があった一階を隈なく捜し、二階へ行って汚れたカルタが残されている娯楽室などで娘の名を呼んだ。返事は得られず、二人はかつて集会場だった三階に立った。

「ここにも、いませんね」

 広々とした荒れ放題の室内を見渡しながら、千尋はいった。

「……」

「遠藤さん?」

 香穂が返事をしないので、千尋は不審に感じたようだった。

「先生」香穂は、おもむろに口を開いた。

「『端島の戦い』って、どういう小説なんですか?」

「え?」

 応じる声が戸惑っていた。なぜ、こんな時に不要不急の話題を持ちだすのか、不思議だったのだろう。それでも、千尋は説明してくれた。

「そうですね、SF仕立てなんですが、パラレルワールドの軍艦島に時空を越えて多数の男女が集められて、中には歴史上有名な武将もいたりするんですが、その人たちが、神みたいな超越的な存在によって、殺し合いを命じられるというお話です」

「へえ……」

「信長が暴れまわったり、義経が一般人に殺されたり、出鱈目なんですけどパワーがあって、私は好きなんですよね」

「普通の人もいるんですか。みんな、最初から殺す気満々なんですか?」

「いえ、それぞれのキャラによって違いますね。殺しに慣れている人もいれば、人殺しを拒否する人もいたりして。主人公は平和主義者で、徹底的に逃げまわりますね」

「人それぞれ、ですか」

 香穂は千尋の方に向き直った。「じゃあそういう状況でも、人殺しができる人間は、やっぱり異常なんでしょうか」

「……」

「私、あの子の頭を階段に打ちつけて、突き落として……あの時は理屈で割り切ったんですが、事情を知らなかったから、可哀想なことをしちゃって」

 喋っているうちに段々と興奮が嵩じてきて、声が高くなる。千尋が慌てた様子で「遠藤さん」と制止をかけた。香穂ははっとする。

「とにかく、申し訳なくて、反省してるんです……」

 香穂は声の調子を元に戻して、いった。

 極力情を無視して、機械的に戦おうとしていた香穂だったが、弥生の過去を聞いて、押し殺していた心は母親のそれに戻っていた。今はこだわっている場合ではないのに、胸の内側は果てしなく落ちこんだままだった。

 後悔の念は大きかった。まだ中学生なのに乱暴されて、精神に深い傷を負った弥生はどれだけ辛い思いをしただろう。そんな子を、香穂はもしかしたら再起不能の身体にしてしまったかもしれないのだ。

「弥生さんなら、大丈夫ですよ。大したことはないと思います」

「どうして、わかるんですか? 脳挫傷とか、してるかもしれないじゃないですか!」

 声を大きくしてから、香穂は急いで口を閉じた。

「す、すみません。先生に当たるなんて……」

 しゅんとして、謝る。どうも自分は、情緒不安定になっているようだと感じた。

 と、千尋がゆっくりと歩み寄ってきた。何をするのかと思ったら、彼女は、香穂の左手をとった。

 千尋の視線が、香穂の目を捉える。

「あの子は、心配ないですって。医者のいうことを信じてください」

「……」

「それと、遠藤さんは異常じゃありませんよ。人には、理不尽な攻撃には抵抗する権利があります。逆らわずに、死を受け入れるという選択もあるでしょう。でも、戦うという選択だってあります。私は前者を選ぼうとしましたが、どちらを選ぶかは自由で、いい悪いは関係ありません」

「……」

「あなたは戦うという選択をした。私や、望海ちゃんや、シンジ君やショウ君の命を守るために。そうでしょう? だったら、迷わないでください。あなたが立ち止まったら、望海ちゃんはどうなるんですか?」

「それは──」

「望海ちゃん、お母さんを待ってますよ?」

「……はい」

 香穂は少しの間、目を閉じた。「どうもすみませんでした」

 千尋が離れたので、一つ、小さな息を吐いた。彼女のいう通り、娘が待っているのだから、迷っていてはいけない。気持ちに整理がつかないのであれば、つかないまま、とりあえず放置するしかなかった。

 たぶん、弥生の場合は、あそこまでしなくても良かったのだろう。追ってこられないようにするには、脚を怪我させるだけで充分だったのだ(それはそれで残酷だが)。だから香穂は、刀を奪ってからの攻撃は余計で、大きなミスだったと今では思っている。

 とはいえ、経験がない判断ばかり強いられているのだから、ミスを犯しても仕方がない面もある。それに、失敗したからといって、自分を責めていても前には進めない。もし、弥生が深刻な後遺症を残すことにでもなったら、その責任は引き受ける必要があるだろう。だが、今は忘れるべきだ。でなければ──

「『端島の戦い』の主人公は、どうなったと思います?」

 ふいに、千尋が訊いてきた。香穂は、整った彼女の顔を見つめる。

「……もしかして、死んだ?」

「ええ、そうです。最後に、彼は殺されました」

 千尋は穏やかな瞳で、香穂を見つめ返した。

「戦わないというのは、そういうことです」


 次はAエリアの北端の建物の一つ、21号棟だった。この鉱員住宅の特徴は、一階に派出所があることだ。ただ当時は、いざこざは警察に持ちこまれる前に、16号棟に設けられていた詰所で解決されたという。やはり、狭く特殊なコミュニティでは、その場なりのルールというものが生まれるのだろう。

 21号棟の方へと歩きながら、香穂は肉体の疲れ以上に、精神的な疲労を感じていた。まだ、落ちこんだままなのだ。暗い気分は、今まで抑えていた疑念を大きく育てつつあった。このまま、どこを捜しても娘は見つからないのでは、という疑惑だ。

 CエリアもBエリアも外れだった。もしかしたら、当たり自体がないのかもしれない。自分は粕谷に、いいように操られているのではないだろうか。

 よくよく考えてみれば、あいつがおとなしく千尋を手放すなんておかしい。あの男は、表向きゲームを装っておいて、実はルールなどてんで無視するのではないか。本当は、ただ殺し合いがさせたいだけなのではないだろうか。だとしたら、自分たちがやっている行為は、馬鹿馬鹿しい徒労でしかないことになる。

 しかし、だからといって、捜索は止められない。まだ望海が見つかる可能性はあるのだから、明らかに嘘だと判明するまでは、ゲームを降りるわけにはいかなかった。

 辛い話だ。騙されているかもしれないのに、延々と同じ作業を繰り返すなんて。

 ふう、と深いため息を零す。すると、どうかしたのかと千尋が訊くので、香穂は「何でもないです」と、急いで首を振った。

 虚しさを覚えながら、香穂は派出所跡に入っていった。まずは天井を見ると、白いコンクリートは一部剥げ落ちていた。壁に目を移せば、木製部分は無事なところが一つもない。ここも無残なものだ。香穂は散らばる木片を踏んで一歩、進んだ。

 その時──

「ママ」

 紛れもない娘の声に、香穂は呼吸を止めた。

 まさか。本当に? 消えかけていた期待が一挙に膨れ上がるのを感じながら、香穂は視線を動かした。

 そこは、留置所だった。太い木材でできた檻の向こうで、望海が身を起こした。着ているTシャツやスカートは、香穂の記憶にないものだ。粕谷たちが買い与えたのだろう。

 薄い闇に包まれていてもはっきりとわかるほど、望海の顔は疲れていた。「来てくれたの?」という声も、かすれている。部屋の隅にはデイパックが置いてあり、その反対側の隅にある蓋つきの入れものはおまるらしかった。酷い扱いに、改めて怒りが湧き上がった。

「望海……」

 留置所に駆け寄り、檻を掴んだけれど、それから先がつづかない。胸が詰まって、何も言葉が出てこなかった。

 望海もまた、じっとしている。あんなに元気だった娘が、母親と再会したというのに、立ち上がろうともしなかった。

 二人はしばらく、無言のまま見つめ合った。

「こんなに、あからさまな隠し方をするなんて……」

 千尋が茫然として呟いている。確かに留置所は、人を監禁するのに最も適した場所だ。軍艦島を知る者なら、真っ先に思いつくべきところだった。しかし、それを逆手にとって、『敵』を配置している可能性だってあったし、なによりAエリアが危険だと主張していたのは香穂なのだから、千尋を責めることはできない。

「望海、大丈夫? 痛いことされた?」

 ようやく、香穂の喉が動いた。「ううん。ちょっとだけ」と、望海は弱々しく首を振る。

「じゃあ、平気なのね? ご飯は食べてたの?」

「うん、お弁当ばっかりだったけど」

「そう……」

 頬が熱くなって、涙が零れそうだった。とにかく、これで終わりだ。五人の命は、これで助かるのだ。粕谷に対する疑惑を持ちはじめたところだったが、こうしてきちんと決まり通りにゲームを行ったのだから、最後まであいつはルールを守るだろうと思った。

 木の檻には削り取った跡があり、粕谷たちが用意したのであろう真新しい南京錠で閉ざされていた。千尋は「勝手に錠を外している。ひどい」と憤慨している。きっと錆びついて開かないから、取り除いたのだろう。

 それはともかく、南京錠を壊さなければならない。たぶん大きな石で叩けば、すぐだ。

「ちょっと、待っててね」

 望海に声をかけ、手頃な石を拾うために、香穂は千尋を残して外に出た。

 瓦礫が広がる中、視線をあちこちに向ける。身体の内側は、歓喜で溢れていた。この先はもう、殺される怖れはないし、殺す必要もない。緊張から解き放たれた香穂は、大声を上げて喜びをあらわしたい気分だった。

 そこで──

 嬉しさで潤んでいた両目に、怖ろしいものが映った。

 人間、ではあった。だがあまりにも異様だ。彼は顔を白塗りにし、鼻の頭と唇を赤く染めている。目の下には、涙の滴が黒く描かれていた。雨に濡れた長い髪はオレンジ色だ。靴と手袋は白く、袖が膨らんだ黄緑色をした衣装には、色とりどりの水玉が散っている。

 ピエロだった。

 かつては映画館だった50号棟、昭和館の崩れたエントランスを背にして、ピエロがこちらに近づいてくる。それも、おどけたようなスキップで。

 理解不能だった。まったく反応できなくて、香穂は凝然と立ち尽くす。ピエロの扮装が持つ根源的な怖ろしさが、四肢を金縛りにしたのだ。むろん、それには突然異物が出現した驚愕も加わっている。

 こいつは何?

『敵』? でも望海がいるエリアには『敵』はいない決まりでしょう?

 半分痺れた頭で、香穂は思考した。そうだ、これはおかしい。それとも、新しいルールが追加されたのだろうか。やはり粕谷は、恣意的にゲームを行おうとしているのか。

 わからない。わからないので、相手に訊くしかなかった。

「なによ、あんた。『敵』?」

 問いかけると、ピエロはこっくりとうなずく。香穂は瞬間的に、頭を怒りで沸騰させた。

「なんでよ。望海を見つけたんだから、ゲームは終わりでしょ?」

 噛みつくように叫んだ。すると、ピエロはこめかみに右の人さし指を当てる。考えろ、ということらしい。

 思わず顔をしかめてから、香穂ははっと気づいた。粕谷はルール説明の時、「望海を助けだしたら」といっていた。「見つけたら」とはいっていない。望海はまだ、留置所の中だ。

「何? 望海を助けてないから駄目っていいたいの?」

 尋ねると、ピエロは大きく二度、うなずいた。

「でも、どうしてここに『敵』がいるのよ。それって、ルール違反じゃないの?」

 憤然として詰問する。すると、ピエロはまた人さし指を頭に当てた。実に人を食った態度だ。別に喋れないわけじゃないだろうに、むかつく奴だった。

 怒りを抑え、香穂は集中して頭を回転させた。そして、やっと重大な事実に気づいた。

 しまった。弥生から逃げていた時、深く考えずに端島小中学校の中を通ったんだった。あれは、Dエリアの建物だ。

「もしかして、学校にあんたいたの? あの時、見つかったってこと?」

 正解だったようだ。ピエロは背を反らし、大げさな身振りで拍手した。本当に、いちいち癇に障る男だ。こいつは人の神経を苛立たせて、楽しんでいるのだろうか。

 ようやく腑に落ちた。香穂を発見すれば、エリアを越えて追うことができる。だから、この男は望海がいる場所で待ち伏せていたのだ。

「──あなた、もしかして、小坂さん?」

 声に気づいたらしく、千尋が派出所跡から出てきた。

「来ないで!」

 すぐさま香穂は、背中で千尋の進路を塞いだ。事情が判明した以上、彼女には近寄ってほしくなかった。これからはじまるのは、間違いなく戦闘だ。けれど、こちらには武器があるので、千尋は必要なかった。

 香穂は日本刀を抜き、鞘を捨てて叫んだ。

「怪我しちゃいけないから、先生は下がってて!」

 そして、見よう見まねで日本刀を構える。いくら時代小説を愛読しているといっても、刀の振り方まではさすがに知らない。が、刺せば相手は死ぬのだ。何も難しくはなかった。

「じゃあ、あんたは私を殺す気なのね?」

 険しい声で訊くと、今度は三度、ピエロはうなずいた。いちいち、回数を増やすな。千尋によると、小坂という男らしいけれど。

「でも、止めた方がいいんじゃない? これが目に入らないの?」

 見たところ、ピエロは武器を持っていなかった。絶対的に有利な立場にいるのはこちらだ。なのに、ピエロは余裕綽々の態度だった。どういうつもりなのか、まったく読めない。

 いや、敵の事情など知ったことではない。香穂は先刻の千尋との会話を思い起こした。戦わなければ、死ぬ。その言葉を、声に出さずに繰り返す。なにせ、ゲームの終わりは目前なのだ。ここで逡巡してはいけない。こいつも、どうせ一億が貰えると信じているのだろう。説得など、するだけ無駄だ。この刀で一突きにして、終わらせてやればいい。

 殺気をこめて、香穂は刀の柄を握りしめる。

 と、ピエロは右手を突きだした。待て、という意味だろうか。戦意を削がれ、様子を窺っていると、両の袖から白い小さな玉が落ちてきて、掌におさまった。ゴルフボールだ。

 ピエロは四つのゴルフボールを使って、ジャグリングをはじめた。香穂は対応の選択に困り、ただ白い玉の動きを目で追っていた。

 ジャグリングを止めたピエロは、香穂に向かってゴルフボールを投げてきた。きわめてゆっくりなスピードだったので、問題なく楽に避けることができた。別に当たったところで、何の意味もない。

 すべて避け切ると、ピエロは盛んに拍手した。

「なによそれ。やる気あんの?」

 四回うなずくピエロ。香穂は両目を鋭くした。

「こっちは遊んでいる暇はないの。もう一度確認するけど、本当に私を殺すのね?」

 今度は一回だけ、ピエロはうなずいた。面倒臭くなったのかもしれない。

「そう。だったら、遠慮はしないから」

 刀を相手の胸に向け、香穂は一歩踏みだす。丸腰の相手を攻撃することに、躊躇いはなかった。そこには、娘を早く助けだしたいという焦りもあったかもしれない。

 香穂は一気に、ピエロに駆け寄ろうとした。

 だがその前に、ピエロの両手に、新たなゴルフボールがあらわれた。

 次の投擲は高速だった。走りだした瞬間、ピエロの両腕がほとんど同時に動く。香穂は額と顎に、凄まじい衝撃を感じた。

 激しい痛みに目が眩む。ボクサーがカウンターパンチを受けたようなものだ。何もできず動きを止めているうちに、額にもう一度くらい、香穂は膝をついた。

 目の前で、金属質の光が瞬いている。闘志は、すでに霧散していた。

 香穂の視界に、黄緑色の衣装が侵入してきた。

 頭上に、気配が漂う。

 見上げると、ピエロが小刻みに指を振っていた。

 右手に両手が添えられる。日本刀は、ピエロによっていとも簡単に奪われてしまった。

 刀を持つその姿を仰ぎ見た時、香穂はようやく敗北を悟った。


 ピエロがポケットから縄を取りだした時、香穂は魅入られたように無抵抗だった。逃げて再戦を挑もうという発想も頭になかった。気力を根こそぎ奪われた形だ。もっとも、まだ目眩が消えない身体で走っても、追われてすぐに捕まっていただろう。

 二人は両手を縛られ、アイマスクで目隠しをされた。我に返った香穂はその時、凄まじい恐怖を覚えた。そのまま、斬首でもする気なのかと疑ったからだ。

 けれど、そうではなかった。腰にも縄を巻かれ、前からそれを引っ張られて、歩行を強制される。それでほっと安堵はしたけれど、目隠しの意味が不明だった。今さら、見られて困るものがあるというのだろうか。

 道の上は瓦礫などの障害物ばかりなので、香穂は何度も躓いて転びそうになった。歩いている途中は、辛くて、辛くて、ずっと歯を強く噛み合わせていた。

 後、少しだったのに。逃げる時に学校に入りさえしなければ、ゲームは終了だったのに。娘と再会した直後だっただけに、悔恨は胸を抉るようだった。悔やんでも悔やみきれない。

 それにしても、なぜすぐに殺さないのだろう。香穂は、不思議でしょうがなかった。もちろんそれは有り難いのだが、こうして生かしておく理由など、いくら頭を悩ませても思いつかない。問答無用で殺し、目的を果たそうとするのが普通ではないのか。

 あれこれと理由を推測してみても、納得のいく答えは見つからない。そのうち雨が当たらなくなったので、建物の内部に入ったのはわかった。腰の縄を引かれていったん止まり、それから、また雨を浴びることになった。そして、少し歩いてからアイマスクを取られた。

 目の前にあるのは、四階建ての建物だった。千尋から説明を受けたので、香穂はこれが何かを知っている。69号棟、端島病院だ。外壁が淡いグリーンに塗られているのは、『緑なき島』と呼ばれた端島に、少しでもいいから緑色を増やしたい、という考えからだった。

 なぜわざわざAエリアからDエリアに、それも病院に連れてきたのか。しかも、千尋がいない。さっき建物が入った時に、彼女は置いていかれたらしい。香穂は、目隠しの意味はこれかと思った。千尋の居場所を知られたくなかったのだ。香穂にとって、千尋は切り札だから、その処置はわからないでもない。しかし、迂遠なことをするものだ。さっさと殺してしまえば、それですべては終わるのに。

 ピエロにぐっと背中を押される。香穂は入り口をくぐって、病院内に入っていった。

 下半分が青く塗装されているツートーンカラーの壁は、やはり所々剥がれ落ちていた。何度見ても慣れない光景だ。軍艦島の建物は入る度に、一挙に崩壊するんじゃないかという恐怖を感じさせる。

 香穂はそろそろと、壊れた遠近法の世界を形づくる廊下を進んでいった。どこへ行くのか、何をされるのか。不安はどんどん募っていく。

 と、途中で縄を引っ張られ、部屋に脚を踏み入れた。

 その途端、内臓が引きつったような感覚に襲われた。

 そこは、かつては診察室だったのだろう。細かな石が散らばった室内には、備えつけの椅子が残されていた。錆びついて、今にもばらばらになりそうな椅子だ。

 そこに、手足に褐色の痣のような跡を浮かせた女性が項垂れて座っていた。

 明らかに、死体だ。

 臭いがないのが、幸いだった。腐臭を嗅いでいたら、吐いていたかもしれない。驚愕に喘ぎながら、香穂は思った。これは、30号棟で粕谷に殺された人だ。きっと二人のうち、初めに殺られた方。首にビニールテープが貼られ、傷が隠されているから、そう判断できた。彼女のピンクのロングタンクと青のミニスカートは、あちこち血で汚れていた。

 震える肩を、ピエロに強く下に押された。座れ、ということだ。頭が麻痺していた香穂はなんら抵抗せず、従った。腰を下ろすと、脚を縄で縛り上げられた。

 ピエロは、楽しそうにスキップしながら進んでいく。死体の傍には、色々と物が置かれていた。彼はそこから白衣を取ってはおり、大げさに肩を上下させた。

 次にスケッチブックを開く。そこには『コント 診察』とマジックで書かれていた。

 香穂は、喉を鳴らして唾を呑んだ。

 コント? 何なのよ、それ?

 人が理解できるレベルではなかった。意味がわからなすぎて、香穂はひと言も発することができない。そのくせ、片時も目が離せなかった。

 ピエロはクリップッホルダー(カルテのつもりらしい)を手にして、死体に何か話しかけるパフォーマンスをしている。それから、医者が口内を診察する際に使う金属製のへらを持ち、死体を指さして唇を動かした。口を開けろということだろうか。

 香穂の顎は、徐々に下へと落ちていった。

 いくらピエロが命じても、当然、死体は応じない。そのうち、ピエロはへらを無理やり唇に差し入れ、こじ開けはじめた。できた歯の隙間に指を入れ、上下に開いていく。

 すると、何かが勢いよく口から飛びだした。

 かちんと音を立てて床に落ちたのは、バネのついた小さなピエロの人形だった。予め、仕込んでおいたらしい。ピエロは大仰に尻餅をつき、香穂に向かって肩をすくめ、両腕を広げてみせる。

 香穂は唖然として、口を開けたままだった。

 何? 何、何?

 クエスチョンマークが頭上を飛び交う。これを見て、どうしろというのだ。笑えというのか。どんなユーモアのセンスなんだ。笑えるわけがないだろう。死体を弄ぶピエロなんて、狂気の沙汰でしかないじゃないか。

 そういえば、粕谷は千尋に対して、殺人ゲームを楽しんでくれといっていた。これは、それと同じ感覚なのだろうか。狂人の発想は、似たものになるのだろうか。

 茫然とする香穂をよそに、ピエロはパフォーマンスをつづける。聴診器を耳に当て、死体のロングタンクをまくり上げた。腹部の傷にもまた、ビニールテープが貼られている。ブラジャーはピエロが外したのか、すぐに小ぶりの乳房があらわれた。

 ピエロは右手で聴診器を死体の胸に当てる。同時に、左手が片方の乳房を覆った。右手が聴診器を放りだし、左手の甲を叩く。ピエロは右の人さし指を突きつけ、左手に対して怒っている様子だ。その間、左手はしゅんと項垂れていた。

 再び診察がはじまる。するとまた左手が乳房を触り、右手に叩かれた。今度は、右手が左手に聴診器を押しつける。しかし左手が聴診器を胸に当てると、次は右手が乳房をまさぐった。左手が右手を叩く。

 怖かった。香穂はひたすら怖かった。ここまで常軌を逸したものを見せられた経験はない。巨大な断絶を感じた。決して越えられない、正気と狂気の壁。こいつを相手に戦おうとか、そんな気にはとてもなれなかった。

 ついに、香穂は目を閉じた。こんなとんでもないホラーショウに、最後まで付き合う義理はない。見ていると、こっちまで頭がおかしくなりそうだ。こうなると、ピエロが喋らないことが嬉しかった。視界を闇で塗り固めれば、何もないのと同じだ。

 そのままの姿勢で、一、二分が過ぎていった。

 何か、音が響いていることに香穂は気づいた。

 肉をぶつけ合う単調な音。嫌な想像が湧いてきて、香穂はぎゅっと瞼に力をこめた。きっと、見ればさらに不快になる。それだけは明白だった。

 けれど、確認したい気持ちも大きかった。

 好奇心に負けて、恐る恐る目を開く。

 その結果、衝撃のために、香穂はまったく動けなくなってしまった。

 ピエロは衣装のズボンと黒のトランクスを足首まで下げていた。そのため、すね毛に覆われた脚が剥きだしになっている。だが、局部は見えなかった。ピエロがスカートをまくり上げた死体を抱き、腰をゆっくりと前後させているからだ。死斑を浮かせた脚や身体は、彼の動きに合わせて揺れていた。

 ピエロは、死んだ女性を犯しているのだった。

「きゃあああああっ!」

 知らず、香穂は悲鳴を上げていた。声を出さずにはいられなかった。止めろ、ともいえなかった。こんなやつと、、会話などしたくない。ただ、拒絶の感情しかなかった。毒蛇に対するような拒絶だった。

 長々と悲鳴を発しながら、香穂は思った。

 こいつは、絶対に狂っている。

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