第13話 おぞましい過去

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 世にいう反抗期というものを、会川弥生は経験しなかった。

 母はおっとりした性格で、娘が乱暴な振舞いをしたら怒るどころか泣きだしそうなので、弥生は逆らう気になれなかった。商社に勤める父はおのれに厳しい人だが娘に対しては穏やかで、彼女は父を尊敬していた。両親に対しては何も不満はなく、この夫婦の元に生まれた私は恵まれていると、弥生は常々考えていた。

 剣道の有段者である父は、休みの日は庭で竹刀を振っていた。そんな父の姿を見ながら育った弥生は中学に入ると、迷わず剣道部に入った。父と同じ道を歩みたかったのだ。弥生自身は脚が早いぐらいで、運動自体に対しては苦手意識を持っていたのだが、だからこそ何としても克服したかった。

 案の定、素振りの段階で手と足の動きを全然連動させられなくて、かなり苦労したけれど、徐々に弥生は上達していった。父の背中を追っているのだと思えば、努力も苦にならなかった。やがて弥生は、同学年の女子の間では一番強くなった。

 恋人も出来た。高瀬雅文という、剣道部の一学年上の先輩だ。背が高く、立ち居振る舞いが涼やかな人だった。しかし、周囲の賛同はあまり得られなかった。真面目すぎて堅苦しい人、と女子たちは概して批判的だったからだ。それでも、弥生は彼が好きだった。

 きっかけになる出来事が起きたのは、たまたま部活の帰りに二人で駅までの道を歩いていた時だ。コンビニに寄ろうといいだした雅文は肉まんを買い、店を出てからそれを一つ、弥生に渡した。その瞬間、弥生は思わず「好きです」と告白してしまったのだった。驚いた表情を浮かべた彼はすぐに、「肉まん、奢ったから?」と訊いてきた。弥生が慌てて首を振ると、彼は笑い、「じゃあ付き合う?」といってくれた。

 これが、弥生の人生で、最高の場面だった。

 そして、最悪の場面は、約一年後にやって来た。

 七月のある日、部活を終えて、一人で家路を辿っている時だった。弥生は若い男に声をかけられた。ある場所に行くための道がわからず、困っているという。男が地図を持っていたので、彼女はそれを覗きこんだ。静かに近づくワンボックスカーには気づかなかった。

 突然、身体に手をかけられ、後部座席に押しこまれた。車内では二人が待ち構えていて、道を聞いてきた男がバタフライナイフを広げ、脅した。突きつけられた切っ先の鋭さは、弥生を凍りつかせた。

 弥生は、こんなふうに拉致された女性のニュースを知っていた。彼女は金品を奪われ、レイプされた上に殺された。自分もそんなふうになるのだと震えた。

 弥生は、死にたくなかった。父と母を、悲しませるのは嫌だった。雅文の顔を見られなくなるのが嫌だった。友達に会えなくなるのが嫌だった。どうしても生き残りたい、この場を乗り切りたい、そう考えた。

 だからどこかもわからない山の中でワンボックスが停まり、服を脱ぐように命じられると、弥生は素直に従った。初体験は雅文と済ませていたから、知識は一通りあった。セックスぐらいさせてやればいいと、胸の内で何度も繰り返した。

 弥生はひたすら喜んでいるふりをした。男の上で腰を動かし、舌を絡ませた。口でも奉仕した。うるさいと怒鳴られるほど、たくさん声を上げた。自ら体位を変えることを懇願した。ガキのくせにとんだビッチだと罵られても、笑顔を崩さなかった。

 やがてセックスに飽きた三人は、彼女をその場に放置した。それでも弥生は、安堵に満たされた。私は死ななかった。殺されなかった。生き延びたんだ、とそのことを喜んだ。

 通りかかった軽トラックに駅まで乗せてもらい、真夜中にタクシーで自宅に戻った。母親は娘の帰りが遅いため、ずっと気を揉んでいた。事情を話すと母は驚き、朝一番で病院に連れていかれて、弥生はアフターピルを飲まされた。何もかも他人事のようで、現実感はかけらもなかった。

 家に戻ってから、母親は「警察に行く?」と遠慮がちに訊いた。それに対して、彼女は首を横に振った。せっかく恥辱に耐えたのに、また恥ずかしい思いをするのは嫌だった。それに、あれだけ積極的に応じたら、たとえ裁判になっても勝てないだろうと思った。

 母親はぼろぼろ泣き、早く忘れましょうといった。弥生も涙を流しながらうなずいた。事故に遭ったと思おう。忘れて、何もなかったように生きていこうと誓った。

 けれど、無理だった。さほど時をおかずに、異常が様々な形であらわれた。弥生は何ごとに対しても無気力になり、時折、フラッシュバックを起こして、過呼吸になった。ちょっとした物音にも過敏に反応するようになった。

 特に、自己嫌悪が甚だしかった。なぜ、私はあんな連中を受け入れたのか。そこまでして、死にたくなかったのか。プライドはないのか。ふと気づくと、弥生は自分を責めていた。何もかも嫌になり、雅文に一方的に別れを告げ、部活も諦めた。

 死ななかったことを、弥生は後悔するようになった。父はよくいっていた。剣道は心を磨ける、素晴らしいスポーツだ。お前が剣道をやってくれて、本当に嬉しいと。そういう時、父は微笑んでいた。だが、剣道に精進していたつもりでも、私は心を磨くことを怠っていたのだと、弥生は唇を噛んだ。私はひたすら生に執着した。とても、とても醜かった。

 父に合わせる顔がなかった。なので、何があったかは話すまいと決めた。海外出張から久しぶりに家に戻った父は、暗い顔をしている弥生を訝しんで理由を訊いた。予め頼んでおいたので、母は沈黙を守ってくれていた。だから、父の疑念は晴れなかった。

 父は何か悩みがあるなら、誰でもいいから相談しなさいといった。その言葉を受けて、母は「カウンセリングを受けてみる?」と、そっと耳元で囁いた。それで、弥生は田所クリニックに通うことになった。

 千尋先生は母に雰囲気が似ていて、優しい人だった。「生きたいと願うのは、当然のこと。あなたは何も悪くない」と、先生はいってくれた。その言葉は嬉しかったけれど、でもそんなふうには思えなかった。相変わらず、鏡に映る女を汚らわしく感じた。

 死にたい気持ちは、どんどん強くなっていった。待合室で声をかけられたのは、そんな時だった。顔を合わせる度に世間話をし、四度目でメアドを交換してからは、急速に親しくなった。やがて、弥生は自分の病状についても赤裸々に語るようになった。

 そして何もかも打ち明けた頃、弥生は怖ろしい話を聞かされた。

 とても、悪い女がいる。自分の娘を虐待する鬼みたいな女だ。地獄に堕ちるべき女だ。あの女は死ぬべきだ。でないと、子供が不幸になる。そんな話だった。

 けれど、それだけでは、弥生の心はまださほど動かされなかった。弥生が激しい怒りを覚えたのは、その女の過去を聞かされた時だ。

 この女は学生の頃からワルだった。知り合いの男たちを使って、気に入らない女を集団レイプさせていた。それを見物して、嘲笑っていた女だった。弥生は震えた。

 許せなかった。女であるにもかかわらず、レイプがどれほど心を傷つけるか、想像もしないなんて。そんな女だから、我が子も虐待するのだろう。確かに死ぬべき女だった。

 その香穂という女を殺せば、一億円が貰えるという。だが、そんな話を聞かされても、弥生は興味を持てなかった。お金などいらない。ただ弥生は自分の手で、女を殺したかった。そうすれば、苦しみから救われる気がした。けれど、人殺しになったら家には戻れない。首尾よく殺せたらその後は、自分も死のうと決めた。

 香穂の命を奪うついでに、軍艦島好きの先生にゲームを楽しんでもらうという話には釈然としない思いを抱いたが、先生は決して傷つけないというので、弥生は了承した。

 家を去る時、彼女はまず大事にしていた熊のぬいぐるみを抱いた。小さい頃、裁縫が得意な母が縫ってくれたものだ。「大きい熊さんがほしい」とねだったら、母は彼女の期待を上回るものをつくり上げてくれたのだ。それ以来、ぬいぐるみは弥生の宝物だった。

 それから、床の間に飾ってあった日本刀を取った。父が祖父から受け継いだ、弥生にも決して触らせなかった刀だ。それは、父の象徴だった。

 その他の用意をし、最後に刀を竹刀袋に入れて、夜中に家を出た。父と母を身近に感じながら、これで何も怖くないと弥生は穏やかな気持ちになった。今度こそ、死を超越できる。これで、安らかに死ねる。弥生は嬉しかった。

 けれどその前に、一人の女を殺さなければならない。

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