第17話 対決

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 なんだ、この程度か。

 弥生は侮蔑と落胆のために、目を細めた。あんなやり方で突き落とせると高を括っていたのだろうか。同学年で一番弱い美鈴より、スピードが遅い。鼻で笑いたくなった。大体、持ちにくい木片をそうそう素早く扱えるはずがない。考えが甘いのだ。

 元々、ぬいぐるみさえなければ、楽に追いついて殺せる相手だった。それでも、これはお守りみたいなものだから、離したくなかった。それでこうして追い詰めたのだから、結局問題はなかったわけだ。ぬいぐるみは今、壁にもたれて彼女を見上げている。母親に見守られているみたいに弥生は感じた。

 ふいに、先生の言葉が脳裏をよぎった。

 あなたのお母さんだったら、きっとこういうわよ。「馬鹿なことはやめて、帰ってきて」って。そうかもしれない。いつか心から笑える日が来るのを信じ、根気よくカウンセリングに通っていた方が良かったのかもしれない。けれど、弥生は選択した。野放しになっている悪の代表みたいなこの女を、この手で始末する。そう、決意してしまったのだ。

 今さら、止められはしない。時間は、決して巻き戻せない。

「さすがに、駄目みたいね」

 女は、肩を落として寂しげに笑う。あれだけ必死に逃げまわっていたのに、とうとう観念したのだろうか。

 いや──悪党は往生際が悪いと相場が決まっている。映画や漫画などで弥生は何度も、主人公の油断を誘って逆転を狙う悪役を見てきた。こいつも、いかにも腹に何か抱えていそうだった。

「剣道ってあれでしょ? 面と胴と小手と突きがあるんだっけ?」

 弥生は答えなかった。相手が何を仕掛けてくるのか、見極めようとしていた。

「どうせなら、突き殺してほしいな。心臓をひと思いに。そうすればあまり苦しまずに楽に死ねそうだし」

「……」

「ね、頼むから」

 眉を下げて香穂はいう。最期のお願い、というわけだ。しかし、弥生の心にはまったく響かなかった。まず「楽に」という言い草が気に入らない。お前に、楽に死ねる権利があると思っているのか。冗談ではない。弥生は、一突きで死なせる気など微塵もなかった。大体、中学生までは突き技は禁じられているのだが、この女は知らないのだろうか。

 もし知っていて、わざわざ突いてくれといっているのだとしたら、とてもきな臭い。何か、目論んでいるのではないか。攻撃してくる場所が特定できれば、かわす方法はあるだろう。きっとこいつは、対策を練って待ち構えているに違いない。

 それならば、突くと見せかけて真っ向から斬り下げてやろう。面打ちを、弥生は最も得意としていた。未経験者が相手なら、万に一つも外すことはない。

「うん、いいよ」

 小さく応じ、弥生は柄を握る指に力をこめた。「雑巾を絞るように持て」──入部した頃、雅文から受けた指導の言葉だ。部活中は厳しかった彼は、恋人としてはとても優しかった。もうあの人には、決して会えない。私が死んだら、雅文は泣いてくれるだろうか。……いや、人殺しのために流す涙なんて、ないか。無駄な期待は、しないでおこう。

 気息を整えてから、弥生は刀を振り上げ、振り下ろした。次の瞬間には香穂の額は割られている、はずだった。

 ところが、香穂は両手に持った木片を素早く上げ、渾身の一撃を受け止めた。

 防がれた?

 固い木片に刀は弾かれ、両脇が上がった。そこへ、木片を持ったまま香穂が突撃してきた。体当たりをくらい、弥生は背中を壁にぶつけた。

「バレー部の動体視力舐めんな!」

 叫びながら、香穂は弥生の顎に頭突きを叩きこんだ。目の前に、細かい光が散る。気がついた時には、父の刀は相手の手に渡っていた。

 すぐさま、香穂は刀を側壁の向こうへ投げ落とした。

「あんたって、卑怯なことばかりするのね!」

 香穂は、鋭くこちらを睨みつけてくる。攻撃をかわされたことはショックだったけれど、弥生は気を取り直し、ダメージの回復に努めた。刀は奪われたものの、まだ勝敗は決していない。彼女は次にどうするべきか、迷った。

「女同士でしょうが! 武器なんか使わなくてもいいでしょ? あんた、私より背が高いじゃないのよ! ウェイトだって、私より上でしょ!」

 体重のことはいうな。

「ほら、こうしてあげるわよ」

 香穂は階段を一つ下りて、両腕を広げた。

「どう? 今なら簡単に私を落とせるわよ? 手で突くだけでいいのよ? そんなこともできないの? あなたは日本刀がないと、怖くて戦えない臆病者なの?」

 あからさまな挑発だったが、確かにこの状況なら、苦もなく相手を落とせそうだった。目眩は消え、四肢の力は戻っている。刀にこだわる必要もなかった。

 躊躇う理由はない。

 弥生は両手を突きだし、胸を狙った。しかし、その手首を握られ、身体が傾く。胸を突かれた香穂は一段下りただけで踏みとどまり、腕をひかれた弥生は勢いがついて二段ほど下りた。横にまわった香穂に、背後をとられる。

 敵の姿が消えたと思った瞬間、両膝の裏を押され、首に腕が巻きついて、弥生は後ろに倒されていた。

 髪を掴まれ、頭を階段に打ちつけられる。力任せではなかったものの、これは効いた。思考ができなくなり、抵抗する力を失った弥生は、腕を引っ張られて立った。

 そして身体が、宙を舞った。

 突き落とされた、とわかった時には背中に衝撃を感じていた。ぐっと、呼吸が止まる。転げ落ちる度に、脚、腰、頭など、ありとあらゆるところを打ちつけた。痛い。痛すぎて、死を願ったほどだ。でなければ、早く気を失ってほしい。

──助けて。

 痛いよ、お父さん、お母さん。

 さらに後頭部を打った弥生は、ようやく願い通り、意識を途絶えさせた。

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