第16話 追い詰められて
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どうするべきか迷いながら、香穂は島中を走りつづけていた。
建物の内部には、もう入らなかった。17号棟で行ったようなアクロバットをもっと高い階から試せば、弥生はまた無理に追跡しようとして墜死するかもしれない。けれど、まだ香穂は彼女を殺すところまで踏み切れなかった。それに、自分の方が失敗して死ぬ可能性もある。危険を冒すのならば、必ずこれで決めるという、決定的な場面でやるべきだった。
やはり弥生の方にぬいぐるみを抱えているハンデがあるため、追いかけっこをしていると、徐々に差が開いていった。お陰で心理的な余裕が生じ、香穂は戦闘の方法を、じっくりと検討できた。アイディアは、ほぼ形を整えつつある。だが、それはとても危険なプランだった。実行する気には、とてもなれないほどの。
「話……」
後ろから、微かに声が聞こえてきた。何だろう。少し速度を緩め、香穂は耳を澄ました。
「話、聞いても、いいよ」
──まさか。
香穂は耳を疑った。信じられなかった。あんなに頑なだった弥生が、折れてくるなんて。本当だろうか。ではもう、戦わずに済むのか。
脚を止めて、香穂は振り返った。弥生は日本刀を背中の鞘に収め、ゆっくりと歩いてくる。息がかなり乱れて、苦しそうだった。
「ちゃんと聞いてくれるの?」
尋ねると、喋るのも辛いのか、弥生は黙って顎を引いた。
喜びは、大変なものだった。これで、無用な流血を避けられるのだ。頬をほころばせながら、では屋根のあるところで話そう、と香穂は提案し、弥生はそれなら51号棟が近いし、あそこへ行こうと応じた。
急に脚が重くなったように感じた。溜まった疲労が、安堵した途端に一挙に噴き出てきたのだろう。それでも、辛さを嬉しさが上まわった。香穂は色々と話しかけ、わざわざ水の溜まった七階に潜んでいた理由も訊いた。弥生は「水の音で、近づいてくるのがわかるから」と答えた。香穂があらわれたら、すぐに刀で刺すつもりだったらしい。では、もし弥生が眠っていなかったら、確実に殺されていたわけだ。想像して、香穂は寒気を覚えた。
七階の部屋へと戻り、六畳間に入ると、千尋の姿はすでになかった。
「あ、そうだ。一応確認するけど、先生は傷つけてないわよね?」
思い出して、香穂は訊いた。すると、弥生は不本意そうな顔つきに変わった。
「当たり前よ」
「そう」
香穂はうなずいた。では別れた時の約束通り、千尋は端島神社で待っているのだろう。場所を変更しておけば良かったな、と後悔が湧いた。高橋が死んだ時点で、Cエリアにある建物の中で待ち合わせる約束にしておけば、無駄に濡れさせずに済んだのに。
弥生は腰を下ろすと、スポーツバッグから水の入ったペットボトルを取りだし、勢いよく喉を鳴らした。それから、こちらへ差しだしてくる。渇きを覚えていたので遠慮なく、香穂も水を飲み下した。
「子供の名前って、望海ちゃんだっけ?」
唐突に、まだ肩で息をしている弥生が訊いてきた。ようやく普通に会話を交わしてくれるようにはなったものの、日本刀は油断なく、ぬいぐるみと一緒に香穂の手が届かない背後に置いている。
「そうよ。あなた、会ってるんでしょう?」
「会ってないよ」
「どうして? 島に来る時は?」
「それは、あんたと一緒」
「え?」
「ボートでは、眠ってるあんたと一緒だった。私はあんたを運ぶ担当」
大きく目を見張った。香穂と幹也を罠に嵌めた後、この子はずっと自分たちと行動をともにしていたのか。でも眠っている香穂たちを弥生だけでは移動させられないから、他にもまだいたのだろう。粕谷と高橋か。あいつらに身体を触られたかと思うと、かなり気分が悪かった。
「じゃあ、シンジ君とショウ君は?」
弥生は静かに首を振った。全然、知らないらしい。この子は騙して連れてきているから、きっと粕谷たちにとって都合の悪い部分は見せていないのだ。
「望海ちゃんって、どんな子?」
「すっごくやんちゃな子よ。元気いっぱいでね。クラスに君臨してるの」
「へえ、面白い」
弥生は膝を抱き寄せ、微かに笑う。香穂は不審に感じた。この子は、なぜ望海のことを訊くのだろう。そんな話をするために、ここへ来たわけではないのに。
「それより、あなた、私のことでどんな話を吹きこまれたの?」
「望海ちゃんかぁ。ねえ、三文字しりとりしようよ」
「は?」
まったく場に相応しくない提案をする弥生を、香穂は当惑して見つめた。
「望海の『ミ』からね。えーとね、ミカン」
「終わっちゃったじゃないの」
冷静につっこむと、ああ、失敗しちゃったと笑って、弥生は頭に手を当てた。ふざけた態度に、香穂は眉をひそめる。
「じゃあね、ミツバ」
「バラン」
「そっちだって、終わっちゃったじゃない」
「終わらせたのよ」
「バランって何? 怪獣の名前?」
香穂はぐっと弥生に身体を寄せた。小さなにきびを浮かせた頬の間近まで迫る。
「そんなの、どうでもいいわよ。しりとりするためにここへ戻ったんじゃないでしょ?」
「虐待」
「え?」
「あんたが子供を虐待してるって聞いた。それが、とってもひどいんだって」
「……」
あまりのことに、香穂は言葉を失った。よりによって、そんな嘘をつくとは。怒りのせいで、顔がかっと熱くなるのを感じた。
「とんでもない出鱈目よ。私が望海を虐待するわけないから」
「そりゃ、あんたはそういうでしょうね」
「え……」
「誰だって、自分の都合のいいことしか話さない。そんなの当たり前よね」
いつの間にか、弥生は以前の冷たい口調に戻っていた。じわりと、嫌な感覚が広がる。
弥生は立ち上がり、また鞘を腰の位置に持ってきて刀を抜いた。
「いいよ、逃げて」
「何ですって」
「もう息が苦しくなくなったから。お遊びは終わり」
愕然として、香穂は口を開けた。この子は、回復の時間を稼ぐために欺いたのか。中学生のくせに、そんな手まで使うのか。
高橋の場合は誘い方が露骨だったので、さすがに騙されなかった。けれど、弥生に対しては疑念を持たなかった。どうしても話を聞いて欲しいという思いがあったからだ。仮に疑ったとしても、説得を第一目標にしている以上、弥生に従うしかなかっただろう。香穂には、選択の余地がなかったのだ。
腹が立ったが、香穂が気を抜いている間に斬ることもできたのだから、まだ良心的といえるかもしれない。さすがに、そこまで卑怯な振る舞いはしたくないのだろう。
弥生は半ば瞼を閉じた瞳で、香穂を見下ろしている。
完璧に、相手を拒絶する目。敵意と蔑みのこもった目だった。
その目を見た時、香穂は決断した。
日本刀に注意を凝らしながら、立ち上がる。そして、走りだした。少し遅れて、追う足音が聞こえはじめる。全力を振り絞り、香穂は疲労が蓄積した脚を動かした。
迷いはきれいに消えていた。心は、とても穏やかだ。いったん覚悟が定まると、香穂は揺れなかった。たとえどんな誤解があろうと、殺意を持って迫ってくるのであれば、こちらには排除する権利がある。自分は、その権利を使わせてもらうだけだ。
人を殺そうとする者は、殺されたって決して文句はいえないだろう。
51号棟を出ると、先端の尖った、手ごろな厚さと長さを持った木片が落ちていたので、香穂はそれを素早く拾った。
頭の内側は、高橋を殺した時のように熱を放ってはいなかった。二度目なので、慣れてきたのだろうか。とても冷静に、プランのイメージトレーニングだけを行っていた。
ただ一歩間違えば、命を失うことは明白だった。それも、かなり高い確率だ。だが、娘の顔を思い浮かべたら勇気が湧いた。あの子を残して、自分が死ぬはずがないと信じた。
胸に定めた目的地を目指し、香穂はひたすら駆けていく。
と、香穂は驚きに目を見開いた。
視線の先に、千尋が立っていたのだ。16号棟の傍らだった。
追われているので止まるわけにもいかず、香穂は「何してるの、先生!」と声をかけながら、通り過ぎた。千尋は真っ直ぐ、弥生に目を向けているようだった。
少し先に進んでから、背後を見やる。すると、千尋が弥生を抱きしめるところだった。トップスピードだったら千尋は倒されているから、立ち塞がる彼女を見て、弥生は脚を緩めたのだろう。
香穂は立ち止まった。
二度と油断はしない。距離を開け、いつでも動きだせる体勢をとって、成り行きを見守った。千尋の意図を、すでに香穂はおおよそ、理解していた。
「もう止めて、弥生さん」
千尋の必死に絞りだす声が、香穂にも聞こえた。
「今の姿を振り返ってみて。これが、本当にあなたのしたいことなの?」
「……」
弥生は、ひと言も洩らさない。
「違うでしょう? 人殺しなんて、あなたがすることじゃない。あなたは、こんなことをするために生まれてきたんじゃないのよ」
「……」
「あなたは、私のこと、お母さんみたいっていってくれたじゃない。あなたのお母さんだったらきっとこういうわよ。『馬鹿なことはやめて、帰ってきて』って」
香穂の位置からは弥生の顔は窺えない。ぬいぐるみの首を抱えた左腕と、刀を持った右手はだらんと垂れ下がっていた。刀尖が、地面を這うように小刻みに震えている。
「死にたいって気持ちは、今だけなのよ? あなたの奥にいる、本当のあなたは生きたがっているの。あなただって、それぐらいわかっているでしょう?」
「……」
「とっても苦しいのよね? でもその痛みは、いつか必ず癒えるから。私が保証するわ。私のいうことって、いつも間違ってなかったでしょう?」
千尋の真摯な声が、降り注ぐ雨を通りぬけて響く。ここまで弥生を思いやった言葉なら、彼女の心に届くのではないか、と香穂は期待した。
聞いている香穂には、事情はさっぱり掴めない。けれど、話の内容から、何か重大な出来事が弥生の身に起きたことは察せられた。
ずっと沈黙していた弥生が、やがてぽつりと呟いた。
「私……治るかな」
「もちろんよ」
「この苦しいの、消える? 元の私に戻れる?」
「ええ、私に任せて」
千尋の声は、涙に濡れているようだった。
「そう……」
弥生は左手のぬいぐるみで、そっと千尋の身体を突き放した。その瞬間、悲しいことに、香穂にはその先の展開が見えてしまった。
「でも、決めたことだから」
弥生は千尋の横を通り過ぎた。千尋は、もう振り返らない。その背中にあるデイパックと黒髪は、絶望に打ちひしがられているのか、微動だにしなかった。
──駄目だったか。
説得が不首尾に終わったことを、素直に香穂は残念に感じた。
その一秒後には、気持ちを切り替えた。弥生がかつて、どんな過酷な体験をしたかは知らない。けれども、今は同情する気はなかった。そんな甘い態度でいたら、行動に迷いが出て、殺される。香穂はあえて単純な思考に徹した。千尋の努力は実らなかった。ならば、後はプランを実行するだけだ。
再び追いかけっこがはじまる。千尋の後ろ姿を忘れ、望海の心配すら意識から遠ざけ、ただやるべきことをチェックしながら、香穂は走った。目的の地獄段に向かって。
地獄段の下は瓦礫などで埋められ、凄まじい惨状だ。大きな石を飛び越え、香穂は階段を駆け上がった。狭い建物の間を急傾斜で通っていくこの地獄段は、学生のマラソンコースになっていたという。だが、香穂と弥生の二人きりでつづけてきたマラソンは、ここで終わらせるつもりだった。
背後の足音とは、少し距離が開いている。それは千尋のお陰だけれど、プラン実行のためには弥生が遠すぎてもいけない。香穂は、ちょっとだけ速度を落とした。
足音が急速に迫ってくる。
香穂はタイミングを計っていた。練習なしの一発勝負なので、勘が頼りだ。それが、大きな不安材料だった。
いや、今さら躊躇っても仕方ない。
香穂は覚悟を決め、脚を止めて素早く身体をねじった。
木片の尖った先端を、弥生の胸目がけて一直線に突きだす。これでダメージを与え、できればそのまま倒して、階段から落とす。これが、香穂の計画だった。
ところが──弥生は呆気なく防いだ。持っていたぬいぐるみを盾にして。
悪あがきと知りつつ、そのまま押してみたが、弥生は身体を横にしてかわした。面倒くさそうな動きだ。それから、つまらないものを見る目を、香穂に向けた。
流れていた時間が硬直する。
失敗に、香穂は頬を歪ませた。策が尽きたと察したのだろう、弥生は唇を緩めた。
「それで、終わり?」
「……」
「どうしたの、逃げないの?」
弥生が階段を一歩、また一歩と上ってくる。香穂は左側へと身体を寄せていった。地獄段の幅は一定ではなく、そこは広めの一段だった。
ついに彼女は香穂と同じ段に脚を置いた。16号棟を背にして、香穂に目を据えながら、ぬいぐるみを脇に座らせる。
弥生は両手で日本刀を構えた。
「じゃあ、死になさい。遠藤香穂」
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