第14話 逃走

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 派手に水しぶきをはね飛ばし、香穂は廊下を駆けていった。

 後ろの方から少し離れて、別のばしゃっという音が聞こえる。それが連続する。ばしゃっ、ばしゃっ。香穂は振り返らなかった。弥生が追っているに決まっているからだ。背後を見る暇があったら、必死になって逃げるべきだった。

 弥生は、千尋を突き飛ばしてきたのだろうか。たぶん、そうだろうと思った。中学生といえども、歳相応以上に育った身体は剣道で鍛えているし、華奢な千尋を振り払うぐらいわけはないはずだ。ただ、あの子は先生が好きだといっていたから、傷つけはしなかっただろう。その点に関しては、香穂には不安はなかった。

 それよりも、と考えた。日本刀の刃渡りは、どれくらいなのだろうか。一メートルはないにしても、それに近いぐらいの長さはありそうだった。つまり、それだけの距離まで詰められたら、背後に一太刀くらって、香穂は死ぬ。高橋に追われた時とは比べものにならない、もの凄い恐怖が全身を蝕んだ。近づかれたら、終わりだ。

 それにしても、金が目的でないのなら、弥生は何のために殺そうとするのだろう。

 あの子は、裁くという言葉を使っていた。では何か、誤解をしているのか。粕谷に騙されたのだろうか。確かに中学生ぐらいなら、簡単に嘘を信じこみそうだ。それで、殺人を決意したというのか。

 それならば、誤解を解けば助かるが、弥生はすでに香穂との会話を拒否している。説得は難しいと思われた。だがとりあえず、それを第一の目標に置き、第二の目標として、刀を奪うと決めた。その方法は、まだ閃いてくれないけれど。

 それから、第三の目標も設定する必要がある。説得が無理、刀も奪えないとなった時だ。そうなると──弥生を殺すしかない。

 できるのか、正直、疑問だった。あんな中学生を殺せるのか。自分の胸に尋ねた香穂は、小さく首を振った。子供を救うために子供を殺すなんて、本末転倒だった。

 けれど、どうしてもやらなければならない事態になったら──

 結論が出せないので、香穂は考えるのを止めた。今はとにかく、逃げることに集中しよう。それが、最も大事だ。

 ところが、すぐに香穂は迷いに捉われた。弥生を振り切ることはできるかもしれない。ただ、そうすると高橋の時のように再び発見されて、襲われる危険が生じる。また不意打ちをくらうかもしれなかった。だから、逃げ切ってはいけないのではないか。

 なんてことだろう。逃げないといけないし、完全に振り切ってもいけない。このままあの子に背中を追わせつつ、脅威を取り除く方法を考案しなければいけないのだ。常に後ろから斬られるリスクを背負いながら。

 そんな話があるものか。あまりの難問に、香穂は悲鳴を上げたくなった。アイディアなんて、そうそう出てくるものではないし、それにこんな極限状況では、頭だって回らない。無理よ、と呟いた。

 けれど、香穂はそれをやらなければいけないのだった。


 とにかく彼我の距離を広げたい。余裕が欲しい。でなければ、良いプランなど思いつきそうもなかった。

 51号棟を飛びだしてから、香穂は一度、背後を見やった。弥生はぬいぐるみを左脇に抱き、右手に抜身の日本刀を握って、無表情のまま追ってきていた。鞘は背中に回したままだ。大きな荷物を抱えているのに、その脚は速い。となると、ぬいぐるみを捨てられたら、すぐに追いつかれるかもしれなかった。

「待ってよ、話を聞いて!」

 無駄と知りつつ、香穂は叫んでみた。案の定、答えはない。走りながら説得するなど不可能だから、当座は、第一の目標は捨てるしかなさそうだった。

 となると、第二の目標、武器の奪取に意識を集中させるべきなのだろう。

 けれど、刀を奪いたいのなら、弥生に近づかなければならない。となると、どうしたって斬られるリスクが生じてしまう。これをゼロにするのは、おそらく無理だ。

 ということは、リスクが極力少ない、成功率の高い方法を考案するしかないのか。

 どうすればいいのだろう?

 答えを探しつつ、瓦礫の上を苦労しながら走っていると、香穂はいつしか67号棟の傍までやって来ていた。再び、Dエリアに入ったわけだ。

 67号棟は、建物の前面に「X階段」と呼ばれる、交差する不思議な外階段が設えられている。その話は、Cエリアに入る前に千尋から教えられていたが、何か実用的な理由があるのかどうかまでは、香穂は知らなかった。

 香穂は狭い階段を駆け上がり、弥生が追ってきているのを確認してから、途中で側壁を越えて飛び降りてみた。そして、走りながら振り返る。弥生はぬいぐるみを先に投げ、ちゃんと同じように飛んでいた。ぬいぐるみを拾った弥生はまた駆けだす。少しだけ、距離をかせげたようだ。

 焦りのせいか、早くも息が切れはじめ、それにつれて思考力が落ちてきた。島を一周するなんてご免だという思いから、端島小中学校に入り、小石を蹴散らして階段を駆け上がる。七階で65号棟に繋がっているという話を、千尋から聞いていたからだ。もしここに『敵』がいたら二対一になり、直ちに終了となるのに、そこまでは考えが及ばなかった。

 結果として、香穂はそのこととは関係なく、後悔するはめになった。二つの建物に渡された橋はあるにはあったのだが、それは大量の瓦礫を乗せてたわんでいたのだ。見るからに、今にも崩れ落ちそうだった。

 追ってくる足音が、強烈な脅威と化して心臓を乱打する。弥生が傍まで迫ってきていた。もう引き返せない。やるしかない、と決意を固め、香穂は橋に脚を乗せた。

 高さを意識しないように前方に視線を固定し、そろそろと進んだ。渡っている最中はずっと、腕に鳥肌が立っていた。時間が、五倍ぐらいにまで延びたように感じる。

 それでも、なんとか無事に65号棟に辿り着いた。

 香穂は振り返った。

 さすがに、同時に二人乗るのは無理だと悟ったのだろう。弥生は、香穂が渡りきるのを待っていた。それを見届けてから、弥生は躊躇わずに追ってくる。香穂が慎重に歩いたのに対し、彼女は普通に走っていた。

 なんで! どうして、そこまでするの!

 香穂は驚き、駆けだしてから息を吐いた。まるで、未来から来た殺人アンドロイド並みのしつこさだ。なんという勇気だろう。あの子は恐怖を感じないのだろうか。

 もしかすると、すでに弥生は、死ぬ覚悟を固めているのかもしれない。

 そうまでして、私を殺したいのか。なんとまあ、憎まれたものだ。けれど、香穂には苦情をいう暇がなかった。かわりに考えた。

 あれほどの強い精神力をも持った女の子に、リスクの少ない方法で対抗などできないのではないだろうか。死を怖れない『敵』には、こちらも死ぬ気で立ち向かうしかないのではないか。中学生だからといって、舐めてはいけない。武器を持ち、断固たる殺害の意思を携えた相手は、少女であっても恐ろしい敵だ。生半可な覚悟でいたら、きっと殺られる。

 思えば、高橋の時も、自分は一つ間違えば死ぬところだった。それぐらいの危険を冒さなければ、この危機は乗り越えられないに違いない。

 では、どうする。

 高橋みたいに、屋上から突き落とす?

 浮かんだ思考に、香穂はぞっとした。相手は子供だというのに。しかし、これは殺し合いだ。刀を奪うとか、悠長な方法を模索している場合ではない。

 娘を取り戻すためには、命を奪ってでも『敵』を排除すると決めたはずだ。だったら、たとえ子供であっても、向かってくるのであれば、殺すしかないのではないか。

 だけど──

 迷いながら、香穂は階段を駆け上がった。屋上に出て、弥生を落とせそうかどうか、とりあえず見てみよう。そういう、中途半端な考えからだった。

 千尋のいう通り、ここはかつて保育園だったようだ。たくさんの子供たちが遊んでいたであろう鉄製の滑り台が、錆びつつも原形を留めていた。崩壊途上の階段が、まだまだ激しい雨に打たれている。香穂は、二つついている階段の一方から急いで登った。

 弥生は上まで追って来なかった。駆け寄って来ると、滑り台の傍で香穂を見上げる。下りてきたところを、襲う腹なのだろう。期せずして、睨み合う形になった。

 これで、追いつめられたわけだから、状況的にはすこぶる悪い。ところが、香穂の胸は新たな希望で満たされた。今なら、話し合えるかもしれないからだ。

 説得が成功すれば、弥生を殺さずに済む。一番望ましい解決に至ることができる。自然と、肩に力が入った。

「弥生さん、話を聞いてってば」

「……」

 必死になって訴えかけても、弥生は返事をしない。滑り台の下で香穂にひたと目を据えて、三歩歩いては折り返すということを繰り返している。

「あなたは私が何か悪いことをしたと思ってるの? それは嘘よ。私は、殺されるようなことは何もしてないんだから!」

「……」

「粕谷に、どんな話を聞かされたの? 教えてよ」

「……」

「あなた、先生が好きなんでしょう? 粕谷は、先生を殺そうとしているのよ!」

 やはり、弥生は口を開かなかった。

「どうして、嘘を簡単に信じられるの? 裁判だって証拠がなければ、人を有罪にはできないのよ?」

「これは裁判じゃないから。人が人を裁くのに、証拠はいらない。信頼できる人の言葉さえあればいいの」

 片時も香穂から視線を外さず、弥生はいう。その台詞を聞いて、香穂は大きな落胆を覚えた。弥生は、自分が間違っているかもしれないなんて、疑うつもりは微塵もないのだ。

 あいつのいうことを、信じ切っているというの? じゃあ、何をいっても無駄?

 あの粕谷がそこまで信頼されているということが、香穂にはショックだった。どんな手段を用いて、この少女に取り入ったのだろうか。

 それから、なおも香穂は言葉を連ねたが、弥生は頑として受けつけなかった。これでは岩と話しているのと変わらない。香穂は口の上手い女だから騙されるな、ぐらいは吹きこまれているのかもしれなかった。

 ついに香穂は断念し、滑り下りると見せかけて、弥生がいる方とは反対側へ飛び降りた。そして、再び走りだす。説得を試みる間に呼吸が落ち着いたので、まったくの無駄骨でもなかったのが、せめてもの慰めだった。

 この子の説得は不可能。第一の目標は却下。

 となると、刀を奪う? それとも、殺す?

 香穂の心は揺れに揺れた。半端な態度が一番いけないのに、と自分を責めても、そんな簡単には決められないじゃない、ともう一人の自分が反論した。

 とにかく、今は詰まった距離をもう一度広げたい。65号棟を出た香穂は日給住宅を目指した。日当たりをよくするために、日給住宅は下の階よりも上階は奥へ引っこんでいる。そう、千尋から聞いていたためだ。それならば、ようやく浮かんだあるアイディアの成功率が、高くなるのではないかと考えたからだった。

 弥生に追われながら、階段を上り、17号棟の三階に向かう。そして、走っている時に見て決めていた部屋に入った。目標のベランダの手摺りは半分がた壊れていて、手摺り柱が所々、歯が抜けたように消えている。

 香穂は、そのベランダの手摺りの間に脚から飛びこんだ。

 身体が空中に飛びだしていくが、落ちる前に両手が手摺り柱を掴んでいた。握った手を支点にして身体が戻っていく。折れないで、と香穂は心中で懸命に祈った。

 縁で腕を打ち、手を離す。勢いのついた身体は、ほとんど残っていない手摺りの上を飛び越えて着地した。前につんのめって数歩進んだ香穂は、すぐに体勢を立て直した。

 小さく、ガッツポーズをつくる。

 よし。イメージ通りに、二階へ移動できた。危険を冒さなければ、勝つことはできない。そう腹を決めたからこそ、できた芸当だった。

 二階の縁を掴んでぶら下がり、地上に降り立つ。顔を上げると弥生はまだ三階にいて、茫然としている様子だった。

 思わず、にやりと笑う。

 どう? さすがにこれは、まねできないでしょう?

 やっと死の恐怖から逃れられた解放感は、半端なものではなかった。香穂は痛快な気分になり、腰に手を当てて勝利の余韻に浸った。

 だがそれも、束の間だ。次の弥生の行動に、香穂は目を疑うことになった。

 刀を背中の鞘に収めた弥生が、ぬいぐるみを抱えたまま、手摺りをくぐったのだ。それから、右手で手摺り柱を握ってぶら下がろうとする。

 危ない!

 崩れかかった橋を渡った時の比ではない。いくらなんでも無理だ。彼女の片手の筋力だけで、体重を支えられるはずがなかった。

 予想通り、弥生はすぐに落下した。

 が、幸運にも靴の裏が二階の縁に当たった。それで、いったんスピードが殺された。

 弥生は地上に落ちてくる。その前に、彼女は両手に握ったぬいぐるみを下に向けていた。ファー布の茶色と、ジャージの赤が重なる。まるでぬいぐるみと恋人同士のように抱き合って、キスをしているみたいに見えた。

 今度は、香穂が茫然とする番だった。

──嘘でしょう? なんて子なの、ぬいぐるみをクッションにするなんて!

 さすがにその発想はなかった。たとえ思いついたって、普通は怖くて実行できないだろう。驚きが大きすぎて、香穂は棒立ちになっていた。

 地面を転がり、むくりと立ち上がった弥生は、怪我一つしていない様子だ。香穂の方は、二階に飛びこむ際に腕を打って痛めているというのに。

 弥生は、瞳に揺るがない憎悪をこめている。彼女はたすき掛けにしてある紐を外し、鞘を腰の位置に移動させて、刀をゆっくりと抜いた。

 呆気にとられている場合ではなかった。香穂は、またも逃げなければならなかった。

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