第12話 二人目は……

12


 枝にぶら下がりながら、香穂は重力に引かれて死んだ高橋を見下ろした。赤い血が、みるみる広がっていく。見ていると気分が悪くなってきたので、顔を上げて視界から外した。

 枝を伝って幹に近づき、下方の枝に脚を乗せる。するすると、香穂は器用に樹を下りていった。いつもはジムでボルダリングを楽しむだけで、外に出ることはなかったけれど、別に普段とやることは変わらない。むしろ単純な分、こちらの方が楽だった。

 樹に向かって飛んだのは、プラン通りだ。高橋に横にかわされる危険性を考慮すると、抱きつくしかなく、その態勢で踏みとどまるのは難しかった。それに、香穂は自分の体重の軽さに、大きな不安を感じざるを得なかった。ぶつかった反動で戻ろうなんて甘い考えでいたら、あいつは簡単に弾き返すかもしれない。だが、香穂も前に進めば、高橋を確実に落とせる。だから、自ら跳ぼうと決めたのだ。怒りのせいか、恐怖心は全然なかった。枝は見たところ、香穂の体重を支えられるほど充分に太いし、失敗しない自信もあった。なにより、こんな奴に殺されてたまるものかという思いが強かった。

 地上に降り立つと、顔をしかめながら香穂は横たわる高橋に歩み寄った。死体など、あまり間近で見たくはない。けれど一応、完全に息絶えていることを確認したかった。

 高橋は目を見開いたまま、まったく動かない。大丈夫だ、と香穂は安堵した。もう、こいつが追いかけてくる怖れはない。欲望に塗れた男は、死の世界へと旅立ってしまった。

 自分をしつこく何度も殺そうとした男。そう考えると、怒りがまたぶり返してくる。けれど、こうして死体を目の当たりにすると、同情心も湧いた。金に執着さえしなければ、死なずに済んだのに。愚かな男だ。

 いや、彼に対して評価を下すのは止めよう。死ねば、みんな仏だ。

 香穂は高橋の死体を前にして手を合わせ、目を閉じた。それから、走りだす。18号棟の捜索がまだ、中途半端なままだ。邪魔が入ったけれど、続行しなければならない。

 階段を上っている途中で、千尋と鉢合わせした。

「あ、遠藤さん。無事でしたか」千尋は、ほっとした表情だった。「怖かったですよ。樹に飛び移るって話は聞いてなかったし」

「すみません、心配かけて。時間がなかったものですから」

「高橋さん……亡くなりましたか」

 あまり口にしたくないという気持ちが、声音にあらわれていた。香穂がうなずくと、彼女は何ともいえない顔つきに変わった。医者であるにもかかわらず、人殺しに協力させられたのだから、それも仕方ない。それでも、「うまくいきましたね」と彼女はいった。

 屋上に連れていき、計画を説明して、服の交換を提案した時も、千尋はすぐに応じた。もうこのゲーム中は、自分も人を殺さなければいけないと覚悟したのだろう。しかも、彼女は頑張った。早めに振り向いていいと告げておいたにもかかわらず、高橋をぎりぎりまで引きつれてくれた。あれがあったから、奴を縁に立たせることができたのだ。一歩間違えば、突き落とされていたかもしれないのに、なかなか大胆な人だった。

 香穂と千尋は適当な一室に入り、もう一度濡れた服を脱いで元の姿に戻った。走る時に履いたクライミングシューズはデイパックに戻す。着替えを終えると、千尋が口を開いた。

「遠藤さんは、本当に色々思いつくんですね。今度もアイディアの元は忍者ですか?」

「えっと、そうですね。変わり身の術です」

 香穂は出鱈目に指を組み合わせて、印を結ぶ真似事をした。千尋は、頬を緩める。

「感心しました。確かに、武器がないから、高いところから突き落とすぐらいしか手段がない。そのためには屋上の縁まで高橋さんをおびき出すしかないですもんね」

「先に屋上を見ていたのが幸いしましたね。あの草が茂っている状況を知らなかったら、身を潜めて待つ発想は出て来なかったでしょうから」

「でも、咄嗟にあそこまで思いつきませんよ。遠藤さんはすごいです」

 千尋はやたらと感心してみせるが、彼女もまた、素晴らしかった。なぜ石を持っていたのか理由を訊くと、いざという時のためにデイパックに忍ばせていたという。千尋は千尋で、戦う準備を整えていたのだ。

 ハンデだなんて、とんでもない。千尋は香穂にとって、貴重な戦力だった。『敵』は千尋を攻撃できないのに、千尋は自由に行動できる。こんなに頼もしい味方はなかった。いわば、千尋は切り札だ。作戦次第では、色んな使い方ができそうだった。

 そこまで考えて、自分の変わりように香穂は驚いた。あんなに怖がっていたのに、高橋を殺し、今はもう戦うこと前提に思考している。ここまで自分は、切り替えの早い人間だったのだろうか。確かに付き合っていた男とはよく喧嘩したし、案外自分は戦闘向きの性格なのかもしれない。やはり望海は、母親に似たのだ。

 しかし、この「私」は持続するのだろうか。今度は、それを不安に感じた。今は興奮しているだけで、やがて臆病な「私」に戻ってしまうのではないか。これは、たとえるならドーピングしているみたいなものではないのか。

 この先も戦っていくためには、一時的なものではない、恐怖を乗り越える勇気を持つ必要があるのではないか。そんなことを、香穂は思った。


 それから、18号棟三階以下の残った部分を捜したが、望海は見つからなかった。17号棟、16号棟もまた、香穂たちの声を虚しく響かせただけだった。

 それでも、香穂はめげなかった。やたらと叫んで動きまわっているのに、新たな『敵』が出て来ないので、Bエリアが当たりである希望が大きくなってきたからだ。もしそうなら、もはや危険はない。日没までに、娘を捜しだせばいいだけだ。

 しかし一応、千尋を見習って、香穂は廊下に落ちていた拳大の石を拾った。次は51号棟だ。だが二人はその前に、16号棟の一室で早目の昼食をとることにした。落ち着いて食べられる時に、食べておいた方がいいと判断したためだ。先刻見た死体は、幸い香穂の食欲を減退させてはいなかった。

 パサパサの不味いアンパンを飲み下してから、香穂はさっきからずっと考えていたことについて、千尋に質問した。

「え、恐怖心を抑える方法ですか?」

 訊き返されて、香穂は顎を引いた。

「はい、高橋を突き落とした時は私、全然怖いって感じなかったんですけど、それは頭に血が上っていたせいだと思うんです。でも、そのお陰で計画通りに行動できた。だから、『敵』と戦うのであれば、恐怖を抑えることが重要なんじゃないかなって」

 たとえば、アドレナリンは腹を立てた時や命を脅かされた時などに分泌されると聞いた覚えがある。すると、血の巡りがよくなり、人は戦闘に臨む態勢をとれるそうだ。では、アドレナリンを自在にコントロールできれば、恐怖を抑えられるのではないだろうか。

「アドレナリンですか」千尋は軽く首を傾げた。「そうですね。分泌を促すには、叫んだりすると、いいようですね」

「叫ぶ?」

「ほら、合戦シーンなんかで、槍を持って『わーっ』って、喚きながら突撃するじゃないですか。あれは、ああやってアドレナリンを分泌させてるんですよ」

「ああ、なるほど」

「でも、恐怖心を完全に抑えこむのは難しいでしょう。あるとすれば、薬物とか」

「麻薬の類いですか?」

「はい。戦時中は普通にヒロポンが使われていましたが、あれなんか恐怖を抑える効果があったでしょうね」

「薬物か……何か持ってます?」

「残念ながら」

 千尋は苦笑いを浮かべる。

 話は笑いで締めくくられたが、この問題は引き続き、課題にしようと香穂は考えた。高橋には勝ったといっても千尋のお陰もあるし、次はどうなるかわからない。どんな時でも、冷静に対処すること。そのためには、自分をコントロールすることが肝要だった。

 話題は変わり、千尋が「今度は遠藤さんが何か話をしてください」といい出した。話といわれても、香穂がすぐに思いつくのは娘のエピソードしかない。それでいいというので、思いつくままに喋りはじめた。

「とにかく、活発な子で。外に出ちゃいけないっていっても、暴れるんですよね。出せ出せって。小学一年の時に一度、ガラスを蹴破りましたし」

「えっ。それは危ないですね」

 千尋は手を口に添えた。

「その上、目立ちたがりで。去年の話ですけど、えーと缶下駄っていうのかしら。空き缶に紐をつけて、それに乗るって遊びあるでしょ? その缶下駄を夏休みの自由研究で制作することにしたんですけど、あの子ったら、一斗缶を二つどこかで拾ってきて、それでつくるっていいだしたんですよ。で、穴は開けてあげたんですけど、あの子、紐を通す時に、中に残っていた油を目に入れてしまって、腫れちゃって大変だったです。それでも注目の的だったって、喜んでましたけど」

「あのう、女の子ですよね?」

「そうなんですけど、男の子と喧嘩しても勝っちゃうんですよね。皆のボスみたいです」

「あはは、素晴らしい。将来が楽しみな子ですね」

 千尋は笑う。その将来が、今危うい状況にあるのだが、香穂はそのことを指摘するのは止めておいた。

 望海の話なら、香穂はいくらでもできる。その他の娘に関する武勇伝を話して聞かせると、千尋は感心したり笑ったりしていた。


 食事休憩を終えた二人は次の建物、51号棟に向けて歩いていった。白い外観を持つこの鉱員住宅は、堤防沿いに建てられており、防潮の役目も果たしていた。窓は海に面しているが、中に室内ベランダがつくられていて、二重構造になっている。その造りに守られたため、ここの部屋はかなり原形を留めているという話だ。

 51号棟は、日給住宅の各階と渡り廊下でつながっている。香穂はその様子を目の当たりにして、現在まで崩れずに残っていることに感心した。微妙に、斜めに傾いでいる気もするが。島が賑わっていた当時は、きっとこの廊下で子供が遊んだりしていたのだろう。

 廊下を走りまわる子供たちの姿は容易に想像できた。それは、いつしか望海の顔に変わっていた。たぶん、千尋に娘の話をたくさん聞かせたせいだ。望海の思い出が、香穂の内側で溢れ返っていた。

 今年の夏、二人で区立のプールに行ったことがある。いつも一人でジムに通ってばかりなので、ちょっとした埋め合わせのつもりだった。望海は運動神経抜群のくせに、水泳だけは苦手でちっとも上達しない。だから、行くのを渋ったのだけれど、「なあに、逃げるの?」と笑顔で挑発してやると憤然とし、娘は同行を承知したのだった。

 更衣室でビキニに着替えると、スクール水着を着た望海は香穂の割れた腹筋を見て、驚いていた。小学校に上がってから、娘は一人で風呂に入るようになったので、母親の肉体の変化を知らなかったのだ。望海は「ママ、すごい」を連発し、「叩いていい?」と訊いた。許可してやると、望海は母親の腹に拳を浴びせながら、「固い、固い」と喜んでいた。

 それから、幼児用プールに望海を連れていった。娘は、二年生になっても全然進歩していなかった。手を引いてやれば、さすがにバタ脚ぐらいはできるのだが、手を離すと、途端に身体を沈めて溺れる。いくらクロールの腕の動かし方や息継ぎの仕方を教えても、駄目だった。仕方ないので、香穂はずっと小さな手を持って、プール内を動きまわっていた。

「どうして、あんたは泳げないのかしらねぇ」

 香穂は、ばしゃばしゃと派手な音を立てて脚を動かしている娘にいった。

「人にはね、『エテフエテ』があるんだよ」

「ん? ああ、得手不得手ね。難しい言葉知ってるじゃない」

 苦笑が、じわりと頬に浮かんだ。

「正弘が教えてくれた。困った時はそういっておけば大丈夫だって」

 必死にバタ脚をしながら、望海はいう。正弘君というのは、クラスで一番成績のいい男の子だ。六月の誕生日には、他の男子と一緒に家にもお祝いに来てくれた。眼鏡をかけた、なかなか理知的な顔立ちの子供だった。

 これだけ周囲に男子がいるのだから、その気になれば選び放題ね、と香穂は内心笑う。

「望海は男の子の友達がいっぱいいて、羨ましいわ。本命はいないの?」

「ホンメイ?」

「好きな子のことよ。初恋とか、まだないの?」

「ハツコイ……」

 目を上に向けて、望海は一生懸命考えている。

「んーとね、智子ちゃんは可愛いと思う!」

「その齢で、倒錯してるんですか」

 深いため息が洩れた。この子は、中身まですっかり男の子になってしまったのだろうか。まさか性同一性障害ってやつじゃないでしょうね、と半ば本気で不安を覚えた。

「違うの、好きになるのは男の子でしょ? 望海は女の子なんだから」

 噛んで含めるようにいう。すると、望海はうんうん唸りはじめた。

「あ、そうだ」

 やっと思いついたらしく、ぱっと瞳を見開く。

「へえ、いるのね? 誰?」

「チャック・ノリス!」

「なるほど、そう来たか」

 少し前に古いビデオを引っ張り出して観ていたら、望海がやってきて隣に座ったのだ。娘はアクションシーンに大喜びしていた。それが、チャック・ノリス主演映画の「地獄のコマンド」だった。

「まぁ、確かにチャックはかっこいいわね」

「うん、チャックかっけー。ママもかっこいいけどね」

「あら、私も褒めてくれるの?」

「『ボル』はじめてから、すっごくママ、かっこよくなった。だから望海、嬉しいよ?」

「……」

 鋭く、胸を突かれた心地がした。

 すっかり放ったらかしにしているのに、こんな嬉しいことをいってくれるなんて。責められて当然なのに、喜んでくれていると知って、香穂は申し訳ない気持ちになった。よくできた娘だ。でも同時に、娘に甘えちゃいけないとも思う。自分はもっと、母親らしくする必要があるのだろう。

「そっか、ありがとう」

「ママ、『ボル』上手くなった?」

「そこそこ、ね」

「望海も、泳げるようになるかな?」

「もちろんよ。継続は力なり、っていうからね」

「ケイゾク? うーん、じゃあ頑張ってみる」

 娘がやる気を出したので、早速、手を離してみた。けれど、クロールの動きをしようとした娘はすぐに犬かきになり、やがて溺れているようにしか見えなくなった。慌てて、香穂は娘の手をとった。

「やっぱり、駄目だ。ママ、手を離さないで」

「はいはい」

 そう返事し、その後休憩するまでは、ずっと娘にバタ脚だけをさせていた。

 今は望海のことを思い出すだけで、いとも容易く涙腺が緩んでしまう。香穂は表情を厳しくし、涙を止めた。娘を救わねばならない自分が、こんな所で泣いていてはいけない。

「どうかしましたか?」

 千尋が、訝しげな口調で訊いてきた。

「何でもないです」

 激しい風の音に負けないように、香穂は大きな声で返事した。それから、大量に集まっている木片や何かの配管を踏んで、歩を進める。

 一刻も早く会いたい気持ちが、心の中で、娘への言葉に変わった。

──望海。

 必ず、見つけだすから。そして、あなたのことは二度と離さない。ずっと手を握っていてあげるから。もう少しだよ。頑張って、待っていて。

 絶対に、救いだす。だって私は、あなたの母親なのだから。


 防潮階(島の中に海水が浸入した時、住居に被害を及ぼさないためのフロア)には、かつて存在した商店が面影を残していた。そこのチェックをすべて終えてから、二人は一階の捜索に取りかかった。

 痛みは少ないと千尋から聞いていたのに、下層の辺りは部屋の荒れ具合がひどかった。今まで見て来た建物と同じだ。それは、波に直接打たれるためであるらしい。しかし上の階に行くにつれて、どんどんましになっていったので、香穂は驚いた。本当に違う。頑丈な雨戸のお陰で窓ガラスも残っているし、別にこのまま使えるんじゃないかと思ったほどだ。住んでみたいかと問われれば、首を横に振るしかないけれど。

 時間をかけて、注意深く各部屋を捜索していく。順を追って上り、七階に達した時だった。排管に問題があるのか、廊下に大量の水が溜まっていた。水面には、木ぎれやらゴミやらが浮いていて汚い。

 ゴミ?

 違和感を覚え、目を凝らすと、それはビニール袋だった。ということは、最近、誰かがここに来たのだろうか。では、望海か、もしくは『敵』がいる?

 いや、それはわからない。風で、ここまで飛ばされて落ちただけかもしれない。

「うわあ……」

 千尋は小さく声を上げ、唇をへの字に曲げた。うんざりしている顔つきだ。彼女が見せたことのない表情だったので、香穂は頬を緩め、それから口を開いた。

「ここは、私に任せてください。先生は八階をお願いします」

「え、いいんですか?」

「はい」

 香穂はうなずく。嫌な予感はするものの、残りは七階と八階だけだし、大丈夫だろうと考え直したのだ。千尋は貴重な戦力だから、離れるべきではないけれど、この51号棟には『敵』はいない、と思った。もしいたら二人の声にすでに気づき、出て来ているはずだ。

 ただ待ち構えているだけかもしれないのに、この時の香穂は判断が甘くなっていた。

「わかりました。じゃあ、また後で」

 そういって、千尋は去っていく。その背中を見送ってから、香穂は水の中に足首まで埋めて進んでいった。

 まず手前の部屋から入り、「望海―っ」と声を放つ。やはり、返事はなかった。黙ってしまえば、窓を叩く風雨の音だけが残る。すぐに、気持ちが沈んでいった。こんな徒労を繰り返していると、いくら捜しても最後まで見つからないんじゃないかという気がしてくる。

 弱気が顔をのぞかせたので、香穂は気合いを入れ直した。福引だとか、今までの人生で当たったためしがないが、当選する人は確実に存在する。心配せずともずっとくじを引いていれば、いつかは当たりにぶつかるのだ。マイナス方向に考える必要はない。

 暗くならないために、望海が好きなアニメの主題歌を口ずさみながら、香穂は移動した。順番に捜索し、ついに一番端の部屋に達する。今度こそは、と神様に願い、くすんだ板張りを踏んで左側の六畳間を覗いた。

 そして、香穂は化け物でも目撃したようにひゅっと息を呑んだ。

 唐突な変化は、異様な光景として目に映った。実際は、十代と思しき女の子が膝を抱えているだけだ。だが、なぜ望海ではなく、女の子がいるのか。香穂は混乱した。

 女の子は白の真っさらなスニーカーを履き、赤いジャージの上下を着ていた。髪はショートで、額を膝頭にくっつけている。身長は、香穂よりも高そうだ。女の子にしては体格もしっかりしていて、何か、運動系の部活で鍛えている感じだった。

 全然動かないので、死んでいるのかと不安を感じた時、彼女は微かに身じろぎした。

「だ、大丈夫?」

 急いで女の子に駆け寄る。肩を揺すると、彼女は首を動かした。少しつり目の、きりっとした顔だちだ。焦点の合わない視線が、香穂の顔の上で彷徨った。

「あ……。私、眠ってた」

 その、場違いに聞こえるのんびりした声に、香穂はほっとした。とりあえず、この子はひどい目に遭わされていないらしい。

 良かった。悪夢を見るのは、自分たちだけで充分だ。

「右目の瞼、黒い」

 ふいに女の子に指をさされ、香穂は慌てて指先で擦った。メイクは昨晩、シャワーを浴びた時に落としたから、マスカラのはずはない。泥でも付着しているのだろう。そんなことはどうでもいいのに、身だしなみを指摘されるとやっぱり気になってしまう。

「手鏡あるよ、見る?」

「それはいいんだけど……あなた、高校生?」

 尋ねると、女の子は首を振り、中三だと答えた。

 きっと、この子もさらわれたんだ。そう、香穂は確信した。なにせ粕谷は、何をするかわからない男だ。でも、あいつはなぜこの子について何も言及しなかったのだろう。これは、ルール違反ではないのか。

 女の子の横にはファー布で覆われた、香穂の身長ほどもありそうな大きな熊のぬいぐるみが置かれている。まるで、着ぐるみだった。こんな特大のものは市販されていないだろうから、きっと手作りだ。その横には、白いエナメルのスポーツバッグがあった。

「お腹、空いてる?」

 女の子がぼんやりした目で訊いてくる。なんだか、マイペースな子だ。香穂はこんな時だというのに、調子を崩されて素直に答えた。

「ううん、さっき食べたし」

「何食べたの?」

「アンパン」

「それだけじゃ足りないでしょ」

 彼女はスポーツバッグから、コンビニなどで売られているおにぎりを取りだした。鮭マヨネーズ。香穂の好きな具材だ。反射的に、唾が湧いてきた。

「どうぞ」

「でもそれ、あなたのでしょ?」

「私はちゃんと食べたから」

 女の子のいう通り、部屋の隅には空になった弁当のプラスチック容器と、その上に置かれた割り箸があった。この子もまた、香穂よりは待遇が上みたいだ。

「さあ」

 おにぎりがぐいっと目の前に差しだされる。躊躇いつつも、香穂は礼をいって受け取り、包装フィルムを剥がして一口、食べた。米がべちゃっと潰れているけれど、大して気にならなかった。パサパサのアンパンよりはましだ。

 少しの間、咀嚼の音だけが響いていた。全部食べ終わると、「どう?」と女の子が訊いてくる。「美味しかったよ」と、香穂は答えた。

「で、あなた、名前は? どうしてここにいるの?」

 ようやくペースを取り戻し、肝心の質問を香穂はぶつけた。

 が、女の子は黙っている。それは、答えの半分が先に背後から与えられたからだった。

「弥生さん……」

 八階の捜索を終えたのだろう。いつの間にか戻って来た千尋が、後ろに立っていた。彼女は右手で口を覆っていて、驚いている様子だ。

 千尋はこの女の子を知っている。ということは、近親者か。粕谷は千尋を愛するあまり、その血縁の子にまで魔手を伸ばしたのか。どこまで狂っているのだろう、あの変態は。

「よし、目が覚めた」

 弥生と呼ばれた女の子は両手で頬を上下させる。それから、ぬいぐるみの位置をずらした。その陰に隠れていた何か長いものが、姿をあらわす。

 一瞥してから、香穂は慌てて二度見した。ぐっと喉が鳴る。それは──艶やかに黒光りしている鞘に収まった日本刀だった。鞘には、紐が結ばれている。

 立ち上がった弥生は鞘を握った左手を腰に持ってきて、刀をきれいに抜いた。紐をたすき掛けにして、鞘を背負う。そして左手でぬいぐるみを抱き、右手だけで刀を構えた。

 弥生は、打って変わって冷厳な声を放つ。

「じゃあ、遠藤香穂。あんたを殺すよ」


 事態を把握するのに、香穂には数秒の時が必要だった。

 それも当然だ。どうしてこんな子が、中学生の女の子が人を殺すと思えるだろう。まったくの想定外だった。激しい驚きが、脳内を駆け巡った。

 とはいえ、弥生が『敵』であるならば、こんなところにいる理由が納得できる。なんら矛盾はなかった。彼女はずっと、Bエリアにある51号棟で香穂が来るのを待っていたのだ。千尋が弥生の名を知っていたのは、彼女もまた、患者だったからに違いない。

 今ごろになってようやく香穂は、幹也に睡眠薬入りのペットボトルを渡した女の子の存在を思い出した。昨日の夜、香穂たちを罠に嵌めた少女が、この弥生だったのだろう。

 結局、Bエリアは外れだった。これで、捜索に費やした時間と労力はすべて無駄に終わったわけだ。だが、そんなことでがっかりなどしていられない。すぐに立ち上がってはみたものの、弥生の眼光に射すくめられて、香穂は一歩も動けなかった。今、彼女が刀を突きだしたら、瞬時に命は断たれる。弥生の意志ひとつで、生死が決まる状況だった。

「止めてっ」

 千尋が駆け寄ってきて、両手を広げて二人の間に割って入った。それで、香穂は息を吹き返したように行動の自由を取り戻した。

──あ、危なかった。

 今のは、殺されても仕方のない状態だった。けれど、背中を向けたら、その瞬間に刀で斬られていたはずだ。逆に、逃げようとしなくて正解だったのだと思い、香穂は暴れる心臓を右手で押さえた。

 もう弥生は、獲物に時間を与えるつもりはないらしい。微妙に位置を変えているのは、千尋の横から串刺しにするためなのだろう。それに気づいた香穂もまた、千尋を盾にして、少しずつ移動した。これでは、傍からだと喜劇みたいに見えるかもしれないが、しかし当の香穂は真剣だった。

「弥生さん、どうして? あなたも一億がほしいの?」

 千尋が哀しげな声で尋ねる。それは、香穂も聞きたいことだった。この子は、金が目当てなのか。こんな子供でも、一億と聞けば、正常な判断を失うのだろうか。

「違う」

 弥生は、押し殺した声で呟いた。

「だったら、どうして?」

 千尋は重ねて問う。弥生は答えなかった。唇を結び、眉を逆立てて、右に左にと身体を移動させている。いつ飛びかかってくるかと、香穂は気が気ではなかった。

 どうするべきか、香穂は必死になって頭を働かせた。

『敵』を殺す決意を固めたとはいえ、相手が子供なら話は別だ。さすがに中学生は殺せなかった。だが、殺らなければ殺られる。しかも、当の相手は日本刀を持っているのだ。

 どうにかして、刀を奪えれば。そうすれば、相手を無力化できる。『敵』はただの女の子となり、脅威ではなくなる。しかし、どんな方法があるのか。香穂に、良い知恵はなかった。大体、少しでも近づけば、簡単に斬り殺されてしまうではないか。

「落ち着いて、話を聞いて」

 常に千尋で身体を防御しながら、香穂は叫んだ。「お金が目的じゃないんでしょう? だったら、話し合えばきっと解決できるわ。殺すのは、それからでも遅くないじゃない」

「……」

 弥生は黙したままだ。千尋が「弥生さん」というと、彼女は「話し合いはしない」とようやく喋った。もう、香穂と言葉を交わす気すらないようだ。

「止めてよ。人殺しなんかしたら、ご両親が悲しむわよっ」

 千尋が堪りかねたように叫ぶ。これには、弥生は反応して動きを止めた。

「あなたは、お父さんもお母さんも大好きだったでしょ? ご両親のことを思い出して!」

「……」

 弥生の視線が僅かに落ちた。うまい。さすが千尋は彼女の事情を詳しく知っているだけあって、言葉が的確だ。説得が成功するのでは、と香穂はにわかに期待を膨らませた。

「その日本刀はお父さんのもの? 確か、お父さんは剣道をやってらしたのよね? あなたはそれに憧れて、剣道部に入ったのでしょ? だったら、刀を人殺しに──」

「黙って!」

 弥生は顔を上げ、声を張り上げた。

 対する千尋も、負けていない。ここが正念場と考えたのか、説得に気迫がこもった。

「遠藤さんのいう通り、話を聞いて。この人は、娘さんを捜しているだけなの。遠藤さんは、殺されるようなことは何もしていないのよ」

「どうして、そんなことがいえるの? 先生は、今日この人に会ったんでしょ?」

「それは……」

 その通りなので、千尋は二の句が継げない様子だった。

「私は千尋先生が好きだけど、先生はその人を助けたいだけなんだよね? だから、言葉が軽いよ。軽くて、信じられない」

 弥生は、千尋越しに殺意の漲った視線を注いだ。

「でも、私が信じられなくても、人殺しをしてはいけないってことはわかってるでしょ?」

「わかるけど、場合によるよ。人が人を裁くことも、時には必要だと思う」

 裁く? この子は、私を裁く気でいるの?

 千尋の後ろで背中を丸めながら、香穂は眉根を寄せる。

「どいて、先生!」

 ついに、弥生が大きく横にステップを踏んだ。

 まずい。勝負をかける気だ。凶器を持っている弥生が本気になれば、膠着状態は破れ、瞬時に決着がついてしまう。香穂は、全身がかっと熱くなるのを感じた。

 危機を察知したのは、千尋も同じだった。咄嗟に、彼女は大胆な行動に出た。

「遠藤さん、逃げてっ」

 弥生に覆いかぶさり、千尋は懸命に抱きつく。動きを封じられ、弥生は顎を上げた。

 香穂は、素晴らしい反射神経を発揮した。状況を見極めるや身体を半回転させ、すぐに走りだす。千尋がどれくらい弥生の自由を奪っていられるか、その間にどれだけ距離をあけられるかが鍵だ。腕が当たって、短パンのポケットに丸めて突っこんでいた地図が落ちたけれど、当然無視した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る